ペテロの手紙第一 2:9-10

宣べ伝えるため
今日の9節は「しかし、あなたがたは」と始まります。前の4~8節では、主により頼んでいる人々とそうで ない人々が対比的に語られました。すべての人はこ の二つのグループのどちらかに分けられます。そして主により頼んでいる小アジアのクリスチャンたちは、主により 頼んでいない人々から迫害され、不当な扱い をされる中にありました。このような中で、彼らはどう歩んで行くべきなのでしょうか。ペテロがここで語っている ことは、自分たちは今やどういう者であるの かをしっかり知るということです。自分たちは何者であるかというアイデンティティーをしっかり受け止めること が、勝利ある信仰生活のカギであるということ です

ペテロはそう述べて4つの言葉を語っています。「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とさ れた民」。これらはいずれも旧約時代のイ スラエルを指して使われて来た言葉です。その用語がここでは異邦人主体の小アジアのクリスチャンたちに当てはめ られています。この言葉を初めて聞いた時の 彼らの驚き、喜び、恐れを私たちは想像できるでしょうか。今や主を信じる彼らにとって、旧約のイスラエルは別格 です。彼らは神の特別な愛顧を受けて来た国 民です。その彼らに使われて来た言葉が、何と自分たちに当てはめられています。これは信じられないような光栄で あり、とてつもない特権です。それは同じく 主を信じる今日の私たちにも当てはまります。

まず、一つ目は「選ばれた種族」。選びはイスラエルが立派であるということではなく、神が特別な恵みをもって彼 らを愛しておられるということを意味しま す。申命記7章7~8節:「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも 数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があ なたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、 主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出され た。」 この神の選びの恵みに今や小アジアの クリスチャンたちもあずかっています。彼らが選ばれた民であることは、この手紙の冒頭1章1節ではっきり言われ ていました。また選ばれた「種族」と言われています。小アジアのクリスチャンたちは異邦人が主体の教会ですが、 彼らは神によって生まれた、一つの起源を持つ者たちなのです。小アジアのクリスチャン たちは迫害の中で自分たちをまずこのようにとらえるべきです。この神の特別な愛と守りを感謝し、確信する時、そ の生活の仕方は変わって来るはずです。

二つ目は「王である祭司」。祭司は神と人との間を取り持つ仲介者です。民のためにいけにえをささげ、とりなしを し、神と人との橋渡しをします。そしてよ り大きな視点から言えば、イスラエルという国は全世界に対して祭司の国です。イスラエルは自分の祝福だけを考え ていれば良いのではなく、他の国々の祝福に 仕える立場にあるのです。しかし、ここでは特にそのようにして神のみそば近くで仕えることのできる特権に焦点が 当てられています。小アジアのクリスチャンた ちは、そのように神のみそばで神に親しく仕えることができる特権を頂いています。そして「王である祭司」と言わ れています。原文のここの解釈は難しく、注 解書を見るとたくさんの議論がなされています。適切と思われるのは次の二つです。一つは「王に属する祭司」とい う理解です。このように理解した場合、王とは神様のことになります。今や信仰者たちはまことの王に仕えるという 特権ある地位にある祭司であるというメッセージになります。もう一つは新改訳のように 「王である祭司」という理解です。こちらでは信仰者たちが祭司であると同時に王でもあるということになります。 まことの王に仕える祭司として、その祭司自 身も王的性格を持つということかもしれません。まことの王との親しい交わりにおいて、祭司は王としての特権も享 受するということかもしれません。いずれに しても新約時代のクリスチャン・教会はこのように神に近く仕える者たちです。困難の中で寂しく放っておかれてい るのではない。王なる祭司という自分の立場 を受け止めるなら、大胆に神に近づく生活ができます。そして5節で見ましたように、神に喜ばれる霊のいけにえを ささげ、神との交わりに生きることができま す。

三つ目は「聖なる国民」。聖書における「聖」とは、道徳的に聖いという意味よりも先に、「区別された」とか「取 り分けられた」という意味が基本です。つまり、小アジアのクリスチャンたちは聖別された人々、取り分けられた 人々という人たちです。このことをしっかり受け止めることによって、取り分けて下さった 方にふさわしく!という歩みが導かれて行きます。1章15節:「あなたがたを召してくださった聖なる方にならっ て、あなたがた自身も、あらゆる行ないにお いて聖なるものとされなさい。」

そして、四つ目は「神の所有とされた民」。すべてのものを豊かに持っている神が私たちのことを、これは「わたし のもの」とその所有権を主張されます。先ほ ど参照した申命記7章7~8節の前の6節:「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主 は、地の面のすべての国々の民のうちから、 あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」 一体こんな私たちのどこにそんな神がお認めになる価値があるだろう かと私たちは思います。しかし、神はただご自 身から出る一方的な愛によって、私たちを「わたしの目に高価で尊い」と言って下さるのです。そして他のものにこ の所有権が移ることにねたみを感じるほど、 私たちに最高の関心を注いで下さるのです。であるなら、たとえ私たちが困難や迫害の中にあっても、神は何と私た ちを心に留め、上からしっかり守っていて下さるということになるでしょうか。神はご自身の宝を必ず守り、支え、 ケアされるのです。

