ペテロの手紙第一 1:17-21

恐れかしこんで
この手紙が宛てられた小アジアのクリスチャンたちは、キリスト教信仰を持って生きているために様々な苦し みの内にありました。特に周りの人々から迫害され たり、嫌がらせをされる中にありました。しかしペテロはそんな彼らを冒頭の1節で、寄留している外国人にたとえ ました。クリスチャンがそのような扱いを受 けているのは、クリスチャンがこの世に属する人ではないということを示しています。彼らは天国に属する民なので す。こ世にある間、クリスチャンはこの世の 人たちと同じように歩め!というプレッシャーを受けるでしょうけれども、それに屈してはならない。むしろ天国人 の誇りを持ち、そのことを証しするような生 活をせよ、と勧められています。

13~16節では、聖なる神にならう生活を目標とせよ!と言われました。前回、14節の訳の問題を取り上げて申 し上げましたが、そこで言われていたことは、私たちは新しく誕生させられたことによって「従順の子ども」という 新しい性質を頂いているということでした。以前とは違う、神に従う新しい心、新しい性質を頂いている。もちろん まだまだ罪との戦いが続いていますが、その一方でしっかり押さえておくべきは、私たちは神の恵みを頂いて以前と は違う霊的状態 に置かれているということです。そのことを受け止め、感謝して、以前と同じ生活ではなく、聖なる天の父になら い、聖なる香りをあらゆる行ないに漂わせる生 活を目標として歩め!と言われました。

今日はその続きです。17節では「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる天の父を恐れかしこむ生活」が勧 められています。まず今日の御言葉で心に 留めたい一つ目のことは、私たちが父よ、とお呼びする天の父は、一人一人を公平にさばかれるということです。ク リスチャンはキリストにあって罪をきよめられ、神の子どもとされたから、もうさばかれないとは聖書は言いませ ん。確かに永遠の死に投げ込まれるというさばきからは解放されていますが、やがての日に 一人一人の行ないが調べられます。2コリント5章10節にこうあります。「私たちはみな、キリストのさばきの座 に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体 にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」 その際に大事なことは、神のさばきは公平である ということ。クリスチャンだから甘く採点さ れるということはない。そういうところからはいい加減な生活しか出て来ないでしょう。そうではなく、神は公平に 私たち一人一人の行ないを調べられます。1 コリント3章にありますように、イエス・キリストという土台の上に金、銀、宝石で家を建てた人は、やがてのさば きの火の中を通ってもそれが残りますが、 木、草、わらで家を建てた人は、自分自身は火の中をくぐるようにして助かる一方、その建物は燃えてなくなりま す。そこには八百長がありません。さばきは全 く公正になされます。このことを真剣に受け止めるなら、私たちの今日の生き方はどう変わって来るべきでしょう か。それはペテロがここで言うように、この方を恐れかしこむ生活でしょう。世の人々が心の赴くまま、好き勝手に 歩んでいる中、神の民にはこのように、公平にさばかれる方を仰いで恐れかしこむ生活が見 られなければならない。

しかし、これはやがてのさばきの日を思ってビクビクし、常に恐れと不安の生活を送るということではありません。 ペテロは18~21節で神を恐れかしこむ生 活へと私たちを駆り立てるより深い動機について語っています。18節の最初に「ご承知のように」とありますよう に、これから語ることはすでに小アジアのクリスチャンたちが知っていることです。そのすでに知っていることを しっかり心に留める時に、神を恐れかしこむ生活が正しく導かれるのです。二つのことが語 られています。

