ペテロの手紙第一 5:10-14

この恵みの中に
ペテロの手紙第一も最終回となりました。まず結びの部分に出て来る人物等について見て行きたいと思いま す。まず12節から、この手紙にはシルワノが関係していたことを私たちは初めて知ります。シルワノとは、パウロ と世界伝道旅行を共にした、使徒の働きではシラスという名で出て来る働き人です。彼は第一テサ ロニケ、第二テサロニケといったパウロの手紙の共同執筆人としても有名です。そんなパウロとの結びつきがすぐに 連想されるシルワノが、実はペテロともこのような親しい関係にあったことを私たちは知ります。当時のキリスト教 会のリーダーたちが、こうして互いに助け合 いながら、一つになって宣教活動に励んでいたことを垣間見させられて、思わず嬉しくなります。

彼は具体的にどんな働きをしたのでしょうか。12節に「シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り」とありま す。ある人たちはシルワノはペテロが語る 言葉を筆記したのではないかと言います。しかし、よりもっともらしいことは、ペテロはシルワノを通してこの手紙 を小アジアのクリスチャンたちに届けたということです。12節最初に「私の認めている忠実な兄弟」とシルワノを 推薦しているのは、彼を読者たちのところに遣わすからと見ると、良く納得できます。シルワノは、この手紙の内容 を小アジアのクリスチャンたちに正しく解説する役割も果たしてくれることでしょう。

次に目に止まるのは13節の「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人」という表現です。バビロンとは メソポタミヤ地方のバビロンのことでしょ うか。しかし、ペテロがその地域に行ったということは聖書に書いてありませんし、他の資料からも知ることはでき ません。しかも、バビロンはこの時代にはほとん ど廃れていて、彼がここに出かけて行ったということは非常に考えにくいことです。ほとんどの注解者は、これは象 徴的な意味として理解すべきであり、当時の世界の中心地ローマを指していると見ます。確かにバビロンは旧約時代 における世界の覇者であり、ローマは新約時代における世界の覇者です。しかしバビロンと言ってすぐに思い出され ることは、何と言ってもイスラエルが捕囚された国ということです。イスラエルはそこで外国生活を強いられまし た。ペテロはこのイメージを用いることによって、もう一度この手紙で述べて来た、クリスチャンはこの世にあって 「散って、寄留している者たち」であるというメッセージを強調 しようとしたのでしょう。読者たちがそうであるばかりか、この手紙を書いたペテロ自身、まさに外国生活をしてい る寄留者、天に国籍を持つ旅人なのです。では、そこにいる「あなたがたとともに選ばれた婦人」とは誰のことで しょうか。ある人はペテロの奥さんと考えますが、多くの注解者は、これはローマの教会を指 すと見ます。教会という言葉は女性名詞ですし、教会は神の花嫁にたとえられていることを考えれば納得できます。 新改訳の欄外の注にも異本として、「バビロ ンにある教会」とあります。ペテロはこうしてローマの教会からの挨拶を記したのです。

さらに「私の子マルコもよろしくと言っています」とあります。このマルコは、マルコの福音書を記したあのヨハ ネ・マルコのことです。彼について使徒の働 きから分かる有名なエピソードは何と言っても、パウロと一緒に第一次伝道旅行に出かけたものの、途中で脱落して しまったことです。そのため、第二次伝道旅 行に出発する際、このマルコを同行させるべきか否かを巡ってパウロとバルナバは激しく対立し、その結果、パウロ はシラスを連れて、一方のバルナバはマルコ を連れて別方面に出発するという出来事が起こりました。しかし、私たちにとって慰めは、パウロは晩年、絶筆の書 である2テモテ4章で「マルコをともなって、 いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」とテモテに対して書いていることです。その 頃までに二人は和解して、マルコはパウロに とってなくてはならない存在になっていた。そんなマルコがこの時、ペテロと共にいたのです。ペテロとマルコの関 係は、パウロとテモテの関係のようだと良く言われます。あるいはマルコの福音書はペテロの通訳者のマルコが記し たものであり、ペテロの福音書と言っても良いくらいだ、とも言われます。そんなマルコ からの挨拶もここに記されています。当時の働き人たちのつながり、素晴らしい協力関係・交わりが見えて来て、嬉 しくなるひとこまです。

さて、そんなこの手紙の結びの部分において、ペテロはなおも機会をとらえて最後のアピールをしています。彼は 12節でこの書の執筆目的について語っています。その一つは「勧めをすること」です。確かにこの書には多くの勧 めの言葉が満ちていました。「待ち望みなさい」「ならいなさい」「慕い求めなさい」 「りっぱに振る舞いなさい」「主のゆえに従いなさい」「用意をしていなさい」「武装しなさい」「立ち向かいなさ い」等々。しかし、彼はそれらの勧めと共に、 神の真の恵みを証しして来ました。その読者たちがよって立つべき神の真の恵みは、この手紙全体に渡って示されて 来ましたが、それは手紙本文のクライマック スと言うべき10~11節に凝縮されていると言えます。

