ガラテヤ人への手紙 2:11-16

信仰による義

今日の箇所には、このガラテヤ書にしか書かれていない驚くべき出来事が記されています。何とケパがア ンテオケに来た時、彼に非難すべきことがあったため、 パウロが面と向かって抗議をしたというのです。「ユダヤ人への使徒ペテロ」と「異邦人への使徒パウロ」とが 衝突します。使徒としては後輩にあたるパウロ が、先輩の使徒、12弟子のリーダーペテロを皆の面前で叱責した。思わず緊張するような場面です。一体何が 起きたのでしょうか。

ペテロはアンテオケに来てから異邦人クリスチャンたちと一緒に食事の交わりをしていました。これは伝統的な ユダヤ人は決してしなかったことです。ユダヤ 人にとって異邦人は汚れた人々です。彼らはまことの神を知らず、律法についても無知。汚れた動物にも平気で 触れ、食する。また偶像礼拝が一般的な世界の中 で、偶像にささげられた食物が流通しています。そんな彼らと同じ食卓を囲み、同じものを食するなどとても考 えられない!しかしペテロはこの時までに異邦人 伝道の御心を確信していました。使徒の働き10章に記されていますが、ヨッパの皮なめしのシモンの家で夢心 地になっていると、天からあらゆる種類の四つ足 の動物、はうもの、空の鳥が入った大きな敷布のようなものが吊るされて来て、ペテロに「さあ、ほふって食べ なさい。」との声がかかります。ペテロが「主 よ、それはできません。」と答えると、再び声がありました。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはなら ない。」 そんなことが3回繰り返された後、ペ テロはコルネリオと会い、神が異邦人をも受け入れておられることを確信します。そして使徒の働き10章 34~35節でこう言います。「これで私は、はっき りわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人 なら、神に受け入れられるのです。」 そこでペ テロはアンテオケに来た時も、その真理に基づいて異邦人と一緒に食事をしていました。この「していた」とい う言葉は過去の継続的な習慣を現わす時制で書か れていて、ペテロがずっとそのようにしていたことを示します。

ところが、そのペテロの態度が変わったのです。ある人々がヤコブのところから、すなわちエルサレムから来た ことによって、ペテロはだんだん異邦人から身 を引き、離れて行ったのです。それは「割礼派の人々を恐れて」とあります。割礼派の人々とは、信仰を持って も割礼を受けなくては一人前とは言えないと主張 するユダヤ人たちのことです。彼らはアンテオケのペテロの様子を見て、そんなことで良いのか!という態度を 取ったに違いありません。汚れた異邦人と交わっ て良いのか。モーセ律法を投げ捨てて良いのか。そんなことではユダヤ人への伝道が妨げられるのではないか、 等々。そうしてペテロは少しずつ少しずつ、態度 を変えて行ったのです。

すると他のユダヤ人たちも同じ行動に出始めた、と13節にあります。「本心を偽った行動」とあるように、ペ テロも他のユダヤ人たちも、心ではおかしいと 思っていたのです。しかし割礼派の人々のプレッシャーに負けて、確信していることとは違う行動を取り始めた のです。ペテロがそうした結果、他のユダヤ人は なおさらその道を進んでしまいます。そしてさらにパウロの導き手であったあのバルナバさえも心がくじけて、 偽りの行動に参加してしまったのです。

そこで、パウロは皆の面前で抗議せざるを得なくなったのです。ある人はもう少し別のやり方はなかったものか と考えるかもしれません。確かにイエス様がマタ イの福音書18章で示していますように、兄弟の過ちは二人だけのところで責めることから始めなくてはなりま せん。プライベートな罪は公にしないのが原則で す。しかし今回は単なるプライベートの問題では済まない事柄になっています。すでに多くのユダヤ人がペテロ に従い、教会全体が曲がり始めています。またエ ペソ2章20節に「教会は使徒と預言者という土台の上に建てられている」とありますように、パウロには使徒 として正しくないことをはっきり訂正する義務が ありました。2章5節でパウロは福音の真理が保たれるために一時も譲歩しなかったように、ここでも先輩格の ペテロに向かってさえも譲歩せず、福音の真理を 保つことに心砕いたのです。

では、パウロはペテロに何と語ったのでしょうか。14節の括弧の部分から:「あなたは、自分がユダヤ人であ りながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人の ように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」 ペテロは先に述べ たように、異邦人と一緒に食事をしていました。 すなわちユダヤ人でありながら、異邦人のように生活していました。しかし割礼派の人々を恐れて、次第に異邦 人との交わりから身を引きました。これは何を意味するでしょうか。それは異邦人は今のままでは受け入れられ ないということです。割礼を受けているかいないかはやはり重要だということです。モーセ律法の 食事に関する規定を守ることも必要。つまり真のクリスチャンとなり、教会の交わりに入るためにはユダヤ人の ようにならなければならないということです。ペ テロはこうして異邦人に実質、ユダヤ人のようになることを強いる行動を取ったのです。

