ルカの福音書 8:40-48

イエスにさわる

イエス様はガリラヤ湖の東岸から帰って来られます。人々は喜んでイエス様を迎えました。そうした中、まず会堂管 理者のヤイロという人のことが記されます。 彼は地位も名誉もあった人ですが、イエス様の足もとにひれ伏して、自分の家に来て頂きたいと懇願します。それは 12歳ぐらいの彼の一人娘が死にかけていた からでした。12歳というのは当時、やっと一人前と見なされ始めた年齢です。つまり、手塩にかけて育ててここま で成長した、さあこれからが彼女の本当の人 生の始まりだ!という時に、彼の娘は死に向かって刻々と衰弱していたのです。愛する子の死に行く姿を目の前にし て、ヤイロはどんなに心引き裂かれる思いで イエス様のところにやって来たことでしょう。

イエス様はそんな彼の願いを聞かれて、彼の家に向かって出発されます。すると群衆がイエス様のみもとに押し迫っ て来ます。おそらくこのために思うように前 に進むことができなかったことでしょう。一分一秒でも早くと願っているヤイロにとって、これはどんなにじれった く、またイライラするような状況だったで しょうか。さらにそこへ今日これから中心的に見る長血の女の癒しの出来事が挟まれます。これによってヤイロの家 への到着は益々遅れます。しかしこうした状 況がかえって、私たちに慰め深いメッセージを語ってくれることになります。長さの関係上、今日は48節までを見 ることとし、次回その続きを学びたいと思い ます。

さて、ここに新たに登場してくるのは、12年の間、長血を患った女です。43節に「だれにも直してもらえなかっ たこの女は」とありますように、彼女は医者 という医者に診てもらったのでしょう。マルコの並行記事を見ると、「この女は多くの医者からひどい目に会わされ て、自分の持ち物をみな使い果たしてしまっ たが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」とあります。ですから彼女は肉体的な苦しみばかりか、 経済的にも、精神的にも非常な苦しみの中に あったと考えられます。その彼女は群衆に混じって後ろからこっそりイエス様に近づきます。それは彼女が置かれて いたもう一つの苦しみと関係していたと思わ れます。レビ記15章25節以下を見ますと、血の漏出のある女の人に関する規定があり、その女の人自身が汚れの 状態にあるとされたばかりか、その人が伏し た床も、座った椅子も、その人が触ったありとあらゆるものがその日の夕方まで汚れるとされていました。ですから 12年間も汚れの状態にあった彼女は、公に イエス様に近づくことはできなかったのです。だからせめて着物のふさにさわるために、後ろから、こっそり近づく より他に方法がなかった。彼女はそのことを 行ないました。すると何が起こったでしょうか。何とたちどころに彼女の出血が止まります。マルコの福音書を見る と、「すぐに、血の源がかれて、ひどい痛み が直ったことを、からだに感じた。」とあります。しかし何かを感じたのは彼女だけではありませんでした。イエス 様もそうでした。そして進んでいた足を止め て「わたしにさわったのは、だれですか。」と問われます。ルカの記述によると、みな自分ではないと言い、ペテロ はその言葉を受けて、「先生。この大ぜいの 人が、ひしめき合って押しているのです。」と言います。しかしイエス様は、「いや、だれかがわたしにさわったの です。」と主張されます。実際に長血の女が 触ったのはイエス様の着物の「ふさ」であり、体に直接ではありません。しかしイエス様は「わたしにさわった人が いる。特別な手を伸ばした人がいる。」と言 われたのです。

ここに注目すべき一つ目のことがあります。それはイエス様は信仰によってご自身に近づく人のタッチを見分けら れ、その願いを受け止めて下さるということで す。ペテロが述べたように、ひしめき合う群衆の中で、だれかがわたしにさわったと問うのはナンセンスではないか という考えはもっともでしょう。しかしイエ ス様は、ただ誰かの手がご自分に触れたことについて問題にされたのではないのです。別の意味でご自身にさわった 人がいる。ご自身に対する信仰によって、切 なる祈りの手を伸ばした人がいる!と。

