ペテロの手紙第一 2:13-17

自由人として
この手紙の読者である小アジアのクリスチャンたちは、キリスト教信仰を持っているために周りの社会から迫 害されるという状況にありました。そんな彼らにペ テロは、あなたがたは旅人であり、寄留者であると語って来ました。彼らはこの世に属する者ではなく、天国の市民 であるということです。そういう彼らは外国 生活をしている人々にたとえられます。周りの人々から奇妙な目で見られたり、色々な嫌がらせを受けるのはある意 味でもっともです。彼らはその現実に落胆す るのでなく、むしろそこに自分たちは何者かというアイデンティティーが示されていることを見て取って、その栄え あるアイデンティティーを誇りにして歩むべ きです。しかしクリスチャンはこの世に属していないからと言って、この世で無責任でいい加減な生活をするようで あってはなりません。ペテロは前回の12節 で今後の基調となるメッセージを語りました。それは「異邦人の中で、りっぱにふるまいなさい。」ということでし た。神を知らない人々のただ中で、人々に美 しいと見られる行ない、魅力ある生活をして、まことの神を宣教する歩みをして行くということです。ペテロはその 具体的な勧めとして今日の箇所では国家との 関わりについて、次の18節からは主人としもべの関係について、3章1節からは夫と妻の関係について語って行き ます。

まず、今日の13節以降でペテロが取り上げているのは「人の立てたすべての制度」に対するクリスチャンの関係で す。この言葉で具体的に考えられているの は、このあと出て来る「王」とか「総督」です。この時の「王」はキリスト教を迫害したことで有名なあの皇帝ネロ であると思われます。また、総督とはポンテ オ・ピラトの名で有名なように、ローマ帝国の各地に遣わされてローマの支配を確立する行政官です。その人々に従 いなさい、とこのペテロは言っています。これは初めて聞く人には大変衝撃的な言葉だったのではないでしょうか。 クリスチャンの指導者に従いなさい、というのなら分かります。しかしこの世の王やローマ総督は不信者です。物の 考え方や価値観が全く違います。しかも、キリスト教会を迫害さえします。なぜそんな人たちにも従うべきなのか。 その答えとしてペテ ロは「主のゆえに」と言っています。そうすることは主の御心にかなうことだからです。彼ら為政者を主は認めてお られます。いや彼らをその務めに立たせているのは主ご自身なのです。

ここに私たちがこの世界に対して持つべき大切な視点が示されています。それはこの世は神とは関係がない世界では ないということです。聖書が示していることは、神がなおこの世界を支配しておられるということです。神が政治的 支配者を立て、その制度を通してこの世界を治めているということです。これはどういう意味でしょうか。

その彼らに与えられている働きが14節に「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめる」と語られています。すなわち この政治的統治の制度は、第一に社会的悪 を抑制するための神の手段であるということです。もしこの政治的統治がなく、無政府状態となったら、この世界は どうなるでしょうか。人々は罪の性質をいよ いよ発揮して、したい放題の生活をするでしょう。東日本大震災が起こった直後、各国のジャーナリストは驚いて報 告していました。日本ではこの混乱に乗じて 略奪したり、自分勝手に行動する人が見られない!みな秩序正しく、一致団結し、整然と事に当たっている、と。し かし、日本人がこれらの報道を聞いて自分たちを誇らしく思ったのも束の間、わずか数日後にはあちこちで窃盗事件 が起こったというニュースが流れるようになりました。私の故郷の石巻の商店街でも、店から金品を盗む人たちが絶 えないという情報がインターネットのニュースで流れていましたし、現地に行ってもそのことを耳にしました。ま た、少し先の気仙沼でも 銀行から4千万円が盗まれる事件が起こりました。また、全国でも義援金詐欺や義援金泥棒が現れて捕まったという ニュースもたくさん聞きます。こういうこの世 は、もし悪を行う者を罰する制度がなかったどうなるでしょうか。それは地獄のような世界になるでしょう。しか し、この政治的統治によってこの世界の罪は抑制され、今なお完全な腐敗から守られているという状況があるので す。また一方で為政者は善を行う者をほめる働きもします。良くやった人には賞状を差し上げ、 褒美を贈ります。そうして社会的善を奨励するのです。このようにして、放置すれば一気に悪に傾くであろう地上の 様々な制度や治安が維持されるのです。Ⅰテ モテ2章1節に「王とすべての高い位にある人たちのために祈り、とりなしなさい」と語られているところに、「そ れは、私たちが敬虔に、また、威厳をもっ て、平安で静かな一生を過ごすためです。」とありますように、この世の外面的な平和の維持と平穏な生活のため に、神がこれらの人々を立て、導いておられる のです。

