ルカの福音書 5:33-39

新しいぶどう酒
パリサイ人やその派の律法学者たちは、前回の箇所に続いて二つ目の問いを今日の箇所で発しています。「なぜ、 あなたの弟子たちは断食をしないで、食べたり飲んだりしているのですか。」 パリサイ人たちにとっては、 取税人や罪人と親しく交わることも受け入れられないことでしたが、さらに、イエス様と弟子たちが楽しく食べ たり飲んだりしているその「陽気さ」も受け入れられませんでした。彼らは、宗教的であるということは、 もっと厳粛で苦しい顔つきをしていることだと思っていました。特にその表れとして定期的な断食の習慣が 見られるべきだと思っていました。断食を実践していた人たちとして、彼らはまずヨハネの弟子たちを例に あげています。なぜヨハネの弟子たちは断食を行なっていたのでしょう。ある人は、彼らの師であるヨハネが 牢につながれていたからではないかと言いますが、もっと正しいと思われるのは、ヨハネが悔い改めのバプテ スマを説いていたこととの関係です。その悔い改めと関連する形で断食が行なわれていたと考えられます。 そして、パリサイ人たちも断食を行なっていました。後のルカ18章のパリサイ人と取税人の祈りのたとえに 出て来ますように、彼らは週に2度断食を行なっていました。その断食はしばしば人に見せるためのパフォー マンスで、中身は乏しかったようですが・・。

いずれにしても、神を信じる当時の敬虔な人たちの間で、断食は当然見られるべきであると思われていました。 ところがイエス様のグループにはそれが見られない。見られるのは取税人や罪人たちを交えての大宴会です。そ こで彼らは「あなたの弟子たちはどうして断食をしないのですか。」という問いによって、イエス様に「あなた は断食についてどうお考えなのですか。食べたり飲んだりばかりしているあなたがたのあり方は、信仰者として どうなのですか。」と問うたわけです。

これに対してイエス様は答えられました。34節:「イエスは彼らに言われた。『花婿がいっしょにいるのに、 花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。』」 ユダヤでは結婚式が次のように行 なわれたようです。まず招待された人々は結婚式当日、花婿の家に集まって来ます。すると花婿は花嫁の家に向 かって出発します。そして花嫁を連れて再び自分の家へとパレードをして来ます。その花婿の姿が人々の視界に 入った瞬間が合図となり、結婚披露宴はついに開始となります。そのような時、つき添う友だちが一斉に断食を 始めたらどうでしょうか。それは全くおかしな姿になってしまいます。

イエス様はこのようにして、ご自分の地上への到来は結婚披露宴における花婿の到来にたとえられる喜びの時で あると言われました。なぜかと言えば、イエス様は旧約時代をかけて長く待ち望まれて来た神の救いをついに地 上に携えて来られた方だからです。旧約聖書でもやがてメシヤを通して与えられる祝福が祝宴にたとえられて来 ました。イザヤ書25章6節:「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒 の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。」 また神がそうしてご自身の民を祝福 して下さることが結婚にたとえられてきました。イザヤ書62章5節:「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神 はあなたを喜ぶ。」 まさにこの約束された祝福をイエス様はもたらしています。ですからそのイエス様と共に ある人たちは、婚礼に招かれた花婿の友だちのような状態にあるのであって、そういう今は断食を強いる時では ない、また断食で特徴づけられるべき時ではないとイエス様は言われたのです。

もちろん、イエス様はこのように言われたことによって、断食を廃止されたわけではありません。イエス様自 身、荒野の誘惑において40日40夜断食されましたし、山上の説教の中で「断食するときには、やつれた顔つ きをせず、頭に油を塗って、云々」と語られました。ですからそれを行なう適切な時というものはあり得る。し かし今や新しい時代が到来したということ、結婚披露宴にも似た喜びで特徴づけられるべき時代が到来したと いうことをイエス様は強調しているのです。

この言葉が語られたただ中で35節の言葉も語られました。35節:「しかし、やがてその時が来て、花婿が取 り去られたら、その日には彼らは断食します。」 イエス様はここでやがてのご自分の十字架を見ています。 「取り去られる」という言葉は強い言葉で、イエス様が暴力的な仕方でそのような扱いを受けることを示唆して います。その日には弟子たちは悲しみに包まれて断食するだろう。これはイエス様が今ついにもたらしている救 いの祝福は、イエス様の大きな犠牲と引き換えにして与えられるということです。イエス様はそのことをここで すでにしっかり見つめておられたのです。その苦難と犠牲を通して、イエス様は結婚式にたとえられる喜びを永 遠に渡るものとして確立し、信じる者たちをこの祝福に生かすことができるのです。

さて、このようにイエス様は新しい救いの日を到来させた方です。この祝福にあずかる人たちの生活は、それ以 前の人々の生活と何かが違っていても不思議ではありません。そのことをイエス様は30節以降で3つのたとえ で語っています。まず最初の2つを読みます。36~38節:「イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。 『だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをす れば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないので す。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶど う酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に 入れなければなりません。』」 詳しい説明は不要かと思います。要するに、新しいものと古いものを混ぜた り、継ぎはぎすることはできないということです。あるいはイエス様がもたらしている新しい祝福を古い枠に閉 じ込めようとしても、そこには収まり切らないということです。イエス様が到来した新しい時代においては、そ れに見合った新しい生活様式が必要となるということです。

しかし、この言葉は非常に誤解されやすい言葉です。一見これはこれまでのものを全部否定するような強い調子 を持っています。新しいことが何でも奨励されて、伝統的なこと、保守的なことには価値がない!と主張したが る人たちに悪用されやすい言葉です。イエス様は決して、過去を軽視し、これからは自由勝手気ままにやって良 いと言われたのではありません。イエス様はこれまで見て来たところでもエルサレム神殿で割礼と清めの儀式を 受けられました。安息日には会堂に行かれました。また山上の説教では「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄 するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。 ですからイエス様は古いものを軽視する形で、新しいものを勧めておられるのだと誰かが主張するなら、それこ そイエス様があらゆる箇所で避けようとした立場であったと言えます。