このようにしてイエス様の心に留められた彼女はどんな人であったかを思い起こすことは、意味のあることだと思い ます。彼女は汚れの状態にあった人です。自 分からはとてもイエス様に近づけないと感じていた人。その正体が明らかにされるなら、イエス様のみそばにいる群 衆の中から排除されそうな人です。しかしそ んな彼女の求めにイエス様は答えて下さった。このことを思い巡らすなら、私たちがたとえどんなに自分を汚れてい る者と自覚していても、イエス様に近づいて 良いのだということを知ります。こんな私ではとても御前に出られない、そう感じる自分でも良い。そういう者が伸 ばす手も、イエス様は感じて下さり、その求 めに豊かに答えて下さるのです。

ある人は、彼女の信仰はそんなに立派なものだっただろうかと問うかもしれません。着物のふさにでも触れば癒され るという考えは迷信ではないのか、と。しか しイエス様は今日の箇所で、彼女の信仰を低く評価している節はありません。最後の48節で「あなたの信仰があな たを直したのです。」と言っています。つま りそこにはイエス様が良しとされる真実な信仰があったのです。確かにそれは欠けが一つもない完全な信仰だったか と問うなら、そうでないかもしれません。し かし私たちの内の誰が、一つの誤りも混入していない信仰を持っているでしょう。むしろこの彼女の信仰に弱さや欠 けを見出すなら、私たちはかえって慰めを受 け取ります。すなわちそのように小さく、欠けだらけの信仰でも、イエス様はそこにある真実な信仰を認め、尊び、 それに応答して下さるということです。

それにしてもなぜイエス様は「わたしにさわったのは、だれか。」とあえてその人を探し出そうとされたのでしょう か。良くここで問われるのは、イエス様はそ の人が誰かを本当にご存知なかったのだろうかという問いです。ある人は、イエス様は人の性質をお加えになってこ の世に来られたがゆえに、ある時ある場所に おいては自発的にご自分の力を制限された。そのためにここでも誰がさわったかは本当に分からなかったと言いま す。マルコの福音書には「イエスは、それをし た人を知ろうとして、見回しておられた。」とありますが、イエス様は少なくともその直後は、さわった人を見いだ せない状態にあったように読めます。一方あ る人は、イエス様は長血の女が触ったことを知っておられたと見ます。この福音書でもイエス様は5章で律法学者た ちの心の中の思いを一発で見抜かれました し、7章ではパリサイ人シモンの心の中にあることをすべてご存知でした。また47節の「女は、隠しきれないと 知って、震えながら進み出て、云々」とある部 分は、彼女が「さわったのは私である」ことをイエス様は知っていらっしゃるという認識を持っていたことの現れで あると言われます。

いずれであれ、イエス様が「わたしにさわったのは、だれですか。」と問われたのは、犯人捜しのためではありませ んでした。これはその人と人格的な関係を持 つためです。単に癒しの祝福だけ手に入れてこっそり去って行くのではなく、イエス様とのしっかりした交わりに生 きるようになるためです。そのためにイエス 様は彼女に大切な言葉を語られます。48節前半:「そこで、イエスは彼女に言われた。『娘よ。あなたの信仰があ なたを直したのです。』」 イエス様はここ で、わたしの着物のふさにさわった行為そのものが癒しをもたらしたのではなく、その行為に現わされたあなたの信 仰が大事だったのですよ、と教えられまし た。着物にふさにさわるという魔術的な方法にではなく、イエス様ご自身により頼むことの内に祝福のカギがあると いうことです。彼女はこれまで多くの苦しみ に会い、絶望的な状況に追い込まれる中で、イエス様に対する思いへと導かれました。群衆の中に紛れるようにして でもイエス様に近づき、その背後からでも手 を伸ばす、とは大胆な方法ですが、そこには彼女のイエス様に対する信仰が確かに現わされています。そのイエス様 への信仰が大事なのです。イエス様はそのこ とをはっきりさせて、これからもその信仰に生き続けるように、ご自身により頼む信仰に生きるようにと彼女を励ま されたのです。

