ガラテヤ人への手紙 2:1-10

福音の真理が保たれるため

パウロの伝道によって打ち建てられたガラテヤの諸教会は、パウロの後に入って来た「かき乱す者たち」 によって、最初に聞いた福音の立場から離れつつありま した。後から入って来た「かき乱す者たち」とは、ユダヤ主義者たちです。彼らはイエス・キリストを信じる信 仰だけでは足りないのであって、正式に神の民と なるには、それまでのイスラエル人がみなそうであったように割礼を受けなければならないと主張しました。そ して信じるだけで救われるとするパウロのメッ セージを批判し、彼の使徒性も否定していました。そこでパウロは自らが宣べ伝えている福音と自らの使徒職に ついて弁明しています。

1章後半でパウロは、神からこの啓示を受けたことを述べました。彼は誰かに相談したり、誰かに教えられて、 この福音を形作ったのではありません。彼は回 心直後からアラビヤに出て行って宣教しました。3年後に一度エルサレムに来たものの、その期間はたったの 15日間のみ。ペテロとヤコブ以外の使徒には会っ ていません。それからすぐシリヤおよびキリキヤ地方の伝道に出発しました。その後の歩みのことが今日の2章 1節以下で述べられています。

まず、1節に「それから14年経って」とあります。これはいつから14年後なのか、回心してからか、それと も直前に記されたシリヤおよびキリキヤ伝道に出 発してからか、議論のあるところです。いずれにせよ、長い間、北方の伝道に携わった後、パウロは再度エルサ レムに上ったのです。それは「啓示によった」と 2節にあります。神がある特別な必要のために、パウロにエルサレムに行くように示したのです。一体そこには どんな必要があったのでしょう。パウロは2節後 半でこう言っています。「それは、私が力を尽くしていま走っていること、またすでに走ったことが、むだにな らないためでした。」 

パウロは神の召しに従って異邦人世界で異邦人に福音を宣べ伝えています。イエス・キリストを信じる信仰によ る救いという福音です。このメッセージのもと、長年に渡るパウロの宣教の結果、異邦人クリスチャンはどんど ん増えています。その一方、ユダヤ人でイエス・キリストを信じたクリスチャンたちはみな割礼を受けていま す。信仰をもってから割礼を受けたのではなく、割礼を受けて生まれて来た中で、信仰を持っています。もしこ の状態のまま、ユダヤ人世界と異 邦人世界とで、それぞれバラバラに宣教活動が進められるなら、キリスト教会が大きく二つに分割されかねませ ん。パウロはそうなったら、自分が一生懸命取り 組んで来たことは無になると考えました。キリストはお一人であり、その方を巡って二つの教会が対立するよう な格好になったら、すべてを失うことに等しい、 と。そこでパウロはその危機を未然に防ぐため、啓示によってエルサレムに向かったのです。エルサレムの使徒 たち及び教会との間で福音を確認し、一致して今後の働きを展開するためです。

その際、パウロはテトスを連れて行きました。彼はギリシヤ人で、おそらくパウロの宣教を通して救われた人で あり、割礼を受けていません。その彼をエルサレムに連れて行くのは、彼がテストケースとなるためです。もし 割礼を受けなければ一人前のクリスチャンではないという立場が正しければ、テトスはエルサレムで割礼を強い られるでしょう。しかしもし救われるために必要なのはただ信仰だけであり、割礼は不要であるという立場が正 しいなら、テトスは割礼を受ける ことなく、エルサレムから帰って来ることになるでしょう。つまりテトスはどっちが本当の立場なのかを明らか にするリトマス紙のような存在だったのです。果 たしてこのエルサレム行きの結果はどうだったのでしょう。パウロは二つのことを述べています。

まず、その一つ目は、テトスは割礼を強いられなかったということです。パウロは忍び込んだ偽兄弟たちがいた ので、強いられる恐れがあったと言っています。 すなわちユダヤ主義者たちが巧妙に活動を展開して、信仰だけでは不十分、やはり割礼も必要という運動を巻き 起こす気配があった。パウロは一時も譲歩しない 姿勢で戦ったと言います。そして結果として、テトスはエルサレムの使徒たちや教会の交わりの中で、割礼を強 いられなかった。パウロが戦ったのは、私たちが 救われるためにキリストのわざで十分なのか、それともキリストのわざプラスアルファが必要なのか、という問 題です。もしプラスアルファが必要だとするなら、そのように言った時点でキリストの十字架のわざは不十分な ものとなります。それだけでは私たちを救えず、私たちが自分の救いのために何かを補わなくてはならない。そ してそのように私たちの側ですべきことがあるとするならば、その私たちのしなければならないことが私たちの 上に重くのしかかって来ることに なります。つまり私たちは自由ではなく、奴隷状態に落ちてしまうのです。しかしエルサレムの使徒たちや教会 は、テトスに割礼を強いませんでした。つまり救 いのためにはキリストのわざだけで十分であり、私たちに求められているのはこのキリストへの信仰だけであ る、という立場がはっきり確認されたのです。

