ルカの福音書 6:1-11

安息日の主
今日の箇所では安息日の問題が取り扱われています。安息日については、十戒の第4番目に語られています。 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。云々」 ユダヤ人 はこの戒めに基づき、彼らなりの解釈で、安息日はこう過ごすべきだという考えを持っていました。そして、 それは彼らの生活に根付いて、一つの伝統となっていました。ところがこの日に対するイエス様の考え方は、 当時のそれとはかなり違っていた。そのためにパリサイ人たちはイエス様と激しく衝突します。私たちは これをどう見たら良いのでしょうか。結論から先に言えば、イエス様はこのパリサイ人らとの論争において、 彼らの律法理解の誤りを明らかにされます。そして安息日の主として、この日の本来の正しいあり方について 教えて行かれるのです。

まず最初に記されているのは、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べた事件です。他人の畑に入っ て麦の穂を摘んで食べることは、イスラエルの律法においては許されていました。それは貧しい人々に対する配 慮の取り決めです。ただし鎌などの器具を使って大量に取ることは禁じられていました。申命記23章25節: 「隣人の麦畑に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならな い。」ですから、パリサイ人は他人の畑で麦の穂を摘んだことを問題にしているのではありません。彼らが咎め ているのは、これを安息日に行なったことです。手で穂を摘むことは刈り取り、手でもむことは脱穀、そしても み殻を除くことは吹き分け。どんな仕事もしてはならない日に、あなたがたはどうしてこのようなことをする のか、と彼らは訴えたのです。

これに対してイエス様は答えられました。3~4節:「イエスは彼らに答えて言われた。『あなたがたは、ダビ デが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家には いって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたでは ありませんか。』」 イエス様はここで、かつてダビデが祭司以外は食べてはならないと規定されていたパンを 食べたことについて言及しています。これは律法の文字からだけ判断するなら、立派な律法違反です。イエス様 は何を言いたいのでしょうか。あのダビデもかつて律法を破ったことがあったのだから、そんなにうるさいこと を言わなくても良いということでしょうか。もちろんそんなことを言ったら、すべてはメチャクチャになってし まいます。イエス様が言いたいことはこのことです。一見したところ、律法違反であるこのダビデの行動を、旧 約聖書自体が咎めてはいない。ダビデがこの結果、神から懲らしめを受けたとか、悔い改めを求められたという ことは聖書に示唆されていない。むしろ、1サムエル記22章10節には、祭司アヒメレクはダビデの願いを聞い て、まず主に伺い、それから彼に食料を与えたと記されています。つまりこの一見、律法違反と見えるダビデの 行動を主なる神ご自身が承認しておられるということです。言い換えれば、神はある人が差し迫った必要のもと にある場合には、律法の規定をわきに押しやることがある。律法はもちろん守るべきものとして与えられていま すが、困った人が現にそこにいるのに、緊急を要する人がそこにいるのに、その人を無視して、とにかくこの律 法は絶対に守られるべしと主張し、その人を見殺しにするような仕方で適用されるべきではない、という ことです。

しかし、このように言うとある人は、これでは結局、律法が軽んじられてしまうのではないかと心配するかもし れません。安息日もなし崩しになるのではないか、と。これについて私たちの教会の信仰基準であるウエストミ ンスター信仰告白には明快にまとめられています。第21章8節:「それで、この安息日は、人々が自分の心を 正当に準備し、その日常の用務をあらかじめ整理したのち、この世の職業や娯楽についての自分の働き・言葉・ 思いから離れて、まる一日きよい休息を守るのみでなく、神礼拝の公的私的営みと、やむをえない義務と慈善の 義務とに、全時間従事するときに、主に対してきよく守られる。」 今日のルカ6章1~4節で取り上げられて いるのは、この中の「やむを得ない義務」あるいは別の訳によれば「必要な義務」のことでしょう。もちろん、私 たちはここで注意が必要です。今日は安息日だが、これをやることも必要、あれをやることも必要、このことも やむを得ない、あのこともやむを得ないなどと言うなら、際限なく広がって行きます。今の信仰告白にあったよ うに、私たちはこの安息日は安息日にふさわしいことに集中できるように、他の日にできることは他の日にやっ ておくことが大事です。そのための心と体の準備を他の六日間の内にしておくことが肝要です。それをいい加減 にしておいて、突然安息日を迎え、これはやむをえない、これもどうしても必要、などと言うのではお話になり ません。しかしその一方、前もっての準備が本当にかなわず、安息日に緊急の必要が生じるということはあり得 ます。サウル王の迫害から急いで逃れていたダビデの場合もそうでした。またイエス様に従って神の国の宣教に 没頭していた弟子たちもそうだったのでしょう。そういう状況にある人のことを考慮せず、無理やりこの安息日 律法を当てはめて、その人たちを批判し、見殺しにすることが律法の目的ではありません。律法を守ることは大 切であり、そこに神が多くの祝福を用意していることは言うまでもないことですが、神はそれをある時にその通 り守ることがどうしても難しい状況にある人への配慮をきちんと示しておられるのです。その神のお心に沿っ て、私たちは律法の問題を、またこの安息日の問題を考えて行くべきです。