さて、これらの真理はこの手紙の読者たちを慰め、励ますものですが、そこにはさらなる目的があります。それは 「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に 招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝える」ということです。ある人にとってこれは重荷に聞こえるかも しれません。特権について聞くのは嬉しいが、私たちの義務や責任について語られるのを聞くと、突然重い荷物を背 負わされた感じがする、と。しかし、もし私たちが祝福される話ですべてが終わるなら、 それは人間中心の世界になってしまいます。そしてそのようなところには本当の意味での満たしはありません。なぜ なら人間がこの世界の究極的存在ではないか らです。聖書が常に示しているのは神中心の考えです。私たちが受ける祝福も最終的に神の栄光につながって行くこ と、神の賛美へつながって行くこと、そのような生き方をするところに最高の幸せがあります。ウエストミンスター 小教理問答問1に、人の主な目的として、「神の栄光を現し、神を永遠に喜び楽しむこと」とある通りです。

そのさらなる目的として「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あ なたがたが宣べ伝えるため」とあります。 主を信じる以前の私たちはやみの中にいました。それは罪の闇であり。まことの神を知らない霊的無知の暗闇でし た。すべての意味の源なる神から離れては真に 意味ある人生は生きられません。確かに以前も私たちは一生懸命に生きていました。しかし、こっちが正しい道と 思って進んでも確信がない。何かにぶつかって こっちではないと知って、また他の道へ進んでも、そっちも本当の道ではないと知る。それは確かに闇の中を歩む人 生であり、滅びへと突き進む人生でした。しかし、私たちは神ご自身の光の中へ招き入れられました。光に照らされ ると見えて来ます。自分は今どこにいるのか、どこに向かって進んでいるのか、今していることにはどんな意味があ るのか。そしてまた光は私たちに喜び、いのち、希望を与えます。しかも「驚くべき」光とありますように、他の何 にも比べられない、 私たちの全存在を目覚めさせ、ただならぬ喜びで一杯に満たす光です。しかし、そこには目的があります。このよう に導いて下さった神をほめたたえ、この神の素晴らしさを私たちの言葉と生活をもって宣べ伝えることです。

10節にも私たちが導き入れられた祝福がまとめられています。「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、 今は神の民であり、以前はあわれみを受け ない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」 これはホセア書1~2章の言葉を背景としたものです。ホ セアは主の命令により、姦淫の女ゴメルを妻 としてめとります。そして生まれた子どもたちに、一人はロ・ルハマ、「愛されない者」という名をつけ、別の一人 にはロ・アミ、「わたしの民でない者」という名をつけるように言われます。しかし、神はそのように主に背を向 け、神の民と呼ばれるに値しないイスラエルに憐れみをかけ、なお彼らを赦し、受け入れて下 さるというメッセージをホセア書2章23節でこう言われました。「わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、 『愛されない者』を愛し、『わたしの民でな い者』を、『あなたはわたしの民』と言おう。彼は『あなたは私の神』と言おう。」 このホセア書の約束はこの小 アジアのクリスチャンたち・新約の教会に成 就したのです。彼らはもともと神の民であったのではありませんから、旧約のイスラエルと同じ意味で背信の罪を犯 したのではありません。しかし彼らは神の民 ではない者たちでした。エペソ書2章12節:「あなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、 約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」 そんな彼らが今や神 の民とされました!それは言い換えれば10節後半のように「以前はあわれみを受けない 者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」ということです。ここには目的があります。それはこのような祝 福へ導き入れて下さった神を宣べ伝えること です。言葉と生活をもって世界にこの神を宣教することです。この使命を見失ってはなりません。そして、この目的 に従って生きるところに真の幸いがあるので す。

私たちはこの目的に生きているでしょうか。私はとてもそんなところまでは行かない。そんな高尚な生き方までは! と思うでしょうか。私は現実の中で生きる のがやっとである、と。しかし、思い起こすべきは、このペテロの勧めは苦難のただ中にある信仰者たちに書かれた ことです。すなわち困難のただ中でこの生き方 ができる!ということです。そのカギは自分がどういう者とされているのか、霊的な事実をしっかり受け止めること です。悩みの中で、ただ人間的に問題に目を 向けるだけなら、そのような生き方で終わってしまいます。しかし苦しい中でも、実は自分が大変な恵みの中にある ことを見失ってはならない。ペテロは言いま した。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です!」 私たち は困難の中でも神の民として、神によって愛 され、守られ、大事にされ、ケアされています。究極的な保護の下にあり、神を知る光の中にある者たちです。これ を受け止める時、困難の中でも全く違った生 き方ができる。そして、そのように神を見上げ、神に信頼する歩みによって、神を宣教する歩みができるのです。良 い証は私たちがうまく行っている時、栄えてい る時、成功している時だけしかできないのでしょうか。ペテロは次の11節から具体的に神を宣べ伝える歩みはどう いう歩みかを語ります。そこを読めば分かりますように、それは明らかに迫害下にある人たちに語られています。つ まり、そのようなただ中で神を証しし、宣べ伝える歩みができるということです。

今週の私たちの行く先にも困難があるでしょうか。主により頼んでいない人たちがたくさんいる中に出て行くでしょ うか。大切なことは自分のアイデンティ ティーを感謝をもって、しっかり自分の心に刻むことです。今は私たちは神の民です!この恵みを喜び、生活の基礎 とすることによって、私たちはやみの中から 光の中に招いて下さった方の素晴らしい御業を毎日の中であかしすることができます。そして、そのように生きるこ とこそ神の目的に沿う生活であり、私たちに真の幸いをもたらすことなのです。