そして、このエルサレム行きのもう一つの収穫は、パウロ自身の立場も何ら修正を加えられなかったということ です。6節に「おもだった人たちは、私に何も付 け加えなかった。」とあります。これは9節から、特にヤコブ、ケパすなわちペテロ、そしてヨハネを指してい ると言えます。パウロは別に彼らにこびを売っているわけではありませんが、エルサレム教会で重んじられてい る人々が、何らパウロの立場に異を唱えなかったということだけを言っています。つまり彼らはパ ウロの福音を、自分たちの福音と全く同じと承認したのです。そしてペテロが割礼を受けた者すなわちユダヤ人 への福音を委ねられているように、パウロが割礼 を受けない者すなわち異邦人への福音宣教を神から委ねられていることを理解してくれました。これはもちろん 絶対的な区別ではありません。ペテロがコルネリオなどの異邦人に福音を語ることもありましたし、パウロが会 堂でユダヤ人に福音を語ることもありました。しかし、神がそれぞれに基本的にこのような区別を 持って召しを与えておられることを受け止めたのです。それでヤコブとケパとヨハネがパウロとバルナバに右手 を差し伸べます。これは互いにパートナーであり、一致協力して同じ福音宣教に携わって行くというしるしで す。ユダヤ主義者たちは、パウロはエルサレムの使徒たちの教えから外れていると批判しましたが、実際には両 者の間にこのような一致が確認されたのです。

最後の10節はどういう意味でしょう。ここでの「貧しい人たち」とは、エルサレム教会の貧しいクリスチャン たちを指しています。彼らはステパノのことか ら始まった迫害によって四方八方に散らされたり、財産を奪われたことに加え、ユダヤの国全体を襲った飢饉に よって困窮した状況に置かれていました。そんな彼らを顧みるように、ということです。これはもちろん救いの 条件として課せられたことではなく、救われたクリスチャンが示すべき実として語られています。 そしてこれは特にエルサレム教会と異邦人教会が、主にあって一つに結ばれた教会であることを目に見える形で 示すという特別な意味もありました。パウロはこ れを喜んで承認しましたし、そのことなら大いに努めて来た、と言っています。実際このエルサレム訪問は使徒 の働きで言えば11章29~30節に当たると考 えられますが、その記事によればパウロはこのエルサレム訪問においてユダヤの兄弟たちへの救援のものを運ん で来たのです。パウロ自身、エルサレム教会と異邦人教会がこのようにして一つに結ばれていることを見える形 で現わそうと取り組んで来た人なのです。

こうして14年後の2回目のエルサレム訪問を通して、大事なことがエルサレム教会と異邦人教会との間で確認 されました。それは救いはただイエス・キリス トへの信仰にのみよるということです。割礼などのプラスアルファは必要ない。確かにキリスト教会にはバラエ ティーがあります。ユダヤ人の教会と、異邦人の 教会との間には様々な違いがあります。しかしこの福音の中心における一致は譲れません。この真理に立ってこ そ、神がそこに用意している、多様でありつつ一 つであるという豊かな交わりに生かされることができるのです。

今日の私たちにとってこの箇所はどういう意味があるでしょうか。これは福音が確立していない古い時代の話 で、今日の私たちにはほとんど関係がない話で しょうか。そうではありません。イエス・キリストへの福音に何かを付け足し、そのプラスアルファを持って本 当のクリスチャンだと主張する危険はいつの時代 にもあるのではないでしょうか。たとえばある人は、ただキリストを信じるだけではまだ不十分で、ある種の決 まった形のデボーションをしなければ真のクリス チャンとは言えないと言わんばかりの主張をします。ある人は信仰だけではなく、聖霊による特別な生き生きと した体験が必要だと言います。またある人は信仰 だけではなく、特に自分が関わっているような教会活動や奉仕をしなければ、本当のクリスチャンとは言えない と考えます。たとえばみんなでチラシ配りをしよ うと言っているのに、それを一緒にやらない人は一人前のクリスチャンと言えるかどうか、などと考える。その 他、キリストへの信仰を告白するだけではなく、 それプラスある特定の教理を告白すること、ある政治的な立場を取ること、国家に対するある表明をすること、 ある教会成長の方法論を取ること、またどんな賛 美歌を歌うかという問題、どんな礼拝スタイルを取るかということ。これら一つ一つは大事なトピックであり、 それ自身良いものであっても、それらをあるべき 位置以上に上げて、本当のクリスチャンであることを見分けるしるしとして主張しようとする。そういう危険性 は色々あるのではないでしょうか。そうしていつ の間にか私たちはキリストにある自由を自分と他人から奪い取り、自分も他人も奴隷状態に落とすことがあるの ではないでしょうか。

しかし、私たちが改めて心に銘記すべきは、福音はそれのみで私たちを救うに十分なものだということです。そ こに人間的な要求を私たちが加えてはならないと いうことです。もし私たちがキリストへの信仰に何かをプラスアルファすべきと言うなら、キリストのしたこと は私たちの救いのために不十分なものということ になります。つまり十字架は不完全で、キリストの死は無意味なものにさえなります。ルターはこのように言っ ています。もしそうだとすると、キリストが世界 の救い主であるというのは偽りの話となる。そしてキリストによって救うと約束して来られた父なる神はウソつ きになる。もし私たちがこの点を譲るなら、私た ちは神を失い、キリストを失い、すべての約束、信仰、義、永遠の命を失うことに至る、と。ですから私たちも 今日においてなお、同じ戦いをする必要があるの です。キリストのわざだけでは十分でなく、そこに何かを足そうという誘惑は常にあります。私たちは神が求め ているただ一つのこと、すなわちイエス・キリス トへの信仰に何かを付け加え、他のものを要求することがないように。そうして福音をすりかえ、神が備えてく ださった福音を無にすることがないように。キリ ストこそ、私たちに救いをもたらし、私たちを自由に生かしてくださるお方です。もはやそこに何も付け加える 必要のない完全な救いをキリストは備えてくだ さったという福音を、私たちは正しく、しっかり掲げたいと思います。そしてそこに立って、キリストにある自 由を喜び楽しみつつ、この真理に立つ全世界の主 の教会との一致と交わりの内に、いよいよ恵みの主をほめたたえ、この方を宣べ伝える教会の歩みへ進みたく思 います。