ルカの福音書 3:21-38

わたしの愛する子
イエス様は今日の箇所でヨハネからバプテスマを受けられます。私たちにとって洗礼を受けることは素晴らしい 祝福であり、喜ばしい出来事です。しかしイエス様にとってはどうでしょうか。ヨハネのバプテスマは、3節に ありましたように「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」です。であるなら、罪がないイエス様にとって これは意味がないことではないでしょうか。確かにイエス様個人に関して言えばそうです。ですからイエス様は これをご自分のために受けたのではないということです。イエス様は私たちとご自分を一つに結び付けるために、 これを受けられました。ヨハネから洗礼を受けるために列をなしてやって来る人々の中に身を置かれて、私たち と同じ立場に立つ、私たちの中の一人となって下さったのです。

さてルカは洗礼そのものよりも、その後の出来事に焦点を当てて書いています。ここには三位一体の神様の姿が 出て来ます。まずイエス様はバプテスマを受けた後、「祈って」おられました。今見ましたように、ヨハネから 洗礼を受けることは罪人と一つの立場に立つことであり、罪人たちの罪を背負い、十字架へ至る道を歩み始める という出来事です。その道をいよいよ進み始めるというこの時に、イエス様は父の御心を仰ぎ、それを確かめ、 上からの助けと導きを祈り求めて出発されたのです。イエス様が私たちの救いのために、まずこのように祈られ た聖なる姿を私たちは自分の心に刻みつけたいと思います。

次に天が開け、聖霊が鳩のような形をしてイエス様の上に下りました。旧約聖書にはやがて遣わされるメシヤに は神の霊がとどまると預言されていましたが、その一つであるイザヤ書61章1節の御言葉が、ルカ4章18節 19節に引用されていますので読んでみます。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を 伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げる ために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」 ここに聖霊の油注ぎは 「貧しい人々に福音を伝えるように」という目的のもとになされることが示されています。そのように聖霊の下 りは、イエス様のこれからの歩みを強め、支えるためのものだったでしょう。

そして三つ目に天からこのような声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」  これは詩篇2篇7節とイザヤ書42章1節の御言葉をドッキングさせたものです。詩篇2篇7節:「わたしは主 の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生ん だ。』」 これは神によって立てられた王について歌っている詩篇ですが、それは単なる人間の王ではなく、や がて来られるまことの王・メシヤを指すものでした。「あなたはわたしの子、愛する者である」と神から呼ばれ るメシヤが来て、イスラエルの真の王として即位する日が来る。その言葉がここでイエス様に向かって語られま した。

もう一つはイザヤ42章1節:「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ 者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」 ここでイザヤが描いているしもべ は、仕えるしもべであり、服従、謙遜、そして何と言っても苦難で特徴づけられるしもべです。このように天か らの声は「王」というイメージと「しもべ」という二つの対照的なイメージをドッキングさせています。つまり イエス様は確かに王なるメシヤであるが、仕える歩みによってその王権を発揮する「しもべとしての王」である ということです。

そして、私たちが心に留めるべきは、このようなイエス様に対して父なる神が「わたしはあなたを喜ぶ」と言わ れたことです。ヨハネから洗礼を受けられたイエス様がこれから向かうところは十字架です。イエス様はやがて 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれます。父なる神はその姿ををすで に見ているはずです。にもかかわらず「わたしはあなたを喜ぶ」とイエス様に言われた。これはとりもなおさ ず、神が私たちの救いを心にかけていて下さり、そのご計画に進んで服しておられるイエス様を喜ばれた、とい うことに他なりません。わが子が苦しむ姿を見て何も思わない親はいません。まして永遠の昔からその懐におら れる一人子が十字架の苦しみと死の下に身を沈める姿を見ることは、父なる神にとって私たちの想像をはるかに 超えるつらい出来事でしょう。しかし神は私たちの救いのために第一歩を踏み出された御子を見て、「わたしは あなたを喜ぶ」と言って下さった!そして御子はこの道を最後まで歩み通すために祈りをささげ、聖霊はその働 きが全うされるために下られた。何という三位一体の神のお姿でしょうか!私たちの救いは父、子、聖霊がご自 身のすべてをかけて、大きな犠牲を払い、言わば一生懸命になって備えて下さった救いなのです。その姿を仰い で、私たちはこの神の御前にひれ伏し、心からこの救いを感謝し、尊ぶ者でなくては!と思わされます。

さて、23節からはイエス様の系図が記されています。系図と言ってまず思い起こされるのはマタイの福音書冒 頭の系図でしょう。しかしこの両者を比べてみると随分違う。アブラハムからダビデまではほとんど同じです が、ダビデ以降がかなり違います。ある人はマタイの方は王の系列をたどり、ルカの方はより一般的な系図を記 していると言います。ダビデの子に注目してみると、マタイではソロモンと記されていますが、ルカでは31節 にナタンと記されています。このナタンとソロモンはどちらもダビデの子ですが、王となったのはソロモンで す。そのソロモンの系列、すなわち王の系列をマタイは記し、ルカは実際のヨセフの血筋をたどったという見方 です。またある人はマタイは夫のヨセフの家系を記し、ルカは妻マリヤの家系を記していると見ます。ヨセフの 父に注目すると、マタイではヤコブ、ルカでは23節にヘリと記されています。その23節の「ヘリ」という部 分には印がついていて、欄外を見ると「イエスの母マリヤの父。ヨセフの義父。」とあります。ではどうしてマ リヤの父ヘリが、夫ヨセフの父として記されているのか、という疑問が出て来るでしょうけれども、それに対す る答えの一つは、マリヤは男の兄弟がいなかったため、ヨセフが婿に入ったということです。あるいはこのルカ の系図はヨセフとは特に関係がないという見方もあります。23節にイエス様は「人々からヨセフの子と思われ ていた」と記されており、ヨセフの子ではない、ということがまず言われている。そしてそこは以後の書き方と 違っていて、カッコに入れて考えられるべきところであり、その後の(新改訳で)「このヨセフは」と始まって いる部分は、括弧の前の部分を受けて「イエスは」と訳されるべきである。つまりここではイエス様が実際の血 のつながりにおいてマリヤの父ヘリの子孫であり、そういうイエス様の人間の血のつながりのことが述べられて いる、と見る人たちもいます。他にもいくつかの考え方がありますが、決定的にこれが答えだと言える人はいま せん。最終的な結論を出すには情報が少ないのです。ただ私たちはマタイとルカの系図を比較して、名前が一致 していないから聖書は矛盾している、と言うことはできないということです。両方の系図が正しいことを説明 する道はいくらでもあ