ルカの福音書 8:22-25

いったいこの方は

弟子たちはガリラヤ湖の突風に悩まされます。ガリラヤ湖は周囲が山々に囲まれて、湖面が低いこともあり、気温の 変化によって激しい風がすり鉢状の湖に吹き 下ろすという特徴を持っていました。そして湖に浮かぶ船を下から突き上げ、ついには転覆させてしまうことがたび たびあったようです。弟子たちの舟はまさに その突風に襲われ、木の葉のように翻弄されたのでしょう。波をかぶり、舟の中に水が入って来て、命も危ない状態 に見舞われました。まさに死と背中合わせ の、次の瞬間にはどうなるか予測もつかない困難の中に彼らは置かれていたのです。

弟子たちがこの湖で経験したことは、私たちが人生の中でたびたび経験する様々な嵐のような出来事と似るところが あります。ある人は仕事を失い、経済的に困 難な状況に陥って、心配の波に翻弄されます。ある人は医者から望まない診断を告知され、また慢性の病気と戦う中 で、恐れの気持ちが洪水のように襲って来ま す。ある人は痛みを覚える人間関係――家族の中で、地域で、職場で、あるいは教会においてさえ――に悩み、まる で自分が沈んで行くように感じます。またあ る人は愛する人を失って、悲しみの中に落ちて行くように思います。弟子たちの中心メンバーは漁師であり、彼らは ガリラヤ湖を良く知っていました。そして最 初に船に乗って出発した時、湖は穏やかでした。なのに突然、嵐の中に投げ込まれた。私たちもそのように平和な生 活から一転して嵐の生活に投げ込まる時があ ります。そういう私たちはこの記事から、何を学び取って行くことができるでしょう。

まず最初に注目したいのは、弟子たちがこのような嵐にあったのはなぜかということです。22節を見て分かること は、イエス様が「さあ、向こう岸へ渡ろ う。」と言われたからということです。つまりイエス様が彼らをこの状況へ連れて行ったのです。私たちはここに、 主に従う生活にもこのような試練はあり得 る!という真理を確認します。主はご自身に正しく従う者たちをも、このガリラヤ湖の嵐の中に導かれるのです。そ れは私たちの信仰をテストし、私たちを強く し、さらに祝福を与えるためです。

ですから、私たちは毎日の生活において、たとえ自分が大変な試練の中に投げ込まれたように感じても、必要以上に 驚いたり、慌てふためいてはならないと教え られます。もちろん身に覚えのある罪が思い起こされるなら、私たちは直ちに悔い改め、赦しを希うべきでしょう。 しかしそうしてもなお取り去られない困難 は、主が私のために用意下さった訓練の時である。その経験なしには学び得ない多くの貴いレッスンを与えようとし ておられるのです。ですから私たちは与えら れる色々な困難を、神が支配しておられる特別な学びの機会ととらえたいと思います。やがての復活の朝、私たちは これらすべての試練を振り返って言うことで しょう。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。」と。そして自分が地上で経験したすべての嵐のゆえ に、神に感謝することでしょう。

さて、では嵐のただ中における弟子たちとイエス様のやり取りを見て行きたいと思います。弟子たちはこの湖の状況 の変化に狼狽します。そしてイエス様に近 寄って行って起こし、「先生、先生、私たちはおぼれて死にそうです。」と言います。先生、先生と2回くり返し呼 んでいるところに、いかに彼らが慌てていた かが示されています。しかし彼らは正しいところに願い出ました。そしてイエス様によって結果的に嵐を静めて頂き ます。ここに困難のただ中で、私たちが求め るべきお方の名前を呼ぶことさえ忘れなければ、主は私たちを助け、救い出して下さるという慰めを受けることがで きます。しかしイエス様は弟子たちを「あな たがたは良くわたしに求めました!」と賞賛してはおられません。むしろ「あなたがたの信仰はどこにあるので す。」と言われました。すなわちイエス様から見 れば、彼らのこの行動には信仰を持っている者らしいあり方がほとんど見られなかった。ただの人のように彼らは行 動していた。イエス様はマイルドな仕方であ るとは言え、彼らのあり方を叱責しておられたのです。

では、どういう信仰に彼らは立っているべきだったのでしょうか。それはまず父なる神への信頼でしょう。主なる神 がご自身の民を心にかけ、守り導いておられ るという信仰は、旧約時代からずっとイスラエル人が教え語り聞かされてきた信仰です。イエス様はその信仰を弟子 たちに求めているだけでなく、ご自身自らが この状況の中でその信仰に生きておられました。それはこの状況でぐっすり眠っていたことに示されています。これ はイエス様が私たちと同じ人間性を取られた ことを証ししています。イエス様は神の国の福音を宣べ伝えながら町や村を次から次に旅しておられましたが、その 働きは相当激務であったのでしょう。ですか ら船が水をかぶって危険な状態になっても、イエス様は目が覚めないほどの熟睡に陥っておられた。と同時にこの眠 りはもう一つのことも現わしています。それ は父なる神の守りの御手に対する深い信頼です。普通、このような状況でぐっすり眠ることはとてもできないと私た ちは思います。何か心配や緊張や恐れがある と、私たちはなかなか寝付けません。早く眠らないと明日以降の生活に支障が出ると分かっているのに、色々な思い が浮かんで来て眠れない。それはなぜでしょ うか。このイエス様の姿に照らせば、神が私たちのことをケアして下さっているということを私たちは本当の意味で は信じていないからでしょう。イエス様のよ うに神の守りの御手に憩う信仰に生きていないからでしょう。しかしイエス様は嵐の中で眠っていました。23節に は「ぐっすり」眠っていたとあります。先ほ どイエス様は激務でお疲れだったのだろうと言いましたが、そのあまり、顔をしかめてうんうん唸りながらではな く、父なる神にすべての思い煩いを委ねて、ま るで母の懐に抱かれている幼子のようにぐっすり眠っておられた。これは神に信頼して生きる人の特権であり、祝福 です。そのお姿をイエス様は弟子たちの前に 示しておられたのです。

