ルカの福音書 4:9-13

主を試みてはならない
荒野における悪魔の誘惑の3つ目です。イエス様はヨハネから洗礼を受けて、まずこの悪魔の試みを受けることへ と向かわれました。イエス様は私たちの救い主となるためにこの世に来られましたが、そのための欠かせない条件 は、私たちと同じ人間として一つも罪を犯さない完全な生涯を歩むことです。そのようなきよい方であってこそ、 やがて十字架上で罪ある私たちの身代わりを果たすことができます。果たしてイエス様はそのような役割を果た せる人であるのかどうかが試されるために、まず荒野へ向かわれました。悪魔からすれば、これは新しいアダム との対決です。最初の人間アダムは、創世記3章に記されていますように、転ばせることができました。以来、 すべての人間は罪の下にあり、悪魔の下にある者となりました。しかし今や同じ人間たちを救い出すべく、 第二のアダムが現れました。サタンはエデンの園と同じような誘惑をすでに二回、イエス様に試みましたが、 イエス様は見事、聖書の言葉を正しく掲げて勝利しました。悪魔はさらに三回目の誘惑をここでイエス様に 仕掛けています。

9節に「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。」とあります。 「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。」 悪魔は今回、みことばを引用しています。10~11節 は詩篇91篇11~12節のみことばです。イエス様がみことばを使って戦うなら、サタンもみことばを使う。 彼は問いました。あなたがそんなに神に信頼すると言うなら、ここから飛び降りてその信仰を現わしてみなさ い。なぜなら聖書には「神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。」とか「あなたの足が石に打ち当たるこ とのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。」と書いてあるのだから。そのことをやって、神が本当 にあなたが信じている通りの方であることを証明して見せたらどうか。そしてあなたが本当に信仰に生きている 人であることを証ししたらどうか、と。

それに対してイエス様は今回もみことばを引用して答えられました。みことばとみことばの対決です。12節: 「するとイエスは答えて言われた。『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」 ここから 私たちが学ぶことは、一つの御言葉は他の御言葉によって調べられ、それと合致するように解釈されなければな らないということです。注目すべきはサタンはここで御言葉を正しく引用していることです。にもかかわらず、 サタンは自分の目的にかなうようにこれを悪用することができた。御言葉はそのように使うことが実に可能であ るということです。それを防ぐための方法は、一つの御言葉を他の御言葉によって確かめることです。一箇所だ け切り取ると、今回の悪魔のようにとんでもない結論を出すことができる。ですから私たちは自分の好きな聖句 だけはなく、聖書全体に親しむように努めて行かなければなりません。そして一つのみことばを他の聖句と照ら して合わせて理解して行く時に、サタン的な誤りから自分を守ることができるのです。

さて今回、悪魔はどんな罪をイエス様に犯させようとしたのでしょうか。それはイエス様の答えを見て行くと分 かります。イエス様は申命記6章16節からエッセンスを取り出して答えられましたが、実際の申命記6章16 節にはこのようにあります。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」  ここで「マサで試みたように」と言われている出来事は、出エジプト記17章1~7節に記されていますの で、そこを参照したいと思います。ここはイスラエルがエジプトの苦役から救い出され、葦の海を渡り、荒野を 旅していた時の記事です。そのレフィディムという場所で彼らの飲む水がありませんでした。そこで民はモーセ と争った、と2節にあります。モーセは彼らに対し「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるので すか。」と言った、とあります。どうして「水を下さい」と言うことが主を試みることなのか、と私たちは一瞬 思いますが、民のこの時の態度が続く節を見ると分かります。3節でイスラエルの民はモーセにつぶやきまし た。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせ るためですか。」 さらに7節:「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」 つまり彼らは飲み水 が不足する状況において、「本当に主は私たちの間におられるのか、もしおられるなら今すぐ私たちに水を与え よ!」と神に要求し、それによって神の臨在を試そうとしたのです。

ある人はこれを読んで、悪いのは神様ではないかと考えるかもしれません。のどが渇く状態に彼らを放っておい た神がまず悪い。もしそうでなければ、イスラエルの民はこんなことを言う必要はなかっただろうに!と。しか し私たちは良く考えてなくてはなりません。神は私たちの便利屋なのでしょうか。神はいつも私たちが満足する ように私たちを満たす責任を負っているのでしょうか。何か問題があったら、「神は一体何をしているのか!」 と神を責める権利を私たちは持っているのでしょうか。言うまでもなく、神は彼らに対する配慮が欠けて、水を やるのを忘れたのではありません。神はすべてのことをご自身の目的を持って導いておられます。ここでもそう です。ですからこのある意味で苦しい状況は、彼らの信仰を試し、強くするためのものだったでしょう。また神 はこれまですでに、このための十分な準備をして来られたことも私たちは見過ごしてはなりません。イスラエル はエジプトにいた時、神の御手によってエジプトに10の災害が下ったのを見ました。そして出エジプトという 信じがたいみわざを経験しました。後からエジプト軍が追いかけて来た時も、絶体絶命の大ピンチの中で、葦の 海が真っ二つに分かれ、彼らはその間の乾いた地を通って救われるという経験をしました。また主はご自身が共 にいることを示すために昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを導かれました。少し前には食べ物に飢えた時、 ウズラとマナを天から降らせて、彼らを養って下さいました。このような力強い神の守りと次々と経験して来た 彼らなら、飲み水に不足を覚えたこの時、どのように考えるべきだったでしょうか。主は今回も私たちを必ず 守って下さる。共におられる主が配慮し、必要を満たして下さると信頼して当然だったのではないでしょうか。 しかし彼らはそういう態度ではなく、モーセと争い、神に「今すぐ、あなたが共におられるなら、我々に水を与 えて、そのことを示すように」と要求したのです。ここには二つの問題があります。一つは消極的面から、彼ら は主を信じていないということです。この要求は神への信仰から出ているものではありません。これまで神の導 きを経験して来た彼らは、水が与えられる「方法」も、その「時」も、神に委ねて待つべきだったのに、イライ ラして信仰の「し」の字もない状態になっていた。そしてもう一つ、ここにおける重大な罪は、神の上に立って いるということです。イスラエルは神に従うべき存在なのに、神に条件を出し、神がそれをかなえるかどうかテ ストしようとする立場に立っています。人間が神をテストしている。何という立場の逆転でしょうか!これは神 をも自分の思う通りに操作しようという人間の罪の現れです。これは人間が神の上に立っているというとんでも ないあり方です。

