ペテロの手紙第一 3:18-22

キリストは天に上り
ペテロはこの手紙を、苦しみのただ中にある小アジアに住むクリスチャンたちに書きました。彼らはキリスト 教信仰に生きるがために、周りの社会から迫害や嫌 がらせを受けていました。そんな中、善を行ない続けるように!とペテロは語って来ました。そういう歩みができる ための励ましのメッセージを、ペテロは今日 の箇所でも語ります。

 まず彼が18節で語っていることは「キリストも」ということです。不当な苦しみを受けているのは自分たちだけ ではない。キリストも、いやキリストこそ、 そのような仕打ちを受けられたお方です。しかもキリストは私たちの救いのために身代わりの苦しみを受けて下さい ました。いや死にさえも服して下さいまし た。「一度」というのは、繰り返しの必要がないほどに、完全に、私たちの贖いの代価を払って下さったということ です。このキリストの歩みがあって、私たち は神のみもとへと導かれました。エペソ書2章12節:「そのころのあなたがたはキリストから離れ、イスラエルの 国から除外され、約束の契約については他国 人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」 しかし正しい方が悪い人々の身代わりとなると いう理不尽なことが行なわれることによっ て、私たちは神のみもとへと導かれました。そのことを思うなら、私たちは不当な苦しみは一切あってはならない! と叫ぶことはできません。まさにその不当な 出来事によって救われた私たちです。そして私たちも私たちの救い主と同じ道を歩むように召されています。

 しかしペテロはここでは新しい要素に触れています。それはキリストの苦しみの後に復活が続いたということで す。この「肉においては死に渡され、霊におい ては生かされて」という部分は、この後の解釈にも大きく影響するところですので、注意して理解する必要がありま す。これは人間を二つの部分に分けて、肉体 は死んだが、霊は生きているということを言ったものではありません。もしそうであるなら、「霊においては生かさ れて」という表現はおかしなものになりま す。この表現は4章6節後半にも出て来ます。「それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊 においては神によって生きるためでした。」  新改訳では訳語が統一されていませんが、原文では同じ「肉」および「霊」という言葉が使われています。ここで は救われたクリスチャンのことが語られてい ますが、もし「肉」や「霊」が人間を構成する二つの部分を指すとすると、クリスチャンは肉体は滅びるが霊は生き るという存在になってしまいます。しかし聖 書は決してそうは語っていません。救われたクリスチャンは復活の体をもってよみがえります。他の箇所での用法か ら分かることは、ここでペテロが言っている 「肉において」とは、生まれながらの人間の状態を指し、「霊において」とは復活後の聖霊に満たされた祝福の状態 を指すということです。つまり3章18節の 「霊においては生かされて」という表現は、体と区別した霊の状態のことを言っているのではなく、復活後の聖霊の 祝福に溢れた状態のことを指しているので す。イエス様は苦しみと死の後に、そのような栄光の状態に入ったのです。そのことをこの手紙の読者たちはしっか り見る必要があるのです。

 ではイエス様はその復活の状態においてどんなことをされたのでしょうか。それが19~20節に記されていま す。ここに「キリストは捕らわれの霊たちのと ころに行って、みことばを語られた」とあります。これは一体いつの出来事を指しているのでしょうか。また「捕ら われの霊たち」とは誰のことなのでしょう か。またキリストは彼らに「何を」語られたのでしょうか。これらの問いを巡って色々な解釈が歴史の中でなされて 来ました。まず最初の「これはいつの出来事 か」という問いについて、主に3つの見方があります。一つ目は20節でノアの洪水の話が出て来ることから、キリ ストは受肉以前に、霊においてノアの中に住 み、ノアを通して当時の人々に福音を語ったと見る見方です。また二つ目の見方は、キリストが十字架にかけられて から復活するまでの3日間、いわゆる中間状 態の時の出来事と見る見方です。そして三つ目は、これは復活後のキリストがなしたことであると見る見方です。果 たしてどれが適切でしょう。もう答えは出て います。先に「霊において」という言葉は、復活後の栄光の状態を意味していると申し上げました。「その霊におい て、キリストは捕らわれの霊たちのところに 行った」とあるのですから、これは復活後の活動を意味していることになります。しばしばこの箇所は使徒信条にお ける「よみに下り」という告白と関連付けて 語られたりしますが、そうではないということです。ペテロのここでの関心は、十字架を経て復活に至ったキリスト はどんな状態であられたかということです。 その姿を示して読者たちを励ましたいというのがペテロの意図です。

 では二つ目の問いですが、「捕らわれの霊たち」とは誰のことでしょうか。ある人々はノアの時代に御言葉に従わ なかった人々と考えます。すなわちノアの宣 教を聞いても悔い改めず、信じなかった人。その人々にキリストが御言葉を語られた。これはどういう意味でしょう か。もう一度福音を聞くチャンスが彼らに与 えられたということでしょうか。しかしここでキリストが宣べ伝えた相手は「霊たち」と言われています。通常、聖 書で一般の人間を指す場合に「霊」という言 い方をしません。通常、「霊」という場合は、超自然的な霊的な存在を意味します。ここでは捕らわれの霊たちとあ りますが、これはさばきに定められている堕 落した天使たちととるのが最も理にかなっていると思われます。私たちは「一体どういうこと?」と思うかもしれま せんが、当時の人々にこの話はよく知られて いたようです。すなわちノアの洪水と関連する形で、堕落した天使たちの活動があった。そして神はその天的存在を 最後の審判の日まで暗やみの中に閉じ込めら れたということです。それは当時良く知られていた第一エノク書という書の中に特にはっきり記されているそうです が、その考え方はⅡペテロやユダ書の中にも 見られます。2ペテロ2章4節:「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗 やみの穴の中に閉じ込めてしまわれまし た。」 ユダの手紙6節:「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる 日のさばきのために、永遠の束縛をもって、 暗やみの下に閉じ込められました。」 またユダの手紙14節には、そのような者たちがさばきに定められているこ とに関する「エノクの預言」が記されていま す。このような堕落した天使たちに復活のキリストが何かを語った、と見るのが適切と思われます。