一つは、私たちの贖いのために尊い代価が支払われたということです。贖いという言葉は、奴隷状態にある者を身代 金を払って買い戻し、自由にするという意味 の言葉です。つまりここから分かることは、私たちは以前は束縛の状態にあったということです。特に父祖伝来のむ なしい生き方に縛られていた。まことの神を 知らず、自分の好きなものを神として拝むけれども、目的が定まらず、何をやっても空しい結果にしか行き着かない 霊的暗闇の生活です。その空しい束縛状態から私たちはまことの神を知る、人生の目標が定まった、真に意味ある生 活へと贖い出されました。このためにはとてつもない代価が支払われたのです。奴隷解放 のためには身代金が必要ですが、私たちの贖いのためには、銀や金のような朽ちるものではなく、キリストの血とい う尊い代価が支払われました。傷も汚れもな い小羊のように、全く罪のしみのない、この上なくきよく尊いキリストの血です。そしてすべての上にある父なる神 がこのことを良しとして導いて下さいました。このことを深く心に覚え、感謝する時、私たちは天の父を真に恐れか しこむ歩みへ導かれるのではないでしょうか。

さらに、ペテロは20~21節でもう一つのことを示しています。それはこのキリストによる贖いは、神の永遠の昔 からのご計画に基づいているということで す。20節に「キリストは、世の始まる前から知られていましたが」とありますが、これは世界が創造されるよりも 前から、神はキリストによる贖いをご計画下 さったということです。またそれは「あなたがたのために」という目標をもってなされたと言われています。この手 紙の読者である小アジアのクリスチャンたち と同様、今日の私たちも福音を聞いて、イエス・キリストによる救いを受けましたが、神は何とそういう私たちが救 いにあずかるために、キリストによる贖いを 永遠の昔からご計画し、実行された。そして21節に神は「死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を 与えられた」とあります。キリストの復活 は、私たちの罪の身代わりを果たそうとしたキリストのみわざは成功した!神に受け入れられた!というしるしであ り、神はキリストを信じる私たちの罪を赦し て下さった!という宣言です。そして神はさらにキリストを栄光へ導かれました。これは私たちもやがてこの方と共 に栄光に達することができるという保証で す。神はこのようなプランを永遠の昔から立て、御子の血をもって私たちを贖い出し、さらには栄光へと至る完全な 救いの道を用意して下さいました。このような神を知っているなら、どうしてその知識が私たちを正しい意味で神を 恐れかしこむ生き方へ導かなくて良いものでしょうか。

18節でペテロが「ご承知のように」と述べたように、ここに示されている原則は、正しい知識をしっかり押さえる ことが、正しい歩みへと私たちを動機づけ るということです。正しい生活の前に正しい教理があります。私たちに必要なのは、ペテロが「ご承知のように」と 言っていることを本当に知っているのか、と いうことです。私たちの今の生活のためには、銀や金のような朽ちるものではなく、キリストの血という尊い代価が 払われました。その贖いは世界の始まる前か ら神が私たちのためにご計画下さったことであり、さらに私たちがこれから栄光に至るための道もしっかり敷いて下 さっています。私たちは何という救いを神か ら頂いている者たちでしょう!このことが私たちの神を恐れかしこむ生活の動機となるべきことなのです。

やがて、私たち一人一人は御前に出て、地上の歩みを評価されます。これは確かに背筋を正される真理です。しかし 私たちはその日が私たちの感謝と愛を神に証 しすることができる日となることを願って生活したいのです。もちろん地上にある間、私たちは罪を犯し続け、かの 日に御前に立つ時も、それ自身では罪にまみ れた者であるでしょう。そういう私たちはただキリストにあって罪赦された者として御前に立つでしょう。しかし今 日のペテロの勧めに従って神を恐れかしこむ 生活をその日まで重ねて行くなら、私たちはやがての日に、自分が神に感謝し、神を愛して歩んで来たことを神に証 しできるのです。そして神はそのことを喜ん で下さるのです。ですからその日に向かって私たちがなすべき生活とは、消極的に言えば神が望まないこと、悲しむ ことを注意深く避ける生活です。そして積極 的には神の御言葉に従う生活、神にならう生活をすることです。そのように神を恐れかしこみ、やがて御前に出る準 備を日々の生活の中ですること、その日に神 が私たちの地上の人生をすべて調べて、少しでも私たちを喜んで下さるような生活を今ここですること、そこに私た ちを贖い、栄光へ救って下さる神への私たち の感謝と愛を現わして行くこと。そのことをペテロは私たちに命じているのです。