そういうイエス様が与えて下さる祝福を、最後48節の言葉から二つ注目したいと思います。一つは「直した」とい う言葉です。欄外の注を見ると、直訳では 「救ったのです」とあります。つまりイエス様がここで言っているのは、全人的な救いであるということです。体も 魂も含めたトータルな救いです。イエス様は 私たちの肉体の病を解決するためにだけこの世に来られたのではありません。イエス様は罪のゆえに悲惨に落ちた私 たちに神の国の祝福をもたらすために来られ ました。その救いをイエス様はここで彼女に与えて下さったのです。病の癒しは神の国の祝福の見える現れの一部で す。言い換えればイエス様が下さる救いは、 私たちが求めている地上的な救いよりももっと大きいということです。信仰によって近づく者を、イエス様はこのよ うなより大きな意味での救いに生かして下さ るのです。

もう一つ注目したい言葉は「安心して行きなさい」という言葉です。原文は直訳すると「平和の中へと行きなさい」 となります。これはヘブル語のシャロームに 対応し、その根本にある考えは神との平和です。イエス様はまさにこの祝福を私たちに与えて下さるために来られま した。罪のためにすべての祝福の源である神 との平和の関係を失い、災いと罪の呪いの内を歩んでいた私たちでしたが、イエス様はご自分の十字架の犠牲と復活 を通して、神との平和を私たちが再び持てる ようにこの地上に来て下さいました。その平和の祝福へとイエス様は彼女を送り出されたのです。この平和は神との 正しい関係から来るあらゆる祝福を含みま す。この平和を頂いて、人はあらゆる状況の中で神に信頼する真の平安に歩むことができるのです。

今日の箇所を読んで受けるチャレンジは、イエス様の周りには多くの群衆がひしめき合っていましたが、イエス様が お感じになった手はその中でたった一つだけ であったということです。私たちはまさに今ここに集まってイエス様のみそばにいます。ひしめいて取り巻いている 群衆のようです。しかしその中で私たちはこ の長血の女のようにイエス様が手応えを感じるような信仰の手を伸ばしているでしょうか。私たちはそれぞれに自分 の悩みや願い事があると思います。また兄弟 姉妹や周りの人たちのために心にかけていることがあると思います。あるいは主の働きのために祈り願っていること があると思います。私たちはそれらをイエス 様に祈ったら、全部自動的に聞かれるというわけではないことも知っています。主の御心にかなうものだけが聞か れ、そうでないものは聞かれない。しかしその あまり、私たちはイエス様に求めることをしないでいるということはないでしょうか。長血の女のようには手を伸ば していないということはないでしょうか。そ の結果、彼女がここで与えられたような祝福や平安に生かされていないということはないでしょうか。

私たちは大ぜいの人とイエス様を取り巻いているという事実に満足せず、この長血を癒された女のように信仰の手を 伸ばす者でありたいと思います。その際に私 たちが今日のみことばから覚えたいのは、イエス様は小さな者の祈りも心に留めて下さるということです。私が多く の群衆の中の一人に過ぎなくても、あるいは 汚れた者であってとても真正面から近づけないような者であっても、あるいはその信仰に多くの欠けがある者であっ ても、真実にイエス様により頼んで近づく者 を、イエス様は決して無視されないし、見過ごしにされない。「わたしにさわったのは、だれですか。」と見回さ れ、私を求め、私の願いをはるかに超える救い の祝福で取り囲んで下さる。そのイエス様のお姿を見上げて、私たちはイエス様に私たちの手を伸ばす歩みを励まさ れたいと思います。イエス様に私たちの願い を申し上げ、神の国の祝福に包まれ、イエス様が備えて下さった神との平和また平安へと、送り出されて行きたいと 思います。