また、この「あなたがたの信仰はどこにあるのです」という問いには、イエス様ご自身に対する信仰はどこにあるの か、という意味も含まれていたと思います。 今や旧約聖書を通して彼らが仰いで来た神は、目の前にいらっしゃるイエス様を通して力強く働いています。弟子た ちはイエス様を通して、神の力が働いている みわざをたくさん見て来ました。そのイエス様が同じ舟に乗っているのです。そのイエス様が私たちと共におられる という信仰から導かれるもっとふさわしい別 のあり方があったのではないか。「あなたがたの信仰はどこにあるのです」という言葉によって、イエス様はこのよ うな嵐のただ中でも、共にいるご自身になお 信頼するようにと、彼らを、そしてここを読む私たちを招いておられるのです。

そうしてイエス様がなされたみわざについて、最後3つ目に見て行きたいと思います。イエス様は起き上がって風と 荒波とをしかりつけました。すると風も波も 収まり、なぎになった、とあります。弟子たちはこれを見て、驚き恐れて互いに言いました。「風も水も、お命じに なれば従うとは、いったいこの方はどういう 方だろう。」 まさにこの問いこそ、今日の箇所を読む私たちも彼らと一緒に思い巡らすべき言葉でしょう。弟子た ちはこれまでイエス様の色々なみわざを見て 来ました。力強い宣教を見て来ました。病の癒しも見て来ました。ツァラアトに冒された人の癒しも、死人を生き返 らせる御業も見ました。しかしこの大自然を 一言で治める姿を見ることはまた別のことです。人はある程度、病と闘うことはできても、大自然の脅威には勝てま せん。ところが猛り狂うガリラヤ湖が、イエ ス様の一言によって、一瞬にして静かななぎに変わった。一体この方はどういう方なのか。答えはここでは語られて いませんが、それはこの方は神ご自身であら れるということ以外にはあり得ないでしょう。旧約聖書には、神こそがこのような力を持ちたもうお方であることが 語られています。詩篇65篇7節:「あなた は、海のとどろき、その大波のとどろき、また国々の民の騒ぎを静められます。」 詩篇107篇25節29節: 「主が命じてあらしを起こすと、風が波を高く した。・・主があらしを静めると、波はないだ。」 ですから、ここにおられたのは、私たちと同じ普通の人間に見 えるけれども、それは全能の主なる神であ る!ということになります。なぜそんな方が、人間の姿を取ってここにおられたのか。それはこれから見て行きます ように、やがて私たちの身代わりとして、そ の尊いいのちを十字架上で投げ出して下さるためです。その無限の値を持つ貴い犠牲をもって、私たちをすべての罪 の力と呪いとから救い出して下さるためで す。イエス様はそうして私たち罪人を滅びから救い出し、祝福するための権利を勝ち取って行かれるのです。そのよ うな全能の神が、ご自身を低めてここにおら れて、弟子たちと同じボートに乗っておられたのです。

私たちも今日の箇所を通して、イエス様を改めて新しい目で見る者へ導かれたいと思います。私たちは教理としては イエス様を神であり、人であると信じていま す。しかしいつの間にかイエス様を、神よりは一段劣った、どちらかと言うと私たち人間に近い存在のように考えが ちではないでしょうか。イエス様が神であら れることは新約聖書の色々な箇所も証言しています。ヨハネ1章1節:「初めに、ことばあった。ことばは神ととも にあった。ことばは神であった。」 コロサ イ1章16節:「万物は御子にあって造られたからです。・・万物は、御子によってつくられ、御子のために造られ たのです。」 ヘブル書1章2節:「御子は 神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」 私 たちが覚えるべきはこのような神が、私たち と同じボートに乗っていて下さるということです。マタイ28章20節:「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつ もあなたがたとともにいます。」 試練のた だ中で、私たちが乗っている船に、この全能の神なるお方も乗っていて下さると知ることは、何という慰めと力を私 たちに与えてくれるでしょうか。もちろんこ のことは私たちが乗るボートは決して転覆しないとか、クリスチャンが乗った車や飛行機は決して事故にあわない、 空からも落ちないということではありませ ん。神の守りがそういうだけのことなら、クリスチャンは病気にかかっても必ず治り、いつまで経っても死ねないこ とになってしまいます。つまりいつまでも地 上に縛られていて、天国に行けないということにもなってしまう!私たちにとって一番幸いなのは、神がご計画され た一番良い時まで地上の生涯を全うし、一番 良い時に天の故郷へ迎え入れられることです。その最善の時が来るまで、神は確かに力強い御手をもって、信頼する 者を守って下さる。誰もこの力強い神の御手 から、その中にある者を奪い去ることはできない。ですから私たちはどんな試練の中でも恐れることからは解放され ています。私たちは私たちと同じ舟に乗って いて下さるイエス様をしっかり見上げて信頼して行けば良い。私たちはその時、試練のただ中でも、大いなる平安を 頂いて歩むことができます。嵐のただ中でも ぐっすり眠り、また起きて自分のなすべきことに取り組むことができます。自分の目に周りの状況がどのように映ろ うとも、最善の御心とご計画を持って事柄全 体を導いて下さっている導き手がいて下さることを知ります。私たちはその神なるお方に頼って、今の困難の先にな ぎの状態が与えられることを待ち望み、主が ご計画下さっている最善の祝福の地へと導いて頂くことができるのです。