ペテロの手紙第一 1:22-25

互いに愛し合いなさい
皆さんはキリスト教の救いをどのように考えていらっしゃるでしょうか。キリスト教の救いにおいてまず大事 なのは神との関係です。罪を犯して神の敵となって いた私たちにとって、早急に解決しなければならない問題は神との関係。特に神との和解が大事です。神はその道を キリストにあって備えて下さいました。キリ ストにあって私たちは罪を赦して頂き、神に大胆に近付くことができます。そしてさらには神の子どもとされ、神に 似る聖なる者へ変えられて行く歩みが備えら れています。しかしキリスト教の救いはただ単に神との関係で終わるものではありません。それに劣らず、私たちの 間の愛の関係についても聖書は述べていま す。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」という第一の命令と、「あなた の隣人をあなた自身のように愛せよ」という 第二の命令は結びついています。この二つ目のことが今日の箇所のテーマです。

ペテロは迫害下にある小アジアのクリスチャンたちにこの手紙を書きました。まず彼らがあずかっている救いはどん なに素晴らしいものであるかを1章の最初 から12節まで語り、その救いに対する応答として、13節からは神との関係に関することが勧められました。特に 「聖なる方にならって、あなたがた自身も聖 なるものとされなさい」、また「地上にある間の時を、この方を恐れかしこんで過ごしなさい。」と言われました。 それに引き続いてペテロは今日の箇所から兄 弟愛について語ります。すなわち神の救いに生きるとは、こちらの側面にも生きることであるということです。神の 救いは縦ばかりでなく、横にも広がるもので す。特に、ペテロは横の関係の中でも、クリスチャンの兄弟姉妹同士の関係について語ります。その中心的命令は 22節後半の「互いに心から熱く愛し合いなさい。」という部分になります。

ペテロはこの命令を語る際、その命令に従うべき根拠、あるいはこの命令に従うことができるための神の恵みもセッ トで述べています。特にクリスチャンは今やどういう者とされているのか、中心的な命令の前後に一つずつ、計二つ の私たちがしっかり心に受け止めるべき真理を語っています。その言葉に聞いて、私たちはペテロが語る兄弟愛の実 践へ導かれたいと思います。

まず、その兄弟愛の命令に先立って述べられているのは22節前半です。「あなたがたは、真理に従うことによっ て、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱く ようになったのですから、」 ここにクリスチャンは「たましいを清めた」とあります。すなわちクリスチャンは今 や以前とは状態が変わっているということで す。聖なる神と共に歩むにふさわしい者となるため、クリスチャンは清められた者です。それは「真理に従うことに よって」、すなわち福音の真理に応答するこ とを通して、です。もちろん、私たちを清めるのは、1章2節に記されましたように御霊なる神様ですが、その御霊 の聖めにあずかる際には人間の応答も必要とされるということです。そして、ここで大事なのはその結果、私たちは どんな状態にあるか、ということです。ここに言われていることは、たましいを清められた人は偽りのない兄弟愛を 持つ、ということです。ただ神との関係に生きるだけでなく、兄弟姉妹への愛を抱き、そこに生きる人である。 時々、神に対してのみ非常 に敬虔そうに見える人がいます。礼拝や神のことには熱心だけれどもいつも一人。兄弟姉妹との交わりには関心がな さそうで、もっぱら神との間でだけ生きている。しかし、神との正しい関係に入れられた人は、同じく神と正しい関 係に入れられた兄弟姉妹の共同体の中にも入れられました。その兄弟姉妹に対する愛を、 たましいを清められた人は必ず抱いているのです。

それは「偽りのない兄弟愛」と言われています。すなわち見せかけのものでなく、表面的なものでないということで す。私たちはこのことを経験しています。 信仰を持っている人と出会うと、もう何十年も前から知り合いであるかのような感覚を持つものです。初めての人な のに、特別な親愛の情を抱きます。本当の意味で兄弟姉妹、同じ家族の一員と思うのです。これは信仰を持たずには あり得ないことです。これは確かに神のわざであり、神が私たちの間に造り出して下さっ ている祝福です。

ペテロはこのことに訴えています。私たちはたましいを清めて、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのだから、 益々その兄弟愛の特性に生きなさい!と。単に私たちに偽りのない兄弟愛が与えられていることが分かるという状態 にとどまるのではなく、その関係を益々発展・成長させて行くように!それが神の救いに いよいよ豊かにあずかって行くことなのです。

ペテロはこの命令を語る際、3つの言葉を加えています。原文の順番でまず先に書かれているのは「心から」。すな わち、見せかけでなく、私たちの中心的部分 から、ということでしょう。また、「互いに」とあります。ある人は兄弟愛を傾ける側の人で、ある人はそれを受け るだけの人というのではありません。お互いに、一人一人が取り組むのです。そして、三つ目に「熱く」と言われて います。ほどほどにというレベルではなく、エネルギーを傾けて、ということでしょう。あるいはこの言葉には「変 わらずに」とか「継続的に」という意味合いがあるようです。すなわち一時だけ感情的に燃えて、次の瞬間には冷め てしまうのではなく、状況に左右されず、変わることなく、粘り強く愛し続けるということです。