しかし、私たちはこのような御言葉の悪用を警戒するあまり、反対の極端に振れて、今日の御言葉に示されてい る新しさを否定したり、無視してはなりません。まず私たちがしっかり押さえて置くべきは、イエス様がここで 言っている新しさとは、私たちが直感的にこれは新しい!と考えるもののことではなくて、イエス様が来る前の 時代に比べて、イエス様が来たことによる新しさという意味であるということです。これまでは影しかなかった のに、今やそれが指し示す本体がやって来ました。そこには当然大きな喜びが伴うはずです。神の国が現実に 地に臨み始めたからです。

では、イエス様が来られる前と来られた後には大きな違いが見られるが、その後の2000年間には特に変化は ないということになるのでしょうか。たとえ私たちがイエス様が来られた以後の時代に生きていても、イエス様 がもたらした神の国の祝福に生きていなければ、それ以前の人々と同じになります。ですから私たちが新約時代 に生きている=その新しさに生きているという保証にはなりません。大切なことはイエス様がもたらしている神 の国の祝福に私たちが真に生きることです。そしてそこから自ずと導かれる新しい皮袋、新しい生活様式によっ て歩むことです。単に礼拝で讃美歌を歌うことをやめてワーシップソングを取り入れたから、あるいはオルガン ではなくドラムを導入したから、あるいは斬新なスタイルを取り入れたから私たちは新しい皮袋を持っている! そういうことを今日の箇所は奨励しているのではありません。今述べたことは私たちの肉の感覚で「新しい」と 感じる事柄にしか過ぎないでしょう。そうではなく、今日の箇所が言っていることは、イエス様としっかりつな がることによって与えられる新しさのことです。新しいぶどう酒にたとえられているイエス様がもたらしている 神の国の祝福を真に味わうことです。そうする時、私たちはそれ以前の人々の生活とは区別された、新約時代の クリスチャンにこそ特徴的な新しさに生きることができるのです。

最後39節の3つ目のたとえでイエス様は言われました。「また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい 物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」 これはせっかく新しいぶどう酒を携えてイエス様が 来ているのに、それを味わおうとしない人々に対する皮肉です。その人々は以前のものに固執しています。古い 物は良い!と言い続けて、新しいものに心開かない。イエス様はそういう彼らの姿をこのように描写しつつ、そ ういう態度をやめて、ここにある新しい祝福を味わうようにと招いているのです。「古いものは良い」の一点張 りで態度を堅くするのではなく、まずはこれを味わってみよ!そうする時、その人は自分の生活がそれまでの枠 に収まり切らないものとなることが分かるのです。

私たちの生活はどうでしょうか。改めて今日の箇所から心に留めさせられることは、イエス様がもたらしている のは「喜び」の世界であるということです。花婿が来たのであり、結婚披露宴にたとえられる祝福の世界がイエ ス様と共に地上にやって来た。もちろんなお私たちの生活に悲しみはあります。最終的な天国に入ったわけでは ないので、地上にあるがゆえのうめき、叫びは残っています。しかしイエス様の到来によって、私たちはそのす べてを乗り越えられるということがはっきりしています。イエス様の十字架と復活によって、信じる私たちには 罪の赦しがもたらされました。確実に救われる者となりました。そのことを聖霊によって確信する者となりまし た。また神との平和を頂き、神の子どもとなり、大胆に神に近づく者とされました。地上で起こるすべてのこと が相働いて私の益となり、私の聖めに通じ、最後は神とキリストを映し出す栄光の状態に達する者とされまし た。このような祝福にリアリティーをもって生き生きとあずかる者となったがゆえに、新約時代のクリスチャン 生活は「喜び」で特徴づけられることは明らかです。ピリピ4章4節:「いつも主にあって喜びなさい。もう一 度言います。喜びなさい。」 Ⅰテサロニケ5章16~18節:「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 すべてのことについて、感謝しなさい。」 確かにこの後の6章21節や25節には、「いま泣く者は幸いで す。」とか「いま笑うあなたがたは哀れです。」という御言葉があります。ある人は、では私たちは喜ぶべきな のか、泣くべきであるのか、クリスチャンとしてどっちがふさわしいのか、と問うかもしれません。もちろん聖 書で両方言われているのですから、どちらも正しいのです。しかし支配的なのはやはり喜びでしょう。「いつも 喜んでいなさい」という御言葉はありますが、「いつも悲しんでいなさい」という御言葉はありません。泣くの はあくまで喜ぶためです。イエス様は私たちが最終的に泣くためではなく、自分の罪を泣いてイエス様のもとに 逃れ、そこに備えられている喜びに生きるように私たちを招いているのです。

私たちの生活はどうでしょうか。大切なことはまず外側の形式ではありません。皮袋にばかり思いを向け、色々 な人の皮袋をただ比較することではありません。そうではなく、私たちが向かうべきはイエス様との交わりに真 に生きることです。イエス様は御言葉においてご自身を現わし、差し出しておられます。そこに新しいぶどう酒 の世界があります。その新しいぶどう酒には、これを知らない状態にある人の古い皮袋を打ち破るエネルギーが あります。そのイエス・キリストとの出会いと交わりを求めて行く時に、私たちは神がイエス・キリストに会っ て与えて下さった新しさに生きることができるのです。そこにこの花婿を迎え、かの日に最終的に迎えようとし ている私たち婚礼に招かれている者たちの喜びに支配された新しい祝福の歩みがあるのです。