ペテロの手紙第一 2:4-8

生ける石として
この手紙の受取人である小アジアのクリスチャンたちは、イエス・キリストを信じて生活するために様々な苦 しみに会っていました。クリスチャンであるという ことで周りの人々から迫害されたり、嫌がらせをされる中にありました。彼ら自身はイエス様によって与えられた救 いを心から喜んでいます。2章3節にも「あ なたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」と記されていました。しかしみんな がそのように喜んでキリストを受け入れるわ けではない。むしろそうでない人々によって、この手紙の読者たちはいじめられ、苦しめられる毎日の中にありまし た。そんな彼らを励まし、しっかりと信仰に 立つ歩みができるようにとペテロはこの手紙を書いています。そして特に今日の箇所では、彼らがより頼む石である イエス様に目を向けさせています。ここでの 「石」とは、道端に落ちている石ころではなく、建物の土台となる隅のかしら石、礎石のことです。小アジアのクリ スチャンたちは、この礎石であるイエス様に 結ばれ、イエス様という礎の上に築き上げられています。そんな彼らにとって大事なこと、また私たちにとって大事 なことは、自分の悩みや苦しみばかりを見つ めるのではなく、まず礎石なるイエス様をしっかり見ることです。そこに私たちを励まし、支える素晴らしい真理が あるのです。

まず、ペテロがイエス様について述べている一つ目のこと、それは主は「人には捨てられた石」であるということで す。この手紙の読者たちは周りの人々から拒 絶され、捨てられるような扱いを受けていましたが、それは彼らだけではない!ということです。礎石であるイエス 様ご自身がまずそうであった!イエス様はご 自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れませんでした。使徒の働き4章27節には「事実、ヘロデとポンテ オ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒に、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らって この都に集まり、云々」と書かれ、異邦人もイエス様に逆らい、イエス様を拒絶したと言 われています。私たちはまずこの事実をしっかり心に覚えるべきです。イエス様はかつてヨハネ15章でこう言われ ました。「もし世があなたがたを憎むなら、 世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。・・しもべはその主人にまさるものではない、 とわたしがあなたがたに言ったことばを覚え ておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」 その通りのことが起こっている だけです。今さら慌てて騒ぐようなことは何 も起こっていないのです。むしろ自分たちが周りの社会から憎まれ、迫害されているのは、イエス様としっかり結ば れている「イエス様と運命共同体」である者のしるし、その証明書のようなものでさえあるのです!

しかし、ペテロはこのことと共に、イエス様についてもう一つのことを述べています。それは主は「神の目には、選 ばれた、尊い、生ける石」であるということ です。ここに人の評価と神の評価には大きな違いがあることが示されています。人々がどんな評価をイエス様に下そ うとも、神の評価ははっきりしています。ペ テロは6節で「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。」というイザヤ書28章6節の言葉を引用 します。その預言通り、イエス様が現れた時、洗礼の時に、天からこのような声がありました。「これはわたしの愛 する子。わたしはこれを喜ぶ。」 またイエス様が3人の弟子を連れて高い山へ登られ、その御姿が変貌した時も、 天から「これはわたしの愛する子。わたしの選んだ者である。彼の言うことに聞きなさい。」という声がありまし た。言うまでもなく、最も大事なのは人の評価ではなく、神の評価です。人間がどんなにたくさん集まって、何かを 大声で主張しても、神の評価こそ決定的なものです。その神の評価のもとで、一人一人はどういう判断を下したの か、が逆に評価され、さばかれることになります。

ではまず、イエス様を捨てた人たち、また主に従うクリスチャンを軽蔑し、拒絶している人々はどうなるのでしょう か。彼らはやがての日に大いなる恥を見るこ とになります。7節後半に「より頼んでいない人々にとっては、『家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石と なった。』のであって」とあります。自分たち が価値なしと判断して捨てた石が、何と神によって礎の石となった。そこにおいて彼らの判断の誤りが明らかにされ ます。そのことにおいて自分たちを賢いと自 任し、誇っていた彼らは恥をかくのです。それだけではありません。8節に「つまずきの岩、妨げの岩」とありま す。彼らは自分たちが捨てた石に不注意のまま 生活することによって、それにつまずき、衝突するのです。その見捨てた石が彼らの行く手を妨げ、彼らを転ばせ、 災いと害をもたらすのです。8節の最後に、 彼らがそのようにつまずくのは、「みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」 と記されています。彼らがこのようにしてつ まずき、滅びに至ることは、何と前もって神によって定められていたと言われます。もちろんそう書いてあるからと 言って、神を責めることはできません。なぜなら彼らがつまずいたのは、彼らが「御言葉に従わないからですが」と 書いてあるからです。彼らは神に強制されて、みことばに従わないようにさせられたので はありません。彼らは自分の意思でキリストを捨て、その御言葉も捨てました。しかし奇しいことは人間がそのよう に神に逆らったからと言って、神の計画に何 か狂いが生じたわけではないということです。御言葉に従わなかったことは100%彼らの責任でありつつ、何とそ れが永遠の昔からの神の定めを成就する!と 言われる。全くご計画通りであった!というのです。神の恐るべき偉大さ、聖さ、そして私たちの小ささを思わされ る御言葉です。私たちは自分の不信仰・不服 従によって、このように神のご計画を成就してしまうという悲惨に至ることがないようにと戒められます。

