ルカの福音書 2:39-52

必ず父の家にいる
聖書の中でイエス様の子ども時代について書いてある箇所は先ほど読んで頂いた箇所だけです。イエス様が12歳の 時の記事です。そしてここで私たちは初めてイエス様の言葉を聞きます。そういう意味でこの箇所は非常に貴重で あり、また興味深い箇所です。一体イエス 様はどんな言葉を語られたのでしょうか。

イエス様はこの時、両親と一緒にエルサレムの都へ上りました。私たちの頭に入れておいて良いことは、ユダヤ では13歳から宗教的には成人と見なされたことです。その年からは律法に定められた権利と責任を持つ一人前 の男子と見なされました。そういう大人として扱われる前の年に過越の祭りに連れて行かれることは、翌年から の生活に向けてふさわしい準備となることでした。問題が起きたのは帰りの時です。何と帰路についた一行の中 にイエス様がいなかった!44節から分かりますように、ヨセフとマリヤは一緒に旅をしているグループのどこ かにイエス様がいるものとばかり思っていたのでしょう。男女が別々に歩いていて、ヨセフとマリヤはお互いの ところにイエス様はいるのだろうと思っていたのか、あるいは少年イエス様はもはや子どもでもないので、親族 や友人たちと一緒なのだろうと考えたのでしょう。こうして一日の道のりを進んで初めてイエス様がいないこと に気付いたのです。それでヨセフとマリヤはエルサレムへ引き返して行きます。親としては心配です。迷子に なってしまったのではないだろうか?誰か悪い人につかまってはいないだろうか?この間どこに寝て、何を食べ ているのだろうか?そうして三日の後に、彼らは我が子を発見します。何とイエス様は宮の中で教師たちの真中 に座って問答していました。人々はみな、この少年の知恵と答えに驚きながら、その子を取り囲んでいたの です。

ここに少年時代のイエス様についての一つの記録があります。それはイエス様はすでにこの時期から並ではない 知恵に満たされていたということです。イエス様は47節にありますように、まだ話を聞く側の者であり、質問 する生徒の立場にありました。しかしそのような立場にありながらも、イエス様の質問にはこの年齢では考えら れない鋭さ、理解力、知恵、また洞察力が見られました。そのためにいつの間にか少年イエス様が真中になり、 教師たちが周りを取り囲むという光景になっていたのでしょう。

しかし、今日の話の中心は次の、母マリヤとのやり取りの中にこそ見られます。両親はやっとのこと、わが子を 発見し、驚きと安堵の心でこう言いました。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさ い。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」と言います。それに対してイエス様はこう言われ ました。49節:「するとイエスは両親に言われた。『どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必 ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。』」 イエス様はここで両親に皮肉を言ったり、両親 を逆に叱責したのではありません。これは12歳の少年イエス様の率直な驚きの言葉です。イエス様としては当 然、両親は自分がどこにいるかを知っているとばかり思っていた。これは私たちが聞いてもちょっと不思議な言 葉です。しかしここに12歳のイエス様がご自分をどうとらえていたか、について非常に大切な証言がなされてい ます。

二つのことが言えると思います。一つはイエス様は誰の子どもなのか、ということです。マリヤは48節で「父 上も私も心配したのですよ」と言いました。この場合の父はヨセフを指しています。しかしイエス様は「わたし が必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と言った時、それは明らかにヨセフではない別 の父を指しています。それは誰でしょうか。それは父なる神様でしょう。つまり12歳のイエス様はすでにご自 分が神と特別な関係にあることを自覚しておられたのです。ある意味で神を父と呼ぶ呼び方は、ユダヤ人の間に もありました。しかし彼らはその際、注意深く「天の父」と言いました。あるいは「私たちの父」と呼ぶことに よって、自分一人が神様を独占するような言い方をしませんでした。しかしイエス様は直接的に神を「自分の 父」「わたしの父」と呼びました。これはイエス様が私たちとは違って本質的に神と「父と子の関係」にあるこ との主張です。見た目には普通の人間と何も変わらず、普通の少年のようにすくすくと成長しつつあるこの子 が、実は神の本質的な子であるという深い神秘がここに示されているのです。

二つ目に見たいのは、ここにはイエス様の生き方が語られていることです。イエス様は「必ず父の家にいる」と 言われましたが、この「必ず」と訳されている言葉は「神の必然」とか「神の御心」を現わす言葉です。同じ言 葉はこの後もこの福音書に何回か出て来ます。例えば4章43節でイエス様はこう言われました。「ほかの町々 にも、どうしても神の国の福音を伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」  この中の「どうしても~しなければならない」という部分が、今日の箇所で「必ず」と訳されている言葉と同じ です。あるいは9章22節に「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、 殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」とありますが、この中の「必ず~しなければならな い」という部分がそれです。つまり今日の箇所の「わたしは必ず父の家にいる」という言い方は、イエス様がた だ神のご計画に従い、その御心に全く自分をささげて歩んでいることを現わしています。