そのことについてパウロはペテロを責めたのです。新改訳で15節は段落が変わっていますが、14節の最後で カギ括弧が閉じられていないように、15節以 降もなおペテロに対するパウロの言葉の続きであると考えられます。15節:「私たちは、生まれながらのユダ ヤ人であって、異邦人のような罪人ではありませ ん。」 「私たち」とはここではパウロとペテロを指しています。二人ともユダヤ人です。異邦人のような罪人 ではないという言い方は奇妙に聞こえますが、伝 統的なユダヤ人の考え方に立った表現です。そんなパウロとペテロが新しく確信するに至った真理が16節に述 べられています。まずその一つは「人は律法の行 ないによっては義と認められない」ということです。律法はもちろん良いものであり、神の賜物であり、神のご 性質が現わされているもので、捨て去るべきもの では決してありません。しかし問題は私たち人間がこれを守ることができないということです。仮に一部を表面 的に守ることができても、全部は守れない。いや 心の中の思いや動機を吟味するなら、どの一つも満足に守れていません。すなわち全部を破っている者です。で すからこの道によっては神の前に義と認められる ことはできないのです。「義と認める」という言葉は法廷用語で、神の前に全く正しいとされることです。義と 認めるいう宣告があって初めて、人は聖なる神に 受け入れられ、神との生ける交わりが始まり、神との平和が与えられ、神からあらゆる祝福を受け継ぎ、やがて の栄光と永遠の命にあずかる者となります。

しかし、律法の行ないによっては義と認められない私たちに、神はもう一つの道を備えてくださいました。それ はキリスト・イエスを信じる信仰による義という 道です。律法を守ることのできない私たちに代わって、キリストがすべてを成し遂げてくださいました。罪を犯 した私たちのために十字架に付き、また人として 完全な生涯を歩んで得た完全な義を、信じる者に無償でプレゼントしてくださる。「このことを知ったからこ そ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」 とパウロは言います。16節最後の「なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないか らです。」という部分は詩篇143篇2節からの 引用です。パウロはこの真理は旧約聖書もしっかり述べていることだと示して、自分たちの勝手な意見や解釈で ないことを示しているのです。

であるなら、どうしてキリストへの信仰以外にまだ何かが必要であるかのような生活をするのか、とパウロは言 いたいのでしょう。キリストがしてくださった わざに望みを置き、救われた私たちなのに、なぜそれではまだ不十分で、ユダヤ人になることが必要であるかの ような行動を取るのか、と。それでは「信仰」と 「生活」が一致していない。「生活」が「信仰」を否定している。パウロは使徒としては後輩でしたが、福音の ためにはっきりこのことを語ったのです。そして これによって教会は守られたのです。

さて、私たちはどうでしょうか。私たちは頭では信仰義認の教理を信じています。しかし、キリストへの信仰以 外に何かが必要であるという印象を与える生活、 あるいは主張をしていないでしょうか。もしかすると私たちの交わりは同じ生活レベルの人だけで固まっている かもしれません。上流階級、中流階級、あるいは 貧しい層の人たちばかり。そして他の層の人たちを受け入れず、交わろうとせず、信仰による義ではない何か他 のことがこの交わりでは大切であるかのような雰 囲気を作っていることはないでしょうか。あるいは同じような学歴の人たちばかりで仲良くしているということ はないでしょうか。話す内容がキリストの恵みよ りも学問的なこと、学術的なことが多くて、クリスチャンとして生きるにはそういうものが必要であると思わせ るような交わりになっていることはないでしょう か。あるいは前回も述べましたが、ある人はキリストへの信仰を持つだけでなく、ある決まった形式のデボー ションテキストを使わなければ、一人前とは言えな いというニュアンスのメッセージを語ります。またある人は中心的ではないある特定の教理を強調して、それを 持って真のクリスチャンを見分ける試金石にしよ うとします。またある人は国家や政治に関するある態度を表明することが真のキリスト者であるためには不可欠 とします。またある人は教会成長のある方法論を 採用していないようでは健全な教会とは言えないという主張をします。またある人はある奉仕を喜んでするかし ないかで、真のクリスチャンか、そうでないかを 色分けしようとします。私たちはこのようにともすると自分の得意なこと、自分の関心のあること、自分が熱心 に取り組んでいること、自分が確信していること を強調してそれを持ち上げ、いつしかそれをやっている自分を誇ろうとします。そして自分はただキリストの恵 みによって救われているという一番大事なことを 忘れ、自分は自分のしていることで立っているかのように錯覚し、人にもそれを強い、他人も自分も奴隷に落と すというようなことをしがちではないでしょう か。

そうであってはならないのです。私たちは自分が信じていることに立つべきです。すなわち自分はただキリスト の恵みにのみより頼んで立っているということ です。自分は救いのために何もなし得ない者であるということです。ただキリストへの信仰によって義と認めら れているということです。そしてこの素晴らしい 真理こそを高く上げるようにすべきです。パウロはペテロに向かってこう述べて確認しました。16節:「しか し、人は律法の行ないによっては義と認められ ず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリ スト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認 められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」 この 私たちの信じていることが、私たちの生活に現れることができますように。私たちの「生活」が「信仰」と一致 するものでありますように。ただキリストの恵みによって救われている者たちとして、同じくキリストの恵みを 受け取って義とされている人たちを真心から兄弟として認め、その交わりを喜び、主の御名を共にほめたたえる ことができますように。そのような生活と交わりを通して、「信仰による義」という恵みの教理を一層高く掲 げ、恵みの神を力強く宣 べ伝えて行く教会の歩みへ進みたいと思います。