もう一つの出来事が6節以降にあります。別の安息日にイエス様は会堂に入って教えておられると、そこに右手 のなえた人がいました。律法学者やパリサイ人たちはイエス様を訴えるためにじっと見ていた、とあります。も しこの日にこの人を癒せば、またしても安息日を破ったことになる!と。彼らの論理は、何もこの人を今日癒す 必要はないということです。今、この人は命が危険な状態にあるわけではないから、明日癒してもらっても良 い。イエス様はその彼らの考えを良く知っておられて、手のなえた人をあえて皆の前に出します。そして「手を 伸ばしなさい。」と語られて、その人を癒されますが、その前に大事なことを語られました。9節:「イエスは 人々に言われた。『あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行う ことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。』」 ここから私たちが改めて 教えられることは、安息日はただじっと息をひそめて何もしない日ではなく、積極的に善を行ない、あるいは命 を救う働きをすることがふさわしい日であるということです。私たちはもちろん、安息日には日常の働きを一旦 ストップして、神を礼拝するために自分の心と体を用いるべきです。しかし神と自分の間でだけ過ごして、他の 人には思いを向けないのが良いのではなく、積極的に周りの人にあわれみを行う日としてもこの日を活用すべき であるということです。先ほどのウエストミンスター信仰告白の言葉で言えば「慈善の義務」あるいは「あわれ みの義務」に従事する日でもある。イエス様はこのことを単にしても良いというレベルで言っているのではな く、これを行うことがふさわしい!と積極的な意味で言っていることを心に留める必要があると思います。

果たして、私たちの安息日のとらえ方はどうでしょうか。私たちはこの聖日を守るために一生懸命戦って勝ち取 ります。そのことは素晴らしいことであり、祝福の道です。しかしそのあまり、何らかの事情があって私たちと 同じようにはこの日を守ることができない人を見て、パリサイ人のようにさばいていることはないでしょうか。 もちろんこの例外的規定を私たちは簡単に当てはめてはなりません。本当にやむを得ない理由のために聖日を守 ることができないのか、この日のために他の日からきちんと準備をしたのか、が問われるべきです。しかし、そう いう吟味を経ても、みことばに命じられている通りに安息日を守れないやむを得ない場合は実際にあり得ます。 神ご自身がそういう余地があることを認めておられます。また、あわれみのわざについてはどうでしょうか。神へ の礼拝に集中することは良いことですが、そのことが他者へのあわれみに心と体を用いない言い訳になっている ことはないでしょうか。まず第一に神を愛し、神を礼拝することが最重要な課題であると共に、その神が喜ばれ るあわれみのわざのためにも、この聖日が用いられるべきことを私たちは改めて考える必要があるのではない でしょうか。

最後に、真ん中の5節の言葉について考えたいと思います。イエス様はそこで「人の子は、安息日の主です。」 と言われました。これは人の子であるイエス様こそ、この安息日の上に主権を持っているという意味でしょう。 この日はどういう日で、どのように過ごされるべきか、そのあり方を権威を持って示し、教えることのできる方 ということでしょう。しかし、イエス様がこの安息日の上に特別な主権を持つのはなぜでしょうか。それは一言で 言えば、このイエス様において安息日は真の意味で成就するからでしょう。旧約における安息日制度はやがて神 が下さる最終的な祝福を指し示すものでした。彼らはまず6日間、自分の働きをなし、そして7日目に安息日を 味わうことによって、自らの働きを通してやがての安息に達するという図式の中で歩むように導かれました。し かしさっそくアダムとエバが罪を犯して以来、人間は自らの力では、最終地点にある祝福に達することができな くなりました。そんな私たちにとって望みは約束のメシヤが来ることです。その方が来られて、再び安息の祝福 への道を付けて下さることです。そのメシヤであるイエス様は来られて、私たちが安息に達することができるた めのすべてのわざを成し遂げてくださいました。そして、私たちの代わりに十字架上で死に、私たちの罪の贖いを 成し遂げてくださいます。このイエス様においてこそ、この安息の祝福は私たちの前に開かれたのです。マタイ 11章28~30節:「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあな たがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負っ て、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷 は軽いからです。」 これはまさに安息日の主なるお方の言葉に他なりません。このような安息日の主なるお方 が、今日の箇所で見たような御心を持っていて下さいます。緊急の必要を覚えている人がいるなら、その緊急の 必要がまず満たされることを安息日律法の遵守よりも先に来ることをお許しになる。また、この日には積極的に善 が行なわれ、いのちを救う憐れみの働きがなされることを御心とされる。イエス様はこのように色々な困難や弱 さの中にある私たちが、この安息日によって殺されるのではなく、むしろ生かされ、この日の祝福にあずかるよ うになることをご自身の御心としておられるのです。そのことを安息日の主として、ここではっきり宣言下さっ ているのです。

私たちはこの主の御心を感謝して、この安息日の祝福を味わう者となって行きたいと思います。素晴らしい事実 は、イエス様の十字架と復活の御業が成し遂げられた後、この安息日は週の初めの日に移ったことです。それま での働いて、働いて、安息にたどり着くという図式から、まず週の初めの日にイエス様が勝ち取って下さった安 息にしっかりあずかり、それから一週間の働きに向かって行くという図式に変わったことです。私たちは新しく 与えられたこの一週間が恵みの力によって支えられ、導かれるために、この初めの日の安息日の祝福に豊かに生 かされることを求めたいと思います。この日に主が勝ち取られた救いを喜び、主との結びつきを通して、たまし いと体の両面に渡る深い平安、安息を頂く。そしてただ一人でこの祝福を所有するのではなく、一人でも多くの 人々がこの主の祝福に生かされるために、心と体を用いて仕える。こうして週の初めの日ごとに主イエスによっ て勝ち取られた安息の祝福を味わいつつ、この日が指し示す最終的な安息を確信を持って待ち望み、必ずその日 に至るように導かれる力ある歩みへと励まされてまいりたく思います。