ルカの福音書 1:5-25

時が来れば実現
ルカは、前回見た序文の中で「すべてのことを初めから・・調べている」と言っ ていました。そういう彼がまず最初に書き記したのは、バプテスマのヨハネのことです。なぜヨハネのことからルカは書いた のでしょうか。16~17節から分かることは、ヨハネはイエス・キリストの先駆者であるということです。いきなり王様が やって来るのではなく、前もって人々に「私たちの王様が間もなく来られますよ!」と告げ知らせて、その備えをさせる人物 です。あるいは王様の行列の一番先頭に立って道を切り開く兵士のような存在です。私たちが覚えておくべきは、旧約聖書の 一番最後のマラキ書以後、400年間に渡ってイスラエルに主の言葉は与えられなかったということです。いわゆる沈黙の時代です。 その長い沈黙を破って、ついに神の救いの働きが始まりました。そのスタートに当たるヨ ハネの誕生は、御使いが述べている ように確かに「喜びのおとずれ」「福音」です。

まず、この喜びのおとずれを最初に受けた夫婦、祭司ザカリヤと妻エリサベツについて見て行きたいと思います。時はユダヤ の王ヘロデの時代。異邦人の王に支配され、イスラエルの栄光は消え去ったかのような時代でした。そんな中、この夫婦は 「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」と6節にあります。そんな 彼らには一つの悩みがありました。エリサベツは不妊の女だったので彼らには子がなかったということ、そして二人とももう 年を取っていたということです。彼らはきっとこれまで子が授けられることを願って来たでしょう。しかしその願いがかなえ られないまま年を取ってしまいました。そういう個人的な苦しみに加えて、二人には社会的な苦しみもありました。エリサ ベツは25節で「主は私の恥を取り除いてくださった!」と言っていますが、当時のユダヤでは、ある人が受けている苦しみは、 その人の隠れた罪に対する神からの罰ではないかと考えられる傾向がありました。しかしそのようなことはこのザカリヤ夫婦 には当てはまりません。なぜなら彼らは二人とも敬虔な夫婦だったからです。多くの人々が、目に見えるご利益がないとすぐい らだち、信仰を投げ捨ててしまうようなことが良く起こる中で、この二人は祈りつつ、年を取って、その願いはもはやかなえ られないと受け止めつつも、主のすべての戒めと定めを落度なく守り行なっていた。そこに彼らの驚くべき敬虔さが示されて います。ですから私たちは何か悪いことが自分や他人の生活に起きた 時、そこから間違った結論を出さないようにしなければ なりません。

むしろ、私たちがこの記事から知ることは、この夫婦の苦しみは、神の栄光が現わされるためのものであったということで す。これから生まれるヨハネが普通の子でないことを示すため、神はあえてこの時まで、この夫婦に子を与えることを 引きとめて来られたのです。そこには神の隠れた「計画」があったのです。ですから私たちは苦しみの中で「なぜ私はこんな ことになったのか」と言ってつぶやくのではなく、「神はこの私にどんな計画を持っておられるのだろう。私はこの中で どのように神の栄光を現わすことができるだろう。」と考えたいのです。苦しみの中でも、主の前に正しく歩んだザカリ ヤとエリサベツは私たちの模範で す。その夫婦の歩みは大きく報われ、神の栄光のために豊かに用いられて行くことを 私たちは見るのです。

さて、そんなザカリヤに天使が現れて、よきおとずれを告げる場面を次に見たいと思います。ザカリヤはこの時、自分の組が 当番で祭司の務めをしていましたが、くじが当たって自らが神殿の中で香をたくことになりました。祭司は全部で24の グループがあり、ザカリヤが属していたアビヤの組は第8番目でした。その24組の祭司は一週間ずつ、年に二度、当番で神殿の 奉仕に当たります。その際にくじが当たって神殿の中で奉仕することは祭司として非常に名誉なことでした。一生に一度あるか ないかという出来事です。その最も栄誉ある奉仕をしていた時、御使いが現れてザカリヤに驚くべきメッセージを告げました。 まず御使いが告げたことは、妻エリサベツが男の子を生む!ということです。これまで願って来てさっぱり与えられなかったのに、 そして自分たちは今や出産できる年齢をとうに過ぎているのに、子が与えられるというのです。そしてその名前まで決められて います。「神は恵み深い」という意味の「ヨハネ」です。その子は自分たちの喜びとなり、楽しみとなるでしょう。しかし、 多くの人もその誕生を喜ぶ、と御使いは言います。つまりこのヨハネは単なる子ではなく、イスラエル全体の祝福に関わる 特別な子であるということです。15節にはヨハネが「ぶどう酒も強い酒も飲まず、母の胎内にある時から聖霊に満たされる」 という特別に聖別された人であることが示されています。そして16~17節にこうあります。「そしてイスラエルの多くの子らを、 彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、 逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」 ザカリヤはこれを聞いて 間違いなくピンと来たと思います。これはまさしく旧約聖書最後の書、マラキ書の一番最後にある言葉と同じです。マラキ書3 章5~6節:「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を 子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」 そこで 預言されていたエリヤ、主の道を用意する先駆者が自分たち夫婦に生まれる!というのです。メシヤの出現に先立ち、 その前触れの働きをする偉大な器が自分たちから生まれる!と御使いは告げた のです。

