ルカの福音書 6:17-26

幸いな人と哀れな人
今日の箇所から始まるイエス様の説教は、マタイの福音書では「山上の説教」と呼ばれる部分に相当します。このルカの福音書でも「~する者は幸いです」とい う幸福についての教えから始まり、最後は家を建てた二人の人のたとえで終わっています。しかしルカの福音書 のこの部分は、普通「山上の説教」とは呼ばれません。なぜならイエス様は山に登ってこの話をされたのではな く、「山を下り、平らな所にお立ちになって」話されたからです。それためこの箇所は「山上の説教」ではな く、「平地の説教」と呼ばれています。ある人々はこの食い違いを何とか説明しようとして次のように言いま す。これらは同じ時、同じ場所で語られた説教だったが、二つの違った方向から見たから、このような書き方に なったのだと。つまり山の下の方からイエス様を見上げた人にとっては「山上の説教」となり、イエス様より高 い位置に座っていた人から見れば「平地の説教」となったのだと。またある人は、今日の箇所の前の12使徒の 選抜は山の上でなされましたから、その山の上でまず「山上の説教」をイエス様は語られ、次に山を降りて来た ところで、そこに集まっていた群集にも向かって「平地の説教」――山上の説教の要約版として――を語られた のだ、と言います。興味深い話ではありますが、私たちはこれら二つを無理やり一つのものとしてこじつけなく ても良いと思います。イエス様は一度語られたことを他の場所で話されたこともあったでしょうし、色々な状況 で前に語ったテーマやたとえを用いて話されたこともあったでしょう。ですから私たちは「山上の説教」を頭に 入れておいて良いのですが、それよりもルカがここで書き記していることは何か、この福音書に見られる独特な メッセージは何か、ということにより関心をもって見て行くことが大切です。

さて、まず記されているのはキリスト教の幸福についての教えです。神から見て幸福な人、それは「貧しい者、 いま飢えている者、いま泣いている者、人々からけなされている者」であるとイエス様は語られます。これはこ の世の考え方の丸っきり反対です。この世では貧しいよりはお金持ちの方が幸せである、飢えているよりはお腹 一杯の方が幸せである、泣いているよりは笑っている方が、迫害されるより人から褒められる方が幸せである、 と考えられています。ところがイエス様は今日の箇所の後半では、そういう人たちこそ哀れだ!と言われます。 すなわち富んでいる人、いま食べ飽きている人、いま笑っている人、人にほめられている人は哀れである、と。 お気づきのように前半の4つと後半の4つはそれぞれ対応しています。私たちは普段慣れ親しんでいる価値観と このことがあまりにも違っているため、頭がグラグラして来ます。そしてもしこのことが本当なら大変です。私 たちはもしかすると間違った道を進んでいるかもしれない。イエス様の言葉に聞いて、早急に真の幸福の道にこ そ進むよう、自分の生活を整えて行かなければならないということになります。

では、具体的に「幸いな人」とはどんな人なのでしょうか。マタイの「山上の説教」と比較すると、ルカの平地 の説教の特徴が分かって来ます。まずルカの福音書では「貧しい者は幸いです」と始まっていますが、マタイの 福音書では「『心の』貧しい者は幸いです」となっています。つまりマタイの方における貧しさは「心の状態」 に関することになっています。それに対してこのルカの平地の説教では「心の」という言葉が入っていません。 このことは私たちがこの箇所を簡単に内面化し、あるいは精神化して考えることに反対しているのではないで しょうか。それは二つ目の「飢えている者」についても言えます。マタイの福音書では「『義に』飢え渇いてい る者は幸いです。」とあります。しかしルカには「義に」という言葉はありません。このことは、実際に食べ物 に飢えている人、今日の生活に困っている人のことがまず視野に入れられていることを意味するのではないで しょうか。

