ルカの福音書 1:39-56

マリヤの賛歌
前回は「受胎告知」の場面を読みま した。御使いガブリエルがガリラヤのナザレに住むマリヤのところに来て 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言いました。そして、処女である彼女がメシヤを 身ごもると告げました。これは人間的にはとても考えられないことです。なぜこんな田舎のガリラヤに住む 私に そんな大それたことが起きるのか。どうして結婚しておらず、男の人を知らない自分に子が宿り得ようか。 しかし、 素晴らしいことに、マリヤは御使いとのやり取りを通して、最後にこう言いました。38節:「ほんとうに、私は 主のはしためです。どうぞ、あなたのおこと ばどおりこの身になりますように。」 

その彼女は今日の箇所で、親類エリサベツが住むユダの町に出かけます。ガリラヤからユダの町までは 100キロ メートル以上あり、当時は3~4日はかかったものと思われます。マリヤはその間、自分の身に起こったことをどのようにエリサベツに話そうか、思い巡らしな がら向かったことでしょう。そうしてザカリヤの家に着いてエリサベツに挨拶した瞬間、マリヤは不思議な経験をします。何とエリサベツが大声で何かを語り始 めたのです。 そして、その彼女から思わぬ言葉を聞いたのです。

まず、エリサベツはマリヤが身ごもっていることを言い当てます。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」 また、マリヤの ことを「私の主の母」と言います。さらにエリサベツの胎内 にいて6ヶ月になるヨハネが喜んで踊ります。胎児は少し大きくなって来ると、お母さんのお腹の中で足を蹴ったりしますが、そういう一般的な胎動ではありま せん。バプテスマのヨハネはイエス様を指し示す先駆者となる人ですが、すでにこの時点でイエス様を喜び、指し示したというのです。そして、エリサベツは 45節でこう言います。 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」これは主の言 葉を信じたマリヤに対する神様からの励ましです。マリヤはこうしてエリサベツに会って、改めて主の御心 を確 信させられました。そして、彼女の口からも主に対する賛美があふれて来たのです。それが46節からのマグニフィカト、マリヤの賛歌です。

その内容を見て行きますが、まずマリヤがここで歌っている最初のことは、主の特別な憐れみについてで す。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と始めていますが、そのように主を賛美する理由が48節にあります。 「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」 マリヤはここで自分を「卑しいはしため」と呼んでいます。彼女は自分のような取るに足りない者が救い主 の母と なるように召されたとはとても信じられないことだと思っています。自分は田舎のガリラヤに住む一介の少女に過ぎません。また、単に田舎の娘であるという以 上に、神の前に罪ある卑しい存在です。自分の内側だけを見つめるなら、神の祝福を受けるに最もふさわしくないような種類の人間です。しかし、主は一方的な 憐れみをもってこのはしために目を留め、大いなる恵みを注いで下さった。それは「これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と言わ ずにいられない大きな恵みです。

しかし、マリヤは自分の幸いばかりを考えていたのではありませんでした。マリヤはここで自分になされたことは、主がこの世界にどのように関わり、導いて下 さるかを示す象徴的出来事と見ていました。ですから彼女の歌は、最初は自分になされたへの感謝から始まりましたが、50節からは公的な内容に変わっていま す。50 節に 「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」とあります。主を恐れかしこむ者 は、マリヤに限らず、誰でもこの恵みにあずかるのです。また52節後半に主は「低い者を高く引き上げ」て下さること、53節前半には「飢えた者を良いもの で満ちたらせ」て下さることが語られています。この低い状態ということの中には、世の中から低いと見られる色々なことが含まれるでしょう。社会的地位、能 力や学力、あるいは外見的・身体的にすぐれていないこと、その他、誰からも評価されず、卑しめられている状態。また、飢え た者とは実際に経済的に苦しくて、今日食べるものに事欠く人のことでもあるでしょうし、あるいは霊的な意味 で飢 餓状態にある人、祝福を求めてあえいでいる人も含まれるでしょう。もちろん、このように社会的、経済的、 身体 的、精神的に低い状態にある人みなが、自動的に主によって高く上げられるわけではありません。50節に 「主を恐れかしこむ者に」とありますように、その低さ・貧しさの中で主を仰ぎ、主の前にへりくだる人でなけ れば なりません。主に希望を置くがゆえに、主の御心にかなわないことは避け、反対に主が喜ぶことを行なう人です。そういう人を、主はいくらその人が低い状態、 飢えた状態にあっても、ご自身のあわれみをもって高く引き上げ、また豊かに満ち足らせて下さるのです。卑しいはしためであるマリヤを救い主の母となるよう に導かれた主は、主を恐れかしこむ他の低い者・貧しい者をも同じように救って下さる神であることがここに示されている のです。

ですから、たとえ私たちが今、低い状態にあっても、ここに慰めを覚えるべきです。主は決して低い者を蔑まないお方です。主を恐れかしこんで生活する者を、 主は必ず時満ちて、ちょうど良い時に高くして下さいま す。ヤコブ書4章10節:「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいま す。」 1ペテロ5章6節:「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくださりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます。」