また、「父の家にいる」という言葉も重要です。「父の家」とは、ここではイエス様がエルサレム神殿にいたこ との理由として語られています。しかしこれが単にエルサレム神殿という場所を指しているとするなら、話はお かしくなります。なぜなら「わたしは必ず父の家にいる」と言われたイエス様が、この後すぐナザレに行ってし まうからです。「父の家にいる」とは「その家の主人であるお父さんに服従して生きる」ということです。欄外 の49には別訳として「わたしの父の仕事に」という訳も示されています。ですからイエス様はここで、自分は いつも誰に対して第一の愛と忠誠をささげて生きているかということを率直に語られたのです。そしてそのこと からすれば、自分が今どこにいるかはご存じだと思っていた、と少年イエス様は言ったのです。

マリヤはこの言葉をどう聞いたでしょうか。50節を見ると、両親はこのイエス様の話された言葉の意味が分か らなかったとあります。しかし素晴らしいことは51節に、マリヤは「これらのことをみな、心に留めておい た。」とあることです。彼女はこのイエス様の言葉が今、理解できないからと言って反発したり、投げ捨てたり しませんでした。彼女はこの言葉を心に留めつつ、これからのイエス様の姿を見て行ったのです。そうした中で このイエス様の言葉が行き着いたところはどこでしょうか。私たちはあまり性急にその結論に走ってはならない でしょう。マリヤと共に、この生き方はこれからどう展開して行くのか、この福音書を読みながら、思いを巡ら して行くべきでしょう。しかし私たちはその先が十字架であることを知っています。「わたしは必ず父の家にい る」と言われたイエス様の生き方が行き着くところはあの十字架なのです。マリヤは今日のイエス様の言葉にも ある程度のショックを受けたかもしれません。しかしこのイエス様の生き方の原則はもっともっと考えられない ところへと進むのです。それはあの数十年後の十字架上において、結晶を見るのです。実にあの十字架の死にま でも進んで従われたイエス様の生き方が、すでにこの12歳の少年イエスの内にも見られたという点こそ、今日 の箇所の意義ではないでしょうか。イエス様はあの時、突然神の御心に服従したのではないのです。それまでの 何十年のこの歩みの積み重ねを通して、ひたすら神の御心に喜んで従うという歩みを経て、その究極的な服従と してあの十字架のわざはなされて行ったのです。

最後の51~52節にも短く注目したいと思います。イエス様はそこで、わたしは天の父に従うのだから人間の 父には従わない、という姿勢を取ってはいません。イエス様は「わたしは必ず父の家にいることをご存じなかっ たのですか。」と率直な驚きの言葉を発しつつも、両親に従い、一緒にナザレに帰りました。そして両親に仕え られました。いずれ天の父に従う歩みを第一とするために、人間の両親に従うことが道を譲る日は来るかもしれ ません。しかしそれがぶつからない限り、イエス様は最大限このように歩まれたのです。このようなイエス様に ついて最後の52節に「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」とありま す。つまりこのような生き方は御心にかなう神に喜ばれる生き方であったということです。またそれは同時に人 に愛され、喜ばれる生き方でもありました。

昨日より2011年の歩みが開かれました。私たちはこの年をどのように歩んで行くべきでしょうか。私たちは 今日の箇所を通して、父なる神が私たちのために救いのご計画を持って下さったことを改めて覚えさせられま す。そして御子イエス様はその父の御心に喜んで服従して下さいました。そして十字架の死にまで進むという御 心に従って、ついに私たちの救いを勝ち取って下さいました。私たちはこのような父なる神と御子イエス様の前 に額づき、心からの感謝の礼拝を、今朝ささげたいと思います。そしてこの父と子との姿に本当に感謝している 者として、私たちも今や天の父の子とされている者として、御子にならう歩みへ進みたい。神は今年の私たちの 歩みにも最善のご計画を持っていて下さいます。その御心に信頼し、神に第一の服従をささげ、また私たちの前 に立てられている様々な権威にも正しく従う歩みをしたいと思います。そうして神と人とに喜ばれる生活をささ げつつ、絶えず「私は必ず父の家にいる」という歩みをもって、神の祝福のご計画がなるために仕え、用いて頂 くという最も栄えある歩みへ進みたいと思います。

 「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、 わたしの食物です。』」(ヨハネ4:34)