イエス様は今回のサタンの誘惑に、それと同じものを見て、これを退けました。そして言われました。「主を試 みてはならない」と。確かに悪魔が引用した詩篇91篇は、神がご自身の子を御使いたちの手で守る、と約束し ています。しかしそれは前もって実験して神を試すために与えられたのではありません。そうではなく、神に信 頼して従う者は必ずこのように守られるということを言っているだけです。私たちに命じられているのは神に信 頼する歩みです。それをしないで、本当に神は守って下さるかどうか、まずは一度試してみよう!という態度 は、すでに不信仰から出ている態度です。そして必要もないのに、神が本当に動いて下さるかどうか調べみよう とすることは、神を人間の思い通りに動かし、操作しようとする罪です。イエス様はそのような不信仰を拒否さ れました。そして実験によってではなく、服従の生活を通して、この御言葉を自分のものとする道へと進まれた のです。

このようにしてイエス様が悪魔の誘惑に打ち勝って下さったことは、何よりも私たちのための出来事です。この 悪魔との戦いは決してイエス様個人の出来事ではありません。これは私たち人間の代表としての戦いです。こう して悪魔に負けず、罪を一つも犯さない人間が現れたことによって、私たちには救いの道が開かれて行ったので す。私たちはこれが私たちの救いのための戦いであったことを見て、この主のお姿に心から感謝する者でなくて はなりません。

と同時に、今や十字架と復活を経てサタンに決定的勝利を収めたイエス様につながっている者として、私たちも またやがての新しい天と新しい地が完成するまでの間、サタンと戦うように召されています。私たちも日々、今 日の箇所と同じように、神を試す罪を犯すようにと誘惑されます。カルヴァンはここの注解において、示唆に富 むコメントをしています。彼は「神を試す」とは、私たちに与えられている手段を無視することであると言って います。たとえばある箇所でイエス様は「どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話す べきことは、そのとき示されるからです。」と言っています。しかしだからと言って説教者は準備をサボって講 壇に上ってはならない。聖霊が話させて下さると言って、土曜の晩にテレビの前に長く座ったり、そのあげくも ういいや!と早く床についてはならない。これは祈りつつ良く準備をしてこの奉仕に当たるべきであるという定 められた手段を無視することです。それは神を試みることです。もちろん主の働きのために一週間その身をささ げて、どうしても普段のようには準備できなかったという場合はあるでしょう。その時は先の御言葉は確かに支 えと励ましになります。あるいは私たちは何か霊的な体験をしたいと願う時もそうです。私たちはそのことを通 常定められている手段を無視して求めてはなりません。すなわち聖書を規則正しく読み、祈り、礼拝生活を欠か さず、主に地道に従う歩みを抜きにして、何か冒険的なことをやってみれば主の特別な祝福を体験できるかのよ うに考え、試すことは主を試みることです。あるいは困難の中に置かれた時、私たちはこの罪を犯しやすいかも しれません。「神がもし共にいて下さるなら、私のこの願いをかなえて下さい。それによってあなたが共にいて 下さることを私にはっきり示して下さい!」と神に条件を出し、神に私が決めたことを押しつけようとする。こ れは神を操作しようとすることです。そうではなく、私たちのすべきことは神に信頼して従うことです。

神がこの「神を試みること」を禁じているということは、裏を返せば私たちは神を真心から信頼して良い!とい うことです。試す必要なんかないのだ!ということです。神は私たち一人一人を御心に留め、その力強い大いな る御手で上から常に守り支えて下さっています。詩篇34篇の記者が「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張 り、彼らを助け出される。」と語っている通りのことを現実にして下さっています。ですから私たちのすること は主を試すことではなく、主に信頼することです。主の上に立って主に指図することではなく、反対にへりく だって、心騒がせずに主に従う生活をすることです。そういう人に対して、「神は、御使いたちに命じてあなた を守り、あなたの足が石に打ち当たることのないように、あなたを支える」というこの素晴らしい御言葉は確か に約束されており、また真実に成就されるのです。