ルカの福音書 1:26-38

おことばどおり
先週は御使いガブリエルがエルサレム神殿で奉仕をしていた祭司ザカリヤのところへ 行って、ヨハネの誕生について告げたという記事を見ました。そのガブリエルが、6ヵ月後に、今度はガリラヤのナザレに 遣わされます。彼が行ったところは、その町の一人の処女のところでした。「この処女は、ダビデの家系のヨセフという 人のいいなずけで、名をマリヤといった。」と27節にあります。「いいなずけ」とは、結婚を約束している状態にある 人のことです。ユダヤでは約一年間の婚約期間を経て、正式な結婚関係に入ります。ですから、この時のマリヤは、 やがての喜びの日を待ち望んで、忙しくも有意義な準備の時を過ごしていたことでしょう。そんなところにガブリエルが やって来て、28節の言葉を言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

まず、ここまでのところに示されている恵みについ て考えてみたいと 思います。イエス様の母となるように召されたマリヤは、歴史の中で非常な注目と関心の的となって来まし た。特に ローマカトリック教会においては特別に神聖視され、あがめられるほどまでに高く上げられて来ました。そのあまり、 もしかすると私たちにもマリヤを私たちとは違う特別な聖人と考える傾向があるかもしれません。

しかし、私たちは最初の26節の言葉を驚きをもっ て読むべきです。 もしイスラエルの救い主、また全世界の救い主が誕生するとしたら、それにふさわしい地はどこだと私たち は考えるでしょうか。 やはり当時のイスラエルの宗教の中心地エルサレムをまず考えるのではないでしょうか。あるいは少なくともその周辺の都市を 考えるのではないでしょうか。しかし御使いが遣わされたのは、ずっと北方の田舎のガリラヤのナザレで す。このガリラヤの ナザレについて、聖書の中にも「ナザレから何の良いものが出るだろう。」とか、「まさか、キリストはガリラヤからは 出ないだろう。」といった言葉を見出すことができます。当然そんな町に住むマリヤも、当時の人々から目を留められる ような人物ではありませんでした。婚約しているヨセフはダビデの家系とはいえ、時はローマ帝国の支配下にある時であり、 イスラエルの栄光は消え去ったかのような時代です。実際この夫婦も貧しい夫婦でした。また中央に比べれば教養もあるとは 思われません。マリヤはそのような「地方」に住む一介の田舎娘にしか過ぎなかったのです。

もしイエス様がエルサレムの裕福な家に生まれ、特 別の教育を 受けて育ったなら、神の救いはそういう人たちにだけ与えられるのだ、と誰もが思うでしょう。しかし、ガリラヤの ナザレに住む処女が救い主の母として選ばれたというところに、すべての人がこの神の救いに招かれていることが 示されています。ですから、たとえ私たちがこの世で言う「勝ち組」に属していなくても、また他の人々から見下げられ、 自分自身でも 自分に価値を感じられない状態にあっても、失望する必要はありません。イエス・キリストはガリラヤの ナザレに住む夫婦に与えられたことを良く思い巡らす時に、神の恵みは確かにこの私にも差し出されていることが 分かって来ます。

次に、御使いが告げた言葉について見て行きたいと 思います。 ガブリエルは31節で、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。」と言います。そして生まれる子の名前まで 指定します。「主は救い」という意味のイエスという名です。そればかりではありません。その子は「いと高き方の子と 呼ばれる」とか「ダビデの王位を与えられる」とか「とこしえにヤコブの家を治める」とか「その国は終わることがない」など、 おそらくマリヤにもピンと来るような言葉が語られています。これらはいずれも旧約時代から預言され、待望されて来た 約束の救い主を指す言葉です。

このように生まれて来る子どもの特別さという点も 驚くべきことですが、 より根本的な問題は、なぜ処女である自分から子どもが生まれるのかということです。マリヤは婚約中の身として堅く節操を 守って生活しています。その問いに対していわゆる処女降誕の教えが示されます。35節:「御使いは答えて言った。『聖霊が あなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」
 
多くの人にとって、この処女降誕の聖書の教えは信 じられないものかも しれません。確かにこれは私たちの間で決して起こらないことです。イエス様の例を除いて、一度も歴史の中で起こったことの ないことです。しかし、だからと言って、私たちが経験していないこと、歴史の中で一度も起こっていないことは、神にもで きないと結論するのは行き過ぎではないでしょうか。神が私たちをはるかに超えている存在なら、私たちの及びもつかないことを なすことができると言うべきではないでしょうか。もちろん神はただいたずらに不思議なことをされたのではなく、大きな意味と 目的をもってこの奇跡を行なわれたのです。考えてみるべきは、もしこのような方法によらなければ、私たちの救いはないという ことです。犬の子は犬であり、猫の子は猫であるように、罪人と罪人から生まれて来る人はみな罪人です。そのような人は、 他の人を救う救い主にはなれません。救い主となるには、罪のない人間であることが必要です。そのために処女降誕という方法が 必要だったのです。 ある人は「たとえ処女降誕でも、マリヤは罪人なのだから、彼女から生まれたキリストはやはり罪ある者に ならざるを得ないのではないか。」と言うかもしれません。しかしキリストが罪なくして生まれたのは、マリヤから生まれつつも、 聖霊によって身ごもったからです。35節に「いと高き方の力がおおう」とありますが、この「おおう」という表現は、創世記1章 2節の天地創造における御霊の働きを髣髴とさせる言葉です。これは聖霊なる神の「保護」あるいは「守り」を表しています。 その聖霊の慎重な守りによって、キリストは一切の罪の汚染から守られ、罪のない人間としてマリヤの胎に宿ることが できたのです。