しかし、ある人は言うかもしれません。それは理想論にしか過ぎないのではないか。現実を見よ。為政者たちは平和 と秩序を維持するどころか、悪いことを先頭 に立ってしているではないか。とても私たちが心をこめて従えるような人々ではない、と。しかし私たちはペテロが この手紙を皇帝ネロの時代に書いたというこ とを頭に入れておくべきです。それでも彼はこのように語ったのです。また私たちは何の条件もなしに、ただ黙って 国家の指導者に絶対服従するように言われて いるわけではありません。国家との問題を考える際に、私たちの中心にあるべき御言葉は、この手紙を書いたペテロ が使徒ヨハネと共に繰り返し語った言葉、 「人に従うより、神に従うべきです。」という言葉です。私たちが第一に忠誠を尽くすべきは、言うまでもなく神様 です。その神様に従うこととぶつかるような ことを為政者や国家が言うなら、私たちはいつも「人に従うより、神に従うべきです。」の御言葉をもって答えなく てはなりません。たとえば、もし国家が御言葉 が命じることをしてはならないと禁じる場合、その国家に従うことはできません。日曜日に礼拝してはならないと か、キリスト教を信じてはならないと言っても、従うことはできません。私たちが国家に従うのは、あくまで「主の ゆえ」です。その主のしもべとしての役割を国家が果たしていないなら、その国家に私たちは従う必要はありません し、また従ってはならないのです。あるいは反対に神が御言葉で禁じていることを国家がせよと命じた場合も同じで す。偶像礼拝や偽 証を要求しても、それには従えません。国家が神の上に来ることはあり得ないのです。御言葉に逆らうことを言うな ら、国家が言うことであっても私たちには何の権威も持たないのです。ウエストミンスター信仰告白第20章2節に は「神のみが良心の主である」という有名な告白があります。私たちの唯一の主は神で す。ですから、この神に逆らうことを言う者は、たとえ国家であろうと、会社の上司であろうと、町内会長であろう と、家庭の夫であろうと、あるいは教会の牧師 や長老であろうと、私たちに何の権威も持たないのです。これらの私たちの上に立てられた人たちが権威を持つの は、あくまでもその人の言っていることが御言 葉に合致している限りという条件の下でだけです。私たちを第一に忠誠を尽くすべき神から引き離す人はもはや神の しもべではありません。ですから、そういう人 に従う義務はありませんし、また従ってはならないのです。しかし、そうでないなら、私たちは上に立てられた人に 従うべきです。いくらその人の普段の言動がク エスチョンマークばかりつく人でも、その言っていることがみことばに反していないなら、私たちは従わなくてはな りません。これは神が定めたあり方なので す。私たちはその人たちに従うことによって、その人を立てられた神に従うのです。

ペテロはこの服従の生活を勧めるにあたって、16節で「あなたがたは自由人として」このことをしなさい、と言っ ています。ここに私たちが自分について心 にしっかり留めるべきもう一つのアイデンティティーがあります。それは私たちは自由人であるということです。私 たちはキリストにあって罪の奴隷状態から解 放されました。もはや救われるために何かをしなければならないという束縛から解放されました。もはや私たちは感 謝をもって、応答の生活をささげて行けば良い存在です。そして罪の奴隷状態から解放され、神の御心を喜んで行う ことができる自由と力を与えられている者です。そういう自由人としての特性を発揮して、強いられてではなく、自 発的に行なうように!とペテロは言っています。私は小さい時に良く言われました。同じことをするなら喜んで、自 発的にした方が 良い、と。しなければならない状態に追い込まれてから、渋々嫌々ながらするのでは誰でも面白くないと感じる。そ れは奴隷の姿である。しかし.どうせしなけれ ばならないと分かっているなら、強いられる前に、自分から進んですべきである。結果的に同じことをするにして も、その方がはるかに自由で、気持ちがいい。 すがすがしい気持ちで、喜びをもってそのことができる、と。まさにそれはここでペテロが言っていることでしょ う。クリスチャンは何事でも強いられるまで 待っていてはダメなのです。そうではなく、強いられるよりも前の時点で自分からする。進んで行なう。これが自由 人の姿です。そうする時、その姿は15節に あるように、愚かな人々の無知の口を封じることになります。クリスチャンをののしる人たちも、このようなクリス チャンの自発的に従う姿を見て何も言えなくなる。こうして良い評判を保ち、神についての良き証を立てることが、 神が私たちに対して持っている御心であるということです。

最後の17節はすべての関係にこの原則を適用するようにという勧めです。ここに4つのことが言われていますが、 みな神の御心です。すべての人を敬うことも神の御心です。あらゆる人は神のかたちに造られており、どんな人をも 見下さず、敬うことは神ご自身を敬うことです。また兄弟姉妹を愛することもそうで す。神を恐れることはもちろんそうです。そして王を尊ぶことについては見て来た通りです。これらそれぞれの人に 対して示すべき服従を、私たちクリスチャンは自由人として行なって行くべきです。仕方なく、不平不満を述べなが らではなく、神の御心なら何でも自発的に行なう自由人として行なって行くべきなのです。

私たちクリスチャンは神様によって救いへと導かれました。その救いを経験した人は、本当の意味での自由を与えら れたことを知っています。神との正しい関係が回復される時に与えられる人間としての本質的な自由です。しかし、 私たちは自由になった!と言って、後は好き勝手な生活をするのではありません。その自由を、私たちはペテロがこ こで言うように、神の奴隷として用いるべきです。神の御心なら何でも喜んで、進んで行なう人、これが真の自由人 なのです。与えられた天的なアイデンティティーのゆえにふんぞり返り、高慢になり、この世を軽蔑したり、無責任 な歩みをするのではなく、この地上における神の御心をわきま え、積極的にそれを行う人として生きるべきです。今週も私たちは色々な人との関わりの中で、それぞれが出て行く 社会の中で生きます。私たちは改めて自分が自由人とされていることを感謝して、敬うべき人たちを敬い、愛すべき 人たちを愛し、尊ぶべき人たちを尊び、服従すべき人たちに進んで服従し、反対する人たちの口をふさぎ、私たちを 闇の中から光の中へと招いて下さった神を証しする栄えある使命と務めに励んでまいりたいと思います。