ペテロの手紙第一 5:10-14

身 を慎み、目をさまして


ペテロは515節 で、教会生活における謙遜について勧めまし た。長老は割り当てられている人たちを上 から支配するのではなく、群れの模範とならなけれ ばな らないこと、大牧者イエス・キリストのもとでへりくだって奉仕すべきこと、また若い人たちは長老に従うべき こ と、また若い人に限らず、みなが互いに謙遜を身につけるべきこと。ペテロはこの勧めの根拠として、5節 最後で 箴言334節を引用してこう述べました。「神は高ぶる者に敵対し、ヘリくだる者に恵み を与えられるからです。」

もし神がこのような方であるなら、ヘリくだる歩みは教会生活においてばかりでなく、あらゆる行ないに広げられて 行かなければなりません。そこでペテロは 言います。6節:「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、 あなたがたを高くしてくださるからです。」  

彼はここで「神の力強い御手」と言います。これは出エジプト記における神の偉大なみわざを指す時に使われている 表現です。神はあの強大なエジプトからイ スラエルを救 い出し、その奴隷状態から連れ出されました。その力強い御手を神は今日も持ちたもうお方です。ペテ ロ はなぜこのことを思い起こさせたのでしょうか。考えられる理由は二つあります。一つは高ぶる者を威嚇するため で す。5節で、「神は高ぶる者に敵対する」と言われました。その神が力強い御手を持っ ているなら、高ぶる者は大変な将来を覚悟しなければなりません。そのことを恐れて、高ぶりから遠ざかるためで す。しかし、ペテロの目的はもう一つのメッセー ジを送 ることにあったのではないかと思います。すなわち、苦しみの中にある彼らの生活も神の力強い御手の下にあ る ということです。小アジアのクリスチャン たちは、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、周りの社 会から迫害されていました。キリストを信じて、さあこ れからは永遠の祝福に至る生活が始まると思っ たのに、苦しみや不当な扱いを受ける日々が始まりました。そんな中 で彼らはともすると、神の御手は 弱いのではないか、だから自分たちはこのような苦し みに放置されているのではないかと思ったかもし れません。しかし、そうではないのです。ペテロは言います。その あなたがたの生活も、神の力強い御 手の下にあ る。無敵の強さを持つ神の御手の下で、あなたがたの今日の生活も導かれている。この真理 の下で自分の置かれた状 況を見つめ直す時、それは何と全く違ったも のとして見えて来ることでしょうか。

そのようにへりくだる者への祝福についてペテロは語ります。「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてく ださるためです。」 ちょうど良い時とは いつなので しょう。私たちは早くその日が来て欲しいと思います。今すぐそうなって欲しいと思います。しかしそれ は 私たちには分かりません。私たちは神が最 善の時を知りたもうことを信頼して、神の最善に委ねるよう に招かれています。このちょうど良い時とは、究極的に は、イエス・キリストの再臨の日を指すで しょう。その日に地上のあらゆる人間的判断はひっくり返され、高ぶる者が打ち砕かれ、ヘリくだる者が高く上げ ら れるというこの約束が真の意味で実現しま す。 また最後の日よりも前にこの約束は実現するかもしれません。創世記におけるヨセフ物語にも、私たちは神の奇 し い摂理の御手を学びます。不当な扱いを受 け続けていたヨセフの上に神は常に力強い御手を置いておら れて、ちょうど良い時に、まさにこれ以上の良いタイミ ングはないという時に、へりくだったヨセフ を高くしてくださいました。

そして、ペテロは7節のように付け加えます。「あなたがたの思 い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたが たのことを心配してくださるからです。」  原文から分かることは、6節の神の力強い御手の下にへりく だる生活は、7節の思い煩いをいっさい神に委ねること と セットでなされるということです。「思い 煩い」と訳されている言葉は、「心」という言葉と「分割す る」という言葉が組み合わされてできた言葉です。確か に私たちの心が一つに統一されておらず、 色々な思いに分割されている状態が思い煩いでしょう。特に困難の中で私たちの心はあちらこちらに分かれがちで す。心配、恐れ、悩み、不安、焦りで散り散り バラバラ に乱れがち。そしてそうなると心身ともにエネルギーをすり減らし、疲れ切ってしまいます。しかし、ペテ ロ はここで、それらの思い煩いを一切、神に委 ねなさい、と言います。この「委ねる」という言葉は、投 げかけるという意味の言葉です。イエス様がエルサレムに 入城する際、ろばの子に乗られましたが、そ のろばの上に弟子たちが着物を投げかけたという時の言葉と同じです。 全く信頼して全部をお任せする ことです。そうできるのは「神があなたがたのことを心配してくださるから」とあり ます。つまり、私 たちは自分で自分のことを心配しなくて良いのです。自分の小さな頭で考えて解決がなくても、私 たち のことを心にかけ、愛し、守って下さる方の大きな御手に一切をお任せし、あとは安んじているという生き方を し て良いのです。こうした神への信頼で私たちの心が統一される 時、私たちは心定めて6節の神の力強い御手の下にへりくだる歩みができるのです。そして、ちょうど良い時に神によって高くして頂くことができるのです。