この処女降誕の記事が私たちに語っている一番大切 なメッセージは何で しょうか。それはこのキリストの誕生は人間の普通の営みによったのではないということです。キリストは人間の努力や人間の 活動の産物ではありません。それは私たちの経験「外」のところから来ました。私たちの手の及ばないところから「与えられた」 ものでした。ここには人間が一切、主体的に関与していません。人間には全く不可能なことがなされています。このことによって、 イエス・キリストの誕生は神からの一方的な贈り物、ギフトであることが示されているのです。私たちの救いのために、私たちが 何かをしたのではなく、「神が行動して下さった」ということが明らかに示されているのです。私たちはこの神の特別のプレゼントを 心から感謝して受け取り、この方において神が備えて下さった救いにあずかって行くべきです。

ガブリエルはマリヤを励ますために、親類のエリサ ベツの例を引き合いに 出します。エリサベツの場合は処女降誕ではありませんが、普通の人からは考えられないようなことが神によってなされた という点では同じです。そしてマリヤを激励する御言葉として37節で「神にとって不可能なことは一つもありません。」と言います。 これに対するマリヤの応答は38節:「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 もし私たちがマリヤの立場にあったらどうでしょうか。この時は大切な婚約期間を過ごしていました。そんな時にお腹が大きくなって 来たら、愛するヨセフとの関係はどうなるでしょう。また周りの社会からどう見られるでしょう。さらに申命記22章23~24節によれば、 婚約中の処女が男と寝たなら、二人とも石打ちにされなければならないと規定されています。このようなことを考えて、私たち だったら御使いに対して、どうかそのようなことはしないで下さい、私の幸せを壊さないで下さいと訴え、叫ぶところではないで しょうか。しかし、マリヤは何と「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。もちろん、 彼女は様々なリスクが伴うことは承知していたでしょう。人間的に考えれば、御使いの言葉が自分の身に起こるより、ヨセフと 計画した新しい結婚生活にスムーズに進んで行く方がはるかに好ましかったでしょう。しかし彼女は自分の考えより、主の最善を 取ったのです。自分に今、見えなくても、主は必ず良いお考えを持っている。恵もうとしておられる主が私に悪をなさるはずが ない。そして、今聞いたばかりの37節のみことばも大きな励ましになったことでしょう。自分の頭で考えれば、色々と難しいこと、 先の見えないことはたくさんあるが、神にとって不可能なことは一つもない。私の目に困難なことばかりが たくさん見えても、 神はご自身の御心を成し遂げることができる。彼女はそのように主を信頼して、自分自身のすべてをささげたのです。 これは私たちクリスチャンの模範です。そして主なる神はこの彼女を通して、確かに大きなみわざをなして行かれるのです。

今日の箇所は何と言っても、神は私たちの救いのた めに大いなる恵みを もって行動して下さった、ということを語っています。神にしかできない仕方で、神は救い主の誕生というプレゼントを私たちに 下さった。このお方において、神は私たちを救い、恵み、祝福して下さいます。このような神の恵みの働きかけに対して、私たちも また、ふさわしい態度で応答することが求められます。そのふさわしい応答とは、マリヤのように「おことばどおりこの身になり ますように」と告白して、主に従うことです。それは具体的にはどういうことでしょうか。それはまず、この神の救いの御心を 感謝して、「あなたが備えて下さった救いがこの身になりますように」と祈り、神の方法に従うことです。私たちは色々な理屈を 並べて、神に従うことに抵抗したり、それを遅らせたりしていないでしょうか。今日の処女降誕の教えでも、しようと思えば いくらでも疑問を述べたり、議論することはできます。しかし大事なのはマリヤのような従順な心です。今の自分に信じられない こと、完全に納得できないことはたくさんあるけれども、「あなたが仰ることをどうぞこの身になさって下さい」、そう祈って 従うこと。そのような人こそ、主の祝福にあずかって行く人です。

また、主を信じた後もそうです。私の願いと主の願 いとがぶつかる時が あるかもしれません。主はこうしなさい、と御言葉に命じているが、自分はできればその道ではない、こっちの道を行きたいと 思っている。その時、どうするのか。自分の願いと計画を優先し、自分で自分を守る生活に進むのか。それとも主に信頼して 御言葉に従い、全能の主の御腕に守って頂く生活に進むのか。私たちは近視眼的な存在であり、この道が最も良い道だと 思っても進んでも、行った先で少し状況が変われば、思ってもみなかった混乱に投げ込まれることが多々あります。 それよりも真の幸いなのはマリヤが選んだ道です。神の知恵と導きに信頼する道です。たとえ目の前に困難があっても、 主に従う道なら、主が必ず守って下さる。神にとって不可能は一つもない!クリスマスを迎えようとするこの時、私たちは 主の大いなる恵みのみわざを仰いで、本当のクリスマスプレゼント、イエス・キリストをしっかり受け取り、神を礼拝したいと 思います。そしてこのキリストにあって私たちを豊かに祝福して下さる神の大いなる恵みの御手に信頼して、主が命じることは どんなことでも「おことばどおりこの身になりますように」と述べてその御心に従い、主が導いて下さる最 善の祝福と救いに 生かされたいと思います。