では、もう一方の、神が選んだ礎石なるキリストに信頼する者たちはどうでしょうか。その者には大いなる誉れがあ ります。7節に「したがって、より頼んでい るあなたがたには尊いものですが」とありますが、この訳のままですと、キリストが尊いという意味になりますが、 信頼できる学者たちは異口同音に、ここはキリストにより頼んでいるあなたがたが尊い、あるいはあなたがたに誉れ がある、という意味だと言っています。どういう意味で誉れがあるのでしょう。まず第一に、それはクリスチャンの 評価が神の評価と一致するからです。人々から迫害され、嫌がらせをされる中でもキリストに信頼し、キリストによ り頼むクリスチャン は、やがての日に、その判断こそ神と一致する正しい判断であったことが明らかにされて、大いなる誉れを受けま す。また第二に、キリストは今日の箇所で「生ける石」と言われています。石が生きているはずはないではないか、 とある人は思うかもしれませんが、ここではどちらのイメージも大切です。キリストは神が建 てる家の礎石というイメージで「石」と言われていますが、冷たい死んだ石ではなく、いのちを豊かに与えることの できる生けるお方です。そういうお方の上に築き上げられる者として、私たちも「石」というイメージで表現されつ つも、同じく「いのちある石」と言われています。つまり建物の構造という観点から、私 たちは礎なるキリストの上に積み上げられる石なのですが、同時にキリストの持つ生き生きとした復活のいのちにつ ながれて、豊かに命を受け、成長して行く石 でもあるのです。ですから、そのようにして建てられる家は、命のない単なる石でできた家ではなく、5節で「霊の 家」と言われています。礎なるキリストからい のちを豊かに汲んで、霊の祝福にあふれた家を構築して行くのです。そのことにおいて私たちにはこの上ない誉れが 与えられます。そして第三に、私たちがこの ような霊の上に築き上げられる目的として、5節後半に「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ば れる霊のいけにえをささげる」ためとありま す。神ご自身が住まわれる霊の家として成長するということは、私たちが聖なる祭司として神に心から感謝して仕え る者たちとなるということを意味します。そこでささげる霊のいけにえには、感謝、告白、賛美などの口を用いての いけにえも含まれますし、あるいはからだと行ないをもって感謝を現わす礼拝の生活も含 まれます。また具体的な持ち物、物質的なものをささげる礼拝の生活も含まれますし、この家の素晴らしい主人であ る神を宣べ伝える宣教と証しの生活も含まれ ます。このようにキリストを礎石として、そこから豊かに命を受け、いよいよ神に仕え、神を喜ぶ歩みを導かれて行 くことこそ、大いなる祝福です。そこに神が 永遠の昔からご計画され、尊い礎石を土台として現わそうとされる霊の家が建て上げられて行きます。そして、その 神の家の使命と目的が、さらに次の9~10節で語られて行くことになります。

果たして、私たちはこ神の目に選ばれた、尊い、生ける石なるキリストにしっかりつながって歩んでいるでしょう か。私たちも主を信じて歩むために、この世か らさげすまれたり、拒絶されるような扱いを受けることがあるかもしれません。馬鹿にされたり、見下されたり、ま さに捨てられるような扱いを受けることがあ るかもしれません。しかし、キリストは、神の目には選ばれた、尊い、生ける石です。この石の上に築き上げられる 者にこそ真の誉れが与えられます。人の評価 を恐れるあまり、この特権を私たちが投げ捨てることがありませんように。生ける石の上にしっかり築き上げられて 行く者たちでありますように。神はキリスト にあってご自身が住まわれる霊の祝福で満ちた家を建てて行かれます。その神が据えられた尊い礎石、生ける石に しっかりつながり、その生ける石から豊かにい のちを汲み出し、成長し、神の素晴らしい祝福のご計画に仕えて行く特権と光栄に歩んで行きたいと思います。