さて、以上の御言葉は私たちに大いなる慰めと平安を与えてくれますが、だからと言って私たちは気が抜けてしまっ て、ボーっとした生活をするようではいけません。ペテロは神と私たちの関係について67節で語りましたが、そ こにはもう一つ考慮に入れるべき存在があります。それは悪魔です。この世界には神と 私 しかいないのではなく、「あなたがたの敵」とここで言われている悪魔もいます。この手紙で「悪魔」という言葉 は 初めてここに出て来ましたが、これは唐突 過ぎると思われるでしょうか。しかし、ペテロが言っている ことは、彼らが経験するあらゆる苦しみの背後にこの悪 魔がいるということです。彼らは単に周りの社 会から迫害され、嫌がらせをされるという人間的な問題とぶつかって いるのではなく、その目に見える ことを超えて、実は悪魔との戦いの中にこそあるのです。 エペソ書612節:「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、ま た、天にいるもろもろの悪霊に対するもので す。」 で すから、私たちは身を慎み、目を覚ましていなければなりません。「身を慎む」という言葉は、すでに1 13節、47節 に出て来ましたが、酒に酔っている状態の反対を指します。自分の感覚を麻痺させ、酩酊状態と するも のから自分を守り、いつ何が起こってもすぐに対応できるように、心も体も整えて おくことです。一方 の「目をさまして」というのは、眠りこけている状態の反対です。周りを注意して良く見張り、 忍び寄 る危険を察知し、いつでもこれと戦う 準備ができていることです。なぜそうすべきかと言えば、私たち の戦いの相手である悪魔は非常に手強い存在だから です。

その悪魔についてペテロは三つのことを言っています。一つは「ほえたける獅子のように」。動物園で見るおとなし いライオンとは違って、怒り狂って、興奮 状態にあるよ うな、非常に危険な猛獣の姿です。二つ目は「食い尽くすべきものを捜し求めながら」。悪魔はただク リ スチャンに恥をかかせたり、嫌な思いをさ せるという程度ではなく、ズタズタに食い千切って、完全な 破滅に追いやろうとしています。そして、三つ目に「捜 し求めながら歩き回っている」。すなわちお腹 のすいたライオンが獲物を求めてうろつき回っているように、あらゆ るチャンスを虎視眈々と狙ってい る。このようなライオンを相手にしていると思うなら、誰 がまどろんだ状態を自分に許すことができる でしょうか。

私たちはこの悪魔を正しく警戒すべきです。しかし同時に、度を超えて恐れたり、心かき乱されるようであっては いけません。ペテロはこのような悪魔が相手 では勝ち目 がないから、逃げよとは言いません。むしろ「この悪魔に立ち向かいなさい。」と命じます。立ち向かうの は、この悪魔に勝つ見込みがあるからで す。どのようにしてでしょうか。それは「堅く信仰に立つこ と」によってです。

この「堅く信仰に立つ」という時に大事なことは私たちが信じているお方、その信仰の対象です。特にペテロがここ で考えていたのは、67節 で見た力強い 御手を持つ神への信仰でしょう。悪魔はあらゆることの背後にあって小アジアのクリス チャンを攻撃しています。社 会的に追い詰め、肉体的・精神的に苦しい状態に追いやる。そして、あわ よくば彼らの心をくじき、落胆させ、神へ の信頼から引き離そうとする。もしそういう悪魔との戦いの 中で、この神への信仰に立たな いなら、彼らも慌てふためくだけです。心かき乱され、心配で一杯に なって、神を疑い、やがて信仰を捨てるような ところまで行きかねません。しかし、神への信 仰に堅く立つなら、悪魔に打ち勝つことができます。私たちの目に悪魔がやりたい放題にやっているようにしか見 え ない状態も、神の力強い御手の下にありま す。 神はそれら一切を用いて、益を取り出して下さいます。キリストが苦難を経て栄光へ入られたように、そのよう に 信じる者たちを導いて下さっています。そして、ちょうど良い時に私たちを高く引き上げて下さいます。この神の 絶 対的な愛の御手を見上げる信仰に立つ時、どんなサタンの策略も跳ね返すことができるの です。

ペテロはその際、「ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」と も付け加えます。このような戦いの中にあるのは、自分一人ではありません。これはクリスチャンである者の普通 の 状態です。それがキリスト者であることの目印、トレードマークなのです。小アジアのクリスチャン たちは神の民が 共通して歩んで来た祝福へ至る道、救いの道を歩んでいるのです。

そうであるなら、私たちもまた同じ道を歩んでいる者たちです。ある人は、ある時代の迫害されたクリスチャンのよ うには私たちは迫害されていないから、そんなに今日は悪魔の働きは強くないのではないか、と思うかもしれませ ん。しかし、悪魔は私たちを信仰から踏み外させることができればそれで良いのですから、 何もその形は激しい形を取るとは限りません。むしろ目に訴える形で活動しないことによって、私たちを油断さ せ、 まどろませ、豊かさによって、この世の祝福 に よって、一見平和で何も問題がないような生活によって、私たちを徐々に徐々にキリストから目をそらすように導 い ているかもしれません。終わりの日が近い今、悪魔は益々最後の悪あがきの活動に全力を尽くしているでしょう。 サ タンは光の御使いにさえ変装する、とみことばにあります。ですから、私たちも自分がこの悪魔との戦いの中にあ る ことを自覚し、警戒させられたいと思います。悪魔は吠えたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めな が ら、歩き回っています。しかし、私たちにはこの悪魔に対する素晴らしい対決方法が与えられています。それは神 の 力強い御手の下にへりくだって歩むことです。悪魔は手強い存在であり、私たちのあらゆる戦いの背後で活動して い ますが、その悪魔よりはるかに大きな御手を持ち、私たちのことを今日も心に留めていて下さる神に全幅の信頼を 持っ て自分をお任せし、御言葉に従う歩みをすることです。その信仰に堅く立つなら、私たちはサタンに打ち勝ち、 サ タンを追い払うことができます。そして、闇の中から光の中へと招いて下さった神の素晴らしさを、私たちの言葉 と 行ないを持って世に宣べ伝え、ちょうど良い時に、高く引き上げられ、栄光へと導かれる神の民の救いと祝福に生 か されて行くことができるのです。