ペテロはそこで「あらゆる恵みに満ちた神」にこそ、あなたがたの望みを置くようにと勧めています。その神につい てペテロはまず「招き入れてくださった 神」と言っています。「招く」と訳されている言葉は「召す」という言葉です。この言葉は私たちの救いが神から始 まったことを表します。私たちが今このよう にキリストを信じて歩んでいるのは、私がまず信仰の決心をしたからではなく、神が召して下さったからです。その 神は私たちをどこへ導くのでしょう。それは 「永遠の栄光の中に」とあります。この栄光とは私たちがたどり着く最後の救いの状態を指しています。つまりここ に私たちの救いは最初から最後まで神のみわざであると語られているのです。もしこの救いが私たちによって始めら れ、私たちによって成し遂げられるなら、途中で頓挫することもあるでしょう。しかし、最初から最後まで神のわざ であるなら、私たちは何ら心配いらないことになります。ただその恵みに立ち続ければ良いだけです。

この栄光に導く神のみわざは「キリストにあって」なされます。この言葉は私たちのキリストとの結合を意味しま す。そのように、キリストと結ばれて救われるなら、私たちもキリストが通られたようにまず苦難を先に通らなけれ ばならない。ここでも「しばらくの苦しみの後で」と記され、苦しみはどうしても通らなけれ ばならない通路として確認されています。しかしこの苦難はやがて来る栄光の前奏曲です。ですから今、どんな苦難 が目の前にあっても、ひるんではならない。 その後に栄光はあるのです。この苦難から栄光へという道を進むにあたって、ペテロは「あらゆる恵みに満ちた神」 に目を上げるようにと導いているのです。その神がして下さることを彼は4つの言葉で述べています。

一つ目は「完全にして下さる」。この言葉は他の箇所では破れた網を「繕う」という場合に使われています。つまり 神は今は破れた所だらけの私たちを繕い、補い、欠けを満たして、やがて完全な者として下さいます。

二つ目は「堅く立たせる」。直前の9節では「堅く信仰に立ちなさい」と勧められましたが、そうできるのは神が私 たちを堅く立たせて下さるからです。ペテ ロ自身、一度はあまりにもひどい仕方で倒れてしまいましたが、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」 とイエス様に言われていたように、神の恵み によってしっかり立つ者とされました。

三つ目は「強くし」。その言葉通り、本来は弱くてどうしようもない者を、神は強くし、あらゆる状況、どんなピン チにも対処できる力を備えて下さる。

四つ目は「不動の者にして下さる」。これは神が「地の基を据えた」などと語られている時に使われる言葉です。そ のように神は私たちをどっしりとした者、 びくともしない者として下さる。であるなら、私たちの救いは揺るぐことがなく、確実であることになります。この ことを思うなら、もはや私たちに残されてい るのは神への頌栄だけです。11節:「どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」 私たち の目に見えるところは色々ですが、神こそが 一切を支配し、導いておられます。この神にすべての望みを置き、その恵みにしっかり立って歩め!とペテロはこの 手紙で勧めて来たのです。

この中心メッセージと共に、この結びの部分に暗示されていることは、交わりの大切さでしょう。ペテロはこの手紙 をシルワノに持たせて、彼らのところに届けさせます。その際、ローマの教会やマルコからの挨拶も記しました。こ れも小アジアのクリスチャンたちにとって少なからぬ励ましとなるべきものです。彼ら は一人ではないのです。場所は離れていても、同じ主の恵みに生かされて、天国を目指し、共に旅を続けている神の 家族がいるのです。そういう世界の神の民の 広がりに心を留めると同時に、現実に同じ場所で共に歩む兄弟姉妹との交わりも尊び、大切にするように!という勧 めが14節前半です。「愛の口づけをもって 互いにあいさつをかわしなさい。」 ペテロは「互いに心から熱く愛し合いなさい」(1章22節)とか「互いに熱 心に愛し合いなさい」(4章8節)と勧めて 来ました。もちろん、「口づけ」という行為は文化の問題ですので、その時代、その文化の中でふさわしいあり方が 考えられるべきでしょう。しかし、ポイントは、 私たちは互いに会うたびに、そのように互いへの愛を積極的に表し合うべきであるということです。クリスチャン同 士は、そのような愛の交わりによって互いに 支えられるようにとの御心を神は持っておられます。特に迫害の中で、この交わりは、彼ら自身が共に支えられ、保 たれ、生き延びて行くために、大切にすべき 神の手段なのです。

そうして、ペテロは最後に「キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」という祝祷をもっ て、この手紙を閉じます。イエス様は十字架 にかかる前に「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたし があなたがたに与えるのは、世が与えるものとは違います。」と言われました。そして復活後、弟子たちに現れて最 初に語られた言葉が「平安があなたがたにあるように」でした。地上にあってなお、私たちには様々な戦いがありま すが、キリストが勝ち取られたこの平安を頂いて、私たちはどんな試練もくぐり抜けて行くことができる者とされて います。

私たちは今週もそれぞれ遣わされる戦いの場へと出て行きます。そこにはなお、私たちが寄留者であり、外国生活を している者であるがゆえの苦しみがあるで しょう。しかし、ペテロはそんな私たちに「あらゆる恵みに満ちた神」を見上げ、神の真の恵みに立つように、と語 りました。そして、キリストにある平安を祈ってくれました。私たちはその言葉を感謝して、これから出て行く戦い においても、見えるところに惑わされることなく歩みたいと思います。ペテロが証ししてくれ た、「この恵みの中に」しっかり立ち、神によって必ず栄光へと導かれる天国人の歩み、その生活と言葉をもって私 たちを闇の中から光の中へ招いて下さった素 晴らしい神を証しし、宣べ伝える神の選びの民の歩みへ向かって行きたいと思います。