しかし、このマリヤの賛歌は、今のことと合わせて、もう一つのことを語っています。それは主は高ぶって いる 者を追い散らし、権力ある者を引き降ろし、富む者を何も持たせないで追い返されるということです。神の 御子 であるイエス様が金持ちや権力者のところではなく、田舎の貧しいマリヤの胎に宿ったということは、反対 から 言えばそういうことです。まず51節に「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている 者を 追い散らし」とあります。自分の知恵を誇り、頭の良さを誇り、他者を見下げ、神を恐れず、高慢な態度で 生きている人。主はそういう人を力強い御腕を振るって追い散らすのです。また52節に「権力ある者を王位か ら引き降ろされます。」とあります。与えられた権力を自分勝手に用いて、貧しい人、自分の下にいる低い人を抑 圧し、 好きなような生きている人。そういう人を主は必ずその王位から引き降ろすのです。また53節後半に「富む者を何も持たないで送り返されました。」とありま す。富に満足し、その富を自分のためにだけ使い、他者をあわれまず、高ぶっている人。そういう人を主はいずれ、何も持たせないで送り返すという辱めの状態 に導かれ ます。ここで注目に値することは、マリヤはここですべて過去形で語っていることです。52節で「引き降 ろさ れます」と訳されている言葉も、原文では過去形で書かれています。ですから直訳すれば「引き降ろされました」 となります。その前の51節の動詞も原文通りに訳せば「力強いわざをなされました」「追い散らされました」となります。同じように52節後半からの部分も 「高く引き上げました」「満ち足らせました」「追い返されました」となります。ある意味でマリヤは過去になされた主のみわざを思い起こして歌っていると見 ることもできま す。 しかし、もちろんそれだけではないでしょう。マリヤは約束の救い主がこんな卑しいはしためから、ただあわれみによって誕生するということは、主がこの世の 高ぶっている者を退け、必ず引きずり降ろされることを決定的 に 示しているということを見て取って、これらがすでに起こったことであるかのように過去形で歌っているのです。 このような終末にかけて起こる大逆転は、この福音書の中にも示されていきます。後に見る金持ちと貧乏人ラザロの たとえでは、金持ちが死後、ハデスに落ちて苦しみ、貧乏人ラザロが高く上げられてアブラハムの懐に抱かれているという話が出て来ます。また、パリサイ人と 取税人の祈りのたとえもそうです。自己満足し、他者を見下していた パリサイ人ではなく、目を天に向けようともせず、胸を打ちたたいて「主よ、あわれんで下さい、この罪人 を!」 としか言えなかった取税人が神の前に義と認められ、高く上げられます。14章11節でイエス様は「なぜ なら、 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」と言われます。そして、 何と言ってもイエス様は十字架の死という究極的な低きにまで下られましたが、そのイエス様が復活をもって勝利し、 天にあげられることの中に、終末的大逆転ははっきり示されます。
 
私たちはこのマリヤの賛歌のメッセージの前にどうでしょうか。高ぶっている人は必ず退けられます。それは言うならば時間の問題です。それは国にも当てはま ります。高慢になり、世界を自分の思う通りに支配しようという国があるかもしれません。あるいはそういう独裁者がいるかもしれません。しかし、そういう国 や人々を恐 れる 必要はありません。なぜなら主は必ずその人々を引きずり降ろされるからです。歴史を振り返ってもそうです。 高ぶる人は隆盛を誇っても、最期は悲惨な結末に至ります。そのクライマックスはやがてのサタンのさばきです。自分を持ち上げ、この世を思う通り支配しよう とした悪魔に、このマリヤの賛歌のメッセージは究極的 に 成就するのです。またこの真理は教会にも当てはまります。自分の教会を誇り、人数を誇ったり、教理を誇って、 霊的傲慢に陥る教会があります。イエス様でなく、自分たちの教会、自分たちの教会のミニストリーを誇る。 「私たちの教会は素晴らしい!他の教会はみな霊的に死んでいる!」などと豪語し、短い期間で見れば確か に著しく成長する。ところがそういう大成長を遂げていた教会が、あっという間に倒れてしまうケースはたくさん見聞きします。このマリヤの賛歌の通りです。 私たちも気をつけなくてはなりません。そしてもちろん個人個 人の生活でもそうです。高ぶる者に祝福はないのです。

ですから、私たちが目指すべきは低い歩みです。もちろんこれは自分を低くするパフォーマンスが功績となって報いを受けるという意味ではありません。私たち は神の前に誇れるようなところを何一つ持っていない卑しい存 在です。罪深い者であり、主のあわれみによらなければ一瞬たりとも存在し続けられない者です。私たちは そういう貧しい自分であることをそのまま認めて良いのです。私たちにとっての福音は、この世界を治める唯一の神である主は、あわれみの神であるということ です。主がそういうお方であることは、救い主の母としてガリラヤ に住むマリヤが選ばれたことにはっきり示されています。神は目を留めるに値しない彼女に恵みを施し、救い主の母となる栄光をお与えになりました。このよう に主があわれみの神であることは、アブラハムに与えられ た約 束においてすでに示されていました。主は父祖たちに語られた通り、一方的な恵みをもって、待ち望む民を 祝福 して下さる神様です。このような主であることを心から感謝し、私たちは御前にへりくだり、主を恐れかしこむ 歩みをしたいと思います。どんなに今、自分が低い状態、飢えた状態、貧しい状態、苦しい状態にあっても、主 が最も良い時に、待ち望む私たちを高くして下さる。そのことを確信して、マリヤと共にこの賛歌を歌い、 ただ恵みにより、御子イエス様にあって引き上げられ、豊かに満ち足りる者とさせて頂ける喜びに生かされてま いりたいと思います。