ペテロの手紙第一 1:10-12

苦難とそれに続く栄光
小アジアのクリスチャンたちは、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従う生活を送っているために 様々な苦しみにあっていました。8節に「ことばに 尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」とあったように、彼らは天国を先取りする喜びに生か されていました。これは彼らが「たましいの 救いを得ているから」だと9節に語られました。苦難の中でも、こうした喜びを経験して生きているところに、彼ら が本当に救われている者であることのしるし がありました。しかしそんな彼らもなお励ましを必要としています。ペテロは続けて彼らが得ている救いはどんなに 素晴らしく、特権に満ちたものであるかを今 日の箇所で語って行きます。三つのポイントで見て行きたいと思います。

まず、ペテロが言っていることは、小アジアのクリスチャンたちが経験している救いは、旧約の預言者たちが預言し て来た救いであるということです。預言者の 「預」という言葉は、預かるという言葉であって、彼らは自分たちの考えではなく、神からの言葉を預かって語りま した。具体的には彼らの内におられる御霊が 語られるままに語りました。ここでその御霊が「キリストの御霊」と言われているのは、新約時代にキリストの御霊 として現れたのと同一の御霊が彼らの内にも おられたということです。しかし今日の箇所から分かることは、預言者たちは御霊によって預言しつつも、分からな いことがあったということ。自らの口で語り つつも、自分自身が十分理解できないこと、自分たちの時代にではなく後の時代にこそ当てはまるメッセージもあっ たということです。そのことが12節で「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための 奉仕であるとの啓示を受けました。」という言葉に示されています。彼らはその「後の時 代」に関して御霊が示されたことを具体的に知りたいと願い、熱心に尋ね、細かく調べました。しかし、結果として 彼らにそのことはぼんやりとしか良く分からな かった。明確な輪郭を描くことはできなかった。そのように預言者たちが求め、味わいたいと願った救いに、小アジ アのクリスチャンたち、また新約時代に生き る私たちクリスチャンはあずかっているのです。もちろんこのことは、旧約時代の人は救われなかったとか、メシヤ の祝福に少しもあずからなかった、というこ とではありません。彼らはその時代に許された範囲で救い主を仰ぎ見、その方による救いにあずかりました。しかし 預言が指し示した本体であるイエス・キリス トが実際に現れた前と後では、受ける恩恵が大きく違うと言うのは本当です。イエス様はマタイ13章16~17節 でこう言われました。「しかし、あなたがた の目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げま す。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの 見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞 けなかったのです。」 すなわち、旧約時代の人たちが見たいと願いつつもかなわなかった祝福、イエス・キリスト をはっきり仰いで救われるという恵みを小アジアのクリスチャンたちは受けているのです。 これは大いなる特権であるということをペテロは述べているのです。

第二番目のポイントは、ではその預言者たちが預言したメッセージの内容は何か、ということです。11節に「キリ ストの苦難とそれに続く栄光」とあります。これによると、やがて現れるメシヤはまず苦しみを受けなくてはなりま せん。なぜ神が遣わされるメシヤ、救世主が苦しまなくてはならないのか。それは彼らにとって謎めいた内容でし た。とにかくその苦難がまず先に来る。しかしそれで話は終わらず、その苦難の「後」に栄光が来る。このような 「順番」があるこ とを預言者たちは御霊に示されて語りました。果たしてこれはどんな状況で起こるのか、いつ起きるのか、彼らは非 常な関心を持って調べました。しかし先に見 たように、彼らはこれらのことが自分たちのためではなく、後の時代の人々に関することだと示されていました。だ からと言って彼らは、「何だ、自分たちには 関係ないのか」と言って語ることをやめる、ということをしなかった。後の時代の人々、すなわちあなたがたに奉仕 するために彼らは語り続けた、とあります。

そして、その預言は今やイエス・キリストの生涯においてはっきりと成就しました。キリストはまず私たちの身代わ りとしての十字架の苦しみと死とに向かわれ ました。弟子たちにとってそれはとても受け入れられない話でした。この手紙を書いたペテロも、イエス様がご自分 の受難について初めて語られた時、それに反対し、「下がれ、サタン!」とイエス様に言われてしまいました。しか し、旧約からの預言の通り、まず苦難が先に来る。それを経て初めて栄光がある。そしてキリストは確かに苦難の道 を通って栄光へ入られました。