こう述べてペテロはこの兄弟愛の命令に従うためのもう一つの真理を23節以降で加えます。こちらで言われている ことは何でしょうか。それは、あなたがたは朽ちる種からではなく、朽ちない種から新しく生まれたという特別な力 の下にある者たちである、ということです。種は小さいものですが、特別な力を秘めて います。あの小さな粒のようなものが地に蒔かれると、やがて想像もできないような大きな実を実らせます。時々、 アスファルトの道路を突き破って芽を出し、 花を咲かせる植物を見ることもあります。一体あの種のどこにそんな力があるのか、と驚かされます。しかしこの世 にある種はみなやがて朽ちます。時が来て、 衰え、必ず滅び果てます。それに対してペテロはあなたがたは違う、と言います。あなたがたは朽ちない種から生ま れた。種はみな終わりがあるはずなのに、その終わりがないというこの世の法則からは考えられない特別のパワーを 持つ種から。具体的にそれはどのように彼らに起こったのでしょう。ペテロは「生ける、 いつまでも変わることのない、神のことばによる」と言います。そしてこの神の言葉の特別な力、永遠の力について 語っているイザヤ書40章の言葉を引用しま す。24~25節前半:「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しか し、主のことばは、とこしえに変わることがな い。」 ある人は、人間が花にたとえられて面白くなく感じるかもしれません。人間はそんなに弱くない、そんなに 下等な存在ではない、と。しかし言いたいこ とは、人は草と同様、やがて必ずしおれ、散ってしまうということです。どんなにある時に栄えていても、やがてし なびて、滅んで行く。草や花もその途中では 輝く時があるでしょう。イエス様は、あの栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていませんで した、と言われました。その花のように、人間はそこまで達しないとしても、輝く時があります。肉体的にもそうで す。今日は若さがもてはやされ、多くの人は少しでも若く見られることに一生懸命です。 もちろん適切なレベルで自分を飾ることは良いことですが、悲しい現実は人間は草花のように必ずしおれる運命にあ るということです。この定めには勝てませ ん。私たちの才能や能力についても同じです。しかし、そういう中にあっても「主のことばは、とこしえに変わるこ とがない!」 
 
もともとこの言葉が語られたイザヤ書40章は、バビロン捕囚からの解放の約束が語られている箇所です。当時はバ ビロンが世界の覇者であり、圧倒的な力を 誇っていました。しかし、イザヤはそんなバビロンさえもやがて崩壊する、と語りました。そういう中で主のことば こそ永遠に堅く立ち続ける!そしてペテロが最 後に言っているのは、あなたがたに伝えられた福音が、この主のことばだということです。すなわちあなたがたはこ の生ける、いつまでも変わらない神の永遠の 御言葉によって誕生し、今も生かされている者たちである。そういう新しく造られた存在として、あなたがたは互い に心から熱心に愛し合う、という神が備えら れた新しい歩みに進むべきであるし、またそのことができる力のもとに置かれている、とペテロは言っているので す。

私たちが今日の箇所を通して感謝を持って受け止めたい真理は、私は生ける、いつまでも変わることのない神のこと ばによって、超自然的に新しく生まれた者 であるということです。主の言葉こそ生ける、いつまでも変わらない特別な力を持つ言葉。その言葉が私のところに 届けられ、私がそれを受け止め、それを内に 宿したことによって私たちはこの神の言葉が持つ永遠の力に生かされる者となった!このことを受け止めないなら、 私たちはペテロの命令に従う動機も力も持て ません。自分自身は以前と何も変わっていないと考えますから、互いに心から熱く愛し合いなさいと言われても、人 間的に努力をする次元以上にはなりません。 しかし、もしこのペテロの言葉に従って、自分が導かれた新しい霊的状態を受け止めるなら、そこには当然、新しい 展望が開けて来るはずです。その新しい歩みとは、聖なる神にならう歩みと同時に、心から互いに熱く愛し合う生活 です。神が導き入れて下さった救いとは、神との関係に生きる生活だけでなく、兄弟愛に生きる生活です。私たちは このどちらかだけを強調し、片方を軽んじてしまってはなりません。往々にしてありがちなのは、神に対しては熱心 に歩むが、兄弟姉妹 と愛の関係に生きることについてはさほど熱心ではない、という生き方です。しかし、このペテロの手紙において も、また聖書全体においても、互いに愛し合いな さいというメッセージは決してマイナーなものではなく、神に向かって正しく歩むことに劣らず重要で、中心的な事 柄です。ここに歩むことも神が召している祝福です。そして、私たちはその歩みをすることができる力の下に置かれ ているのです。

私たちは、自分が生ける、いつまでも変わることのない永遠の力を持つ神の言葉によって新しく誕生させられた者で あることを、今夕もう一度感謝し、神を礼拝 したいと思います。ペテロは迫害の中にあるこの手紙の読者に、彼らがあずかっている素晴らしい救いについて述べ つつ、その応答として、聖なる神にならう生活と共に、兄弟愛に生きる生活について勧めました。迫害されていると いう緊急事態にあって、兄弟愛に生きている暇などないとは言いません。これも神が下さった救いの祝福です。そし て私たちは神の力によってそこに生きることができる者たちとされています。その神の力と祝福を感謝しつつ、色々 な困難の中でも この兄弟愛に生きることによって逆に主に強められ、私たちをこのように「互いに心から熱心に愛し合う」愛の関係 に生きることへ導いて下さった神をほめたたえ、証しする生活へ進みたいと思います。