もちろん、このことは実際に貧しい人、いま飢えている人がみな、自動的に幸いな人であるということではあり ません。幸いな人とは年収何万円以下の人であり、それを1円でも超えた人は自動的にみな哀れというわけでは ありません。このルカの御言葉が私たちに考えさせようとしていることは次のことです。すなわち私たちの実際 的な外側の状況と私たちの心の内側の状態には深い関連があるということです。大切なのは確かに心の状態なの ですが、外側の生活が満たされていると、後に見ますように私たちは神を求めなくなる。その一方、実際に苦し い状況に置かれて初めて私たちは神を真剣に求め、神の恵みの御座に近づくように追い立てられます。そしてそ の中で自らがいかにちっぽけで、霊的に貧しい者であるかを悟って、神の前にへりくだり、正しい姿勢で神の前 に立つように導かれるのです。このような貧しい者が幸いであると言われる基礎は、何と言っても神が恵みに よって、貧しい者を顧みて下さるあわれみ深い神であられることです。苦境にある私たちを見て、神はそれは自 業自得だと言って見放しても良い。罪の報いとしてそのような災いを刈り取っているだけだ、と私たちを一瞥し て、そのまま目をそむけても良い。ところが聖書においてご自身を啓示している世界に唯一の神は、素晴らしい ことに、貧しい者をただ恵みによって顧みて下さるお方です。ですから詩篇にはこのような祈りがあります。 「私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅 れないでください。」(詩篇40:17) 「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことな く、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」(詩篇 22:24) 

この神によって私たちは地上にある時から天国に至るまで、神が下さる幸いに生かされます。まず20節の「貧 しい者」に対しては、「神の国はあなたがたのものだから」と言われています。これは現在形で書かれていま す。すなわち神に信頼する者は今この時から神の国、すなわち神の恵みのご支配の中に生きることができるとい うことです。21節の「いま飢えている人」に対しては「やがてあなたがたは満ち足りるから」、また「いま泣 く人」に対しては「やがてあなたがたは笑うから」とあります。これらはどちらも未来形です。この人々はまず 霊的な意味で飢えを満たされ、慰めを受けるかもしれませんが、現実的な課題はすぐ解決するとは限りません。 信仰はお金を入れれば商品がすぐ出て来る自動販売機的なものではありません。しかし神は救いの神です。罪を 赦し、ご自身の子として受け入れて下さったお方は、より頼む者が満ち足りる日、また笑顔を取り戻す日を必ず 来たらせて下さる。そして22~23節。ここでは「人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがた を除名し、辱しめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき」、天であなたがたの報いは大きいと言われていま す。この世でイエス様に従うことには様々な困難が付きまといます。この世はイエス様を十字架に付けて殺した 世ですから、そのイエス様に付くなら、世から同じような苦しみを受けることは当然予期されます。しかしその 人は、天における報いは大きいと言われています。だから人々から迫害されたら、おどり上がって喜びなさいと 言われています。私たちもクリスチャンとしての信仰を貫いて生きようとすれば、職場で、学校で、地域で、あ るいは家庭でつらい思いをすることもあるでしょう。しかしその時、暗い顔をしてうつむくのではなく、むしろ この御言葉に従っておどり上がって喜ぶべきなのです。なぜならそのような人こそ、非常に幸いな人であるとイ エス様が言っておられるからです。神はそのような人に、天で大きな報いを用意していて下さるからです。