ペテロは、このようなキリストの苦難と栄光に関するメッセージは「あなたがたに対する恵み」だと12節で言って います。これはどういう意味でしょうか。確 かに私たちのために苦難を受け、栄光へ入られたキリストを信じることによって、私たちもやがて栄光の救いに入れ て頂くことができます。しかし「苦難とそれ に続く栄光」という道は、ただキリストにだけ当てはまることではありません。キリストを信じて救われるとは、キ リストと結ばれて救われるということです。 ですからキリストと結ばれるなら、私たちもキリストと同じく「苦難とそれに続く栄光」という道を通って行かなく てはならない。そして実にこれこそ、ペテロ がここでこのテーマを取り上げた目的でしょう。キリストの苦難は、それに続く栄光へと至るための序曲、あるいは 前奏曲であったように、小アジアのクリス チャンたちが今経験しているキリストのための苦しみも、決して意味のない無目的なものではないのです。彼らはこ の苦難を通って、キリストと共に、「それに 続く栄光へ」進むという恵みの道を導かれている者たちなのです。

三つ目のポイントは、このような救いのドラマを、御使いたちははっきり見たいと願っている、と12節後半に記さ れていることについてです。ここで「はっきり見たい」と訳されている言葉は、「覗き込む」という意味の言葉で す。何かを覗き込む時、その人は体を捻じ曲げ、横にかがめたりします。そんな格好をし てでも、それを見たいとその人は思う。御使いたちにとっても「苦難とそれに続く栄光」というドラマは神秘です。 彼らは栄光の神であるイエス様がご自分を低 めて貧しい人としてベツレヘムの飼い葉おけに誕生された時、夜空に現れて賛美しました。それは彼らにとって驚く べき神のみわざ、崇めるべきみわざでした。 そしてそのイエス様は苦難の道を最後まで歩んで、ついに復活されました。そしてそのイエス様に結ばれて、人々が 救われて行くのを見ています。罪のゆえに神 から切り離されて霊的に死んでいた者たちが、キリストに結び合わされ、いのちを与えられ、救いの道を歩んでい る。しかも今は大変な苦しみの中にあるにもか かわらず、やがてはイエス様と同じように栄光へ至るようにと導かれている。これはものすごい贖いのドラマです。 私たちも映画やテレビのドラマを見ていて、 それが最初の状況からどのように変化し、最後のクライマックスはどうなっていくのか、ドキドキしながら見つめ、 一瞬たりとも目を離すことができない状況に なるように、天使たちもそうなのです。地上で一人の人が悔い改めて救われる時、天の御使いたちに大きな喜びがわ き起こるとルカ15章にあります。しかし、さらにすごいことがこれから起こって行く。キリストの贖いを通して、 信仰を持った者たちが、何という栄光へ導かれて行こうとしているのか、彼らは興奮しなが ら、また驚嘆しながら、また歓喜に包まれながら見ている。言うならばこの世界は神の贖いのドラマが上演される舞 台であり、そのストーリーの脚本家および監督は神様、観客席で見ているのは御使い、そして、舞台の主演者は私た ち。私たちはそのようにして今この時間も、天の御使いたちの目をくぎ付けにしているような存在である、というこ とを考えてみたことがあるでしょうか。

私たちは、果たして今、キリストに従うゆえに、何らかの苦難、苦闘、困難を経験して生きているでしょうか。そん な私たちにペテロが示しているのは、「苦難 とそれに続く栄光」という順番です。これは私たちの救い主キリストが歩まれた道であり、キリストに結ばれた私た ちが歩く道でもあります。ですからもしキリ ストと結ばれて今、色々の苦闘の内にあるなら、私たちのこれから先には大きな望みがあります。この苦難の先に栄 光が用意されているのです!それがどんなに 素晴らしい、びっくりするような結末となるかを私たち以上に知っている天使たちは、覗き込むようにして今この時 も私たちを見つめています。彼らが見たいと 思っている最後のクライマックスはいよいよそこまで迫って来ている、という時に今はあるのです。私たちはこの神 の素晴らしい救いのドラマの中に生かされて いることを感謝し、このことを改めて信仰によって喜ぶ者とさせて下さい!と祈りたいと思います。世界の「歴 史」、ヒストリーは、ヒズ・ストーリー、すなわ ち神の歴史と言われますように、神こそがこの歴史を一切支配し、導いて行かれます。今どんな悩みの中にあって も、この驚くべきドラマの脚本を書き、それを 確実にプロデュースしておられる神の御手に信頼して、周りの人々の意見を恐れて振り回される生活ではなく、キリ ストに従って「苦難とそれに続く栄光」とい う確実な祝福の道をしっかり歩む者へ導かれて行きたいと思います。