ザカリヤはこの言葉を聞いてこう問いました。18節:「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知 ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」 この言葉を発した結果、ザカリヤは口が きけなくなります。「あなたが私の言葉を信じなかったからだ」と御使いは言っています。彼の言葉はそんなに不信仰だった だろうか、と私たちは思うかもしれません。しかし主はすべてをご存知です。そして確かに彼の言葉を良く見ますと、彼は 御使いの言葉で十分とはしないで、さらに他のしるしを求めています。つまりこれは簡単に言えば、御使いの言葉を信じ なかったということです。それを信じることを妨げたのは人間の考えでした。特に自分たちはもう年を取っているという こと。若い人に語られるならまだしも、こんな自分たちに子が与えられると言われても、常識で考えてあり得ない!確かに そうでしょう。しかしだからと言って、神にも不可能と言って良いのでしょうか。人間の考えで無理だと思われることは 神にも無理だと言って良いのでしょうか。またザカリヤがこうした言葉を発したのは、長年このことについて祈って来たが、 それは結局かなえられなかったというあきらめの心が彼の心を支配していたからではないでしょうか。日々、神の前に 決められた務めは行なっていましたが、小さく固まっている心。自分の知恵や経験に頼り、それ以上のことは受け付けない という心。そのためにザカリヤはものが言えず、話せなくなる状態にされました。彼は奉仕を終 えて人々の前に出て 行っても、身ぶり、手ぶりで合図をすることしかできなかったのです。

しかし、これは決して単なる罰ではなく、ザカリヤに対する教育的な懲らしめであり、また恵み深い導きでした。まずこれは 10ヶ月間限定の処置でした。二つ目に彼は子を授かる恵みを取り上げられませんでした。そして三つ目に、この口がきけ ない状態も彼にとっては祝福につながることでした。それまでのように話すことができなくなったことは、確かに大変な 不自由だったでしょう。しかし彼はこうしてむだ口をたたくことなく、目の前にいる妻エリサベツのお腹がどんどん大きく なって行く主のみわざを見つめさせられたのです。彼は最初、御使いからこの約束を聞いた時は、それは無理であり、 いくら神様でもできるはずがないと判断しましたが、その自分が否定したことが厳粛に目の前で現実化して行くのを見させ られました。「時が来れば実現する」という真理を黙って見つめ続けるように導かれたのです。ザカリヤはやがて、この章の 67節から聖霊に満たされて預言しますが、それは彼がそれまで、黙って主のみわざを見続けたことと関係しているでしょう。 彼はこの期間、自分の知恵や、自分の人生経験に頼るのではなく、神の御言葉にこそ聞き、これに従うべきことを深い悔い 改めと共に学ばされたのです。話すことができない分、その抑え込まれた思いが凝縮し、深められて、わきあふれるように してやがてザカリヤの預言が歌われて行くのです。

最後の24~25節にエリサベツの言葉があります。彼女はそこで「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、 私をこのようにしてくださいました。」と賛美しました。先に見たように、ヨハネの誕生は神の民全体を祝福するための 神のみわざです。しかし、その神の救いは、一人一人の必要も同時に満たすものであることがここに示されています。 もちろん、みながここのエリサベツと同じ導きを受けるのではないかもしれません。それぞれに対する神の御心は画一的 ではありません。しかし神が下さる救いは、私たちが抱える具体的な悩みや苦しみにも触れて下さるものです。それが結局ど のような結果に至るかは誰も前もって言い当てることはできませんが、神は私たちを心にかけて、その苦しみを通しても 神の栄光を現わすことができるようにして下さる。そしてやがてはそのこと で私たちが神をほめたたえることができるよう にまで導いて下さる。そのことがここに示されています。

今日の箇所は神がいよいよメシヤを遣わす救いのみわざを歴史の中で始められたということを示しています。これが今日の箇 所の中心メッセージです。しかし、もしそれだけなら、18~23節はなくても良かったはず。17節までの御使いの言葉が記された 後、24節のエリサベツの話に進んでも何の問題もありません。しかし、その間に、ザカリヤが主の言葉を信じなかった話が挟み 込まれています。それはなぜでしょうか。それは私たちがここからチャレンジを受けるためでしょう。私たちもザカリヤのように神に期待しない心になっている ことはないでしょうか。様々な現状に落胆した心、自分の知恵や経験を一番上に持って 来て、それ以上は受け付けない心、心の深いところには絶望があり、新しいことに心を閉ざしている状態・・。そうした心が 私たちに対する神の新しい救いの働きかけを邪魔していることはないでしょうか。しかし、ザカリヤが学ばなければなら なかったように、神のみことばこそ真実であり、時が来れば実現するものです。私たちにとって不思議な神の言葉は、 ヨハネの次に来るイエス様においては益々語られます。処女降誕、色々な奇跡、十字架、復活、昇天、最後のさばきなど。 しかし、神はそのようなみわざの中で私たちの罪が赦される道を備えて下さいます。私たちが聖なる神様と和解し、永遠の 命を持つことができるようにして下さいます。また、やがての天国に入ることができるように日々聖め、様々な危険から守り、 必ず最後の栄光の状態に達することができるようにして下さいます。私たちはそのような神のメッセージを人間の知恵や 経験で否定するものでしょうか。小さく固まった絶望の心で信じない態度を取る者でしょうか。それともそれを信じ、 受け入れ、神の救いの世界に生かされて行く者でしょうか。私たちがどう考えようと、神の御言葉こそ時が来て実現します。 ザカリヤはそのことを学ばされました。私たちはその神の言葉にこそ耳を傾け、イエス・キリストにおいて私たちを救って下さる神様に私たちの生活を導いて頂 きたいと思います。悩みの内にある者を救い、その恥を取り除き、私たちの思いを はるかに超える神がご用意下さった最善の救いに導いて頂く幸いに、御言葉を信じて生かされて行きたいと思います。