さて、24節以降の哀れな人についても、私たちはルカが記している線に沿って読まなければなりません。ルカ はまず心の問題ではなく、実際に富んでいる人、実際に食べ飽きている人のことを言っています。ですから私た ちは次のように考える必要があります。もし思わぬ収入があって、懐が温かくなった時、自分は今、哀れな者に なろうとしていないだろうかと考える。あるいは美味しいご馳走をたらふく食べて、げっぷでも出たものなら要 注意。イエス様が言われた「食べ飽きた哀れな人間」になろうとはしていないか。また「アッハッハ」と大声を 出して笑った瞬間、ちょっと待てよ、私は果たして大丈夫?と考えて見る必要がある。また誰かが自分の良いう わさをしているのを耳にした時、さて私は今とても危険な誘惑の道にあるかもしれない、と警戒する。なぜそう かと言うと、私たちは満たされ、豊かさを味わい始めると、自分にはもう神は必要ないと考え始めやすいからで す。自分は今や現実的な富と楽しみを十分持っている。一体これの何が悪いか。どうして神やキリストを求めな ければならないのか。この満ち足りている思いに比べて神が与える約束とは一体どれほどのものなのか、と高ぶ るのです。しかしその人はやがての日に重大な間違いを犯して来たと知ることになります。その一つの例が後の 12章に出て来る「金持ち農夫のたとえ」です。彼は豊作になって物をたくさん貯え、「これからは安心して、 食べて、飲んで、楽しめ」と自分の魂に向かって語りかけたその夜、神にこう言われます。「愚か者。おまえの 魂は、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意したものは、一体だれのものになるのか。」  彼はこの時になって初めて、自分は真に大切なものを何も持っていなかったことを知るのです。またさらにその 後の16章の「金持ちと貧乏人ラザロのたとえ」もそうです。死後ハデスに落ちて初めて、自分が全く誤った判 断のまま、地上の人生を過ごしてしまったことに金持ちは気がつくのです。ですからヤコブは彼の手紙の5章1 節でこう言っています。「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさ い。」 もちろん金持ちであることイコールみな哀れであるということではありませんが、往々にして外側の状 況と私たちの心の状態はつながっています。ですから私たちは自分の外側の状況とセットで、自分の内側の状態 を点検してみる必要があるのです。

果たして、私たちはこの二つのグループの内、どちらに属する者でしょうか。ある人は今、つらく、苦しい生活 を強いられているかもしれません。食べ物のことも心配で、泣きたくなるような生活を送っているかもしれませ ん。しかしイエス様はそういう人に対し、あなたがたは幸いである!と仰っています。私たちはそういう苦しみ や悩みのただ中で、いよいよ神に近づき、神が下さる祝福と恵みに生きるように招かれています。ですから私た ちは、地上で豊かな生活をしている人を見てうらやましく思う必要はありません。イエス様は私のような者こそ 幸いだと言われました。私たちはそういう中で、神様にしっかりと目を向けて、貧しい者を豊かに顧み、真の祝 福で囲んで下さる神と共に歩んで行けば良いのです。

あるいは、私たちは反対に富んでいる者であるかもしれません。どちらかと言うと私たちは、自分を貧しい者、 苦しみの中にある者というグループに入れて考えることを好みますが、世界的に見たなら、非常に裕福な国に住 んでいる者であることには変わりがありません。そういう日本に住む私たちの多くは、神に頼らなくても自分は やって行けると思っているのではないでしょうか。そういう私たちこそ、先ほどのヤコブの言葉のように、自分 の上に迫りつつある悲惨を思って泣き叫ばなければならないのではないでしょうか。豊かであるがために、益々 神から離れ、一時的なこの世の楽しみにだけ目がくぎ付けになって、やがての御国を軽んじてはいないか、聖書 の約束からどんどん離れていることはないだろうか、と。私たちは目を覚まされたいと思います。私たちにとっ て一番大切なことは神と共に歩むことです。その歩みをするために、地上的な祝福を手にすることができず、貧 しい状況、苦しい状況、人々からひどく扱われる状況に置かれたとしても、私たちは心騒がせる必要はありませ ん。私たちの神は貧しい者を顧みて下さる神。その方によって私たちは、今ここにある時から神の国の祝福に生 きることができるからです。そのお方はこれからの歩みの中でご自身が救いの神であることを私たちの心におい てばかりか、私たちの外側の生活にも現れる形で示して下さいます。そして私たちは天に消えることがない資産 を所有し、やがて御国に入った時、ただ神の恵みによって、私は最も幸いな道を歩んで来ることができたのだと 神に感謝し、御名を心から賛美して、永遠の祝福の生活へと入って行くことができるからです。