 では三つ目にキリストは彼らに何を語ったのでしょうか。新改訳聖書は「みことばを語られた」と訳しています が、原文に「みことばを」という言葉はありま せん。そこにあるのは「告知する」とか「宣言する」という意味の言葉だけです。ですから考えられることは、イエ ス様は彼らにご自分の十字架と復活のみわざ に基づく決定的な勝利宣言をされたということです。それは彼らにとっては決定的な断罪の宣言となります。ここの 原文には「~もまた」と訳されるべき言葉が 入っていますが、それを含めて意訳すると、キリストは十字架を経て栄光の復活の状態に達したばかりか、さらに暗 やみに閉じ込められていた堕落した天的存在 に対する決定的な勝利宣言もなされたということになります。このような理解はこの章最後の22節の内容とも符合 するでしょう。これはこの手紙の読者たちに 対しては新しい角度から励ましを与えるものだったでしょう。彼らは様々な迫害を受けていましたが、その背後にあ るであろう恐るべき悪の力、超自然的な霊的 存在に対して、キリストはすでに完全に勝利されたのです。ですから彼らはいかに目の前の敵対者たちに翻弄される ように思われても、最終的に彼ら悪い者たち の手に落ちることはあり得ないのです。キリストこそ、他の何者にも勝る圧倒的な権威を今や持っているお方なので す。

この捕らわれの霊たちの話とセットになっているのが、洪水の中で救われたノアたちの話です。わずか8人の人々が 箱舟の中で、水を通って救われました。その出来事は、あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型だとペテ ロは言います。ノアたちは悪で満ちた世の中で悩まされていた少数者でしたが、あのようにしてしっかり救いへと導 かれました。そのように、あなたがたが受けたバプテスマは同じようにあなたがたを救う、とペテロは言います。も ちろん単なる外的 な儀式としての洗礼の行為そのものが彼らを救うのではありません。人々はともすると、そのような外的な儀式ばか りを考えやすいものです。ですから、ペテロは 「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではない」と言っています。そうではなく、それは「正しい良心の神への 誓い」であると言います。洗礼を受ける時に 彼らは神に誓ったはずです。罪の赦しを信じ、神の恵みに信頼して、これからは神に従う生活をして行きます!神に 忠実に生涯を歩み続けます!と。まさに様々 な苦難に取り囲まれているただ中で、この手紙の読者たちはその誓った通りの歩みを貫徹して行くことが大切です。 しかし、そのような歩みを根底から支えるのが、21節最後にある「イエス・キリストの復活」です。バプテスマが 彼らを救う効力を持っているのは、単に彼らが誓約に示された信仰の歩みを全うすること によるのではなく、そのような彼らの歩みを根本から支えるキリストの復活のゆえです。洗礼を受けるとは何よりも キリストと結ばれ、キリストの復活の力に生かされる生活をすることです。ノアたちが非常な少数者であっても、悪 で満ちていたさばかれるべき当時の世界から救い出されたように、バプテスマによってキ リストと結ばれている彼らは、キリストの復活の力に支えられてどんな荒波からも守られ、それを乗り越え、必ず救 いへと導かれることができるのです。

その彼らの望みなるキリストについて、ペテロは最後の22節で「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろ もろの権威と権力を従えて、神の右の座に おられます。」と言います。キリストは復活後、昇天し、父なる神の右の座という宇宙で最も高き支配の座に着いて います。そこで、あらゆる天的存在を従えてい ます。ここでの御使い、権威、権力とは、特に敵対する悪の勢力のことが考えられているのでしょう。自分たちが結 ばれ、自分たちを支えて下さっている救い主キリストが、このように絶対的主権を持つお方であることを見上げるな ら、彼らの心には非常な勇気と確信が与えられることになるでしょう。

私たちも主に従う生活の中で不当な苦しみを強いられる時に、この御言葉の真理に導かれたいと思います。私はその 時、決して一人だけ不運な歩みをしているのではない。それは主も歩いた道。いや主が歩いて私たちを贖って下さっ た道。そして、栄光へとつながっている道。先に栄光へ入られた主は、捕らわれの霊たち に決定的な勝利宣言をなされ、ノアの洪水があらかじめ指し示していた霊的な救いを私たちに対して確実なものとし て下さいました。今やすべての上にいますこのお方と結ばれている自分であると知るなら、私たちは何ら恐れる必要 はない。私たちはこの天に上られた勝利者キリストを真に見上げる時、心乱さず、むしろ 安心をして、主に喜ばれる歩みに専心することができます。絶対的な守りの御手の中に今日の自分の歩みがあり、や がて必ず主が備えて下さった栄光にあずかる ことを望み見て喜びつつ、不当な仕打ちを受ける中でも主の栄光を現わすりっぱな証しをなし、闇の中から光の中へ と招いて下さった神の素晴らしさを宣べ伝え る天国の民の歩みへ進むことができるのです。