ルカの福音書 9:18-27

キリストを告白する

今日の箇所にはまずイエス様が一人で祈っておられたことが記されています。このイエス様の祈る姿を記すのは、ル カの福音書の特徴の一つです。すでにイエス 様がヨハネから洗礼を受けられた時、また12弟子を選抜なさった時も、同じように祈っておられました。そのイエ ス様の口から出て来た言葉が、このあと見て 行く「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」という問いです。これは私たちの人生において最も大切な質問で す。これから見ますように、これにどう答え るかに私たちの永遠の運命のすべてがかかっています。

まず、イエス様は18節で「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねられました。弟子たちは 「人々はバプテスマのヨハネだと言っています。 ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」と答えま す。それを受けてイエス様は問われます。 「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 それに対して12弟子の代表であるペテロが答えます。 「神のキリストです。」

「キリスト」という言葉には印が付いていて、欄外を見ますと、すなわち「メシヤ」とあります。「油注がれた者」 という意味です。旧約聖書を見て分かること は、預言者や祭司や王が任職される時、彼らは神によって選ばれ、聖別された者として油注ぎを受けました。預言者 は神の側に立って民に御言葉を取り次ぐ者。 祭司は民の側に立って神に向かってとりなす者。王は神に仕えるしもべとして神の支配を地に実現する者。これら三 つの働きを総合するような救い主・メシヤが やがて現れるという期待がイスラエルの中には次第に高まって行きました。このような背景の中でペテロはイエス様 に出会い、その人格とわざとに触れました。 そしてふさわしい時が来てイエス様から「あなたはわたしをだれだと言うか」と問われた時、「あなたこそ私たちが 待ち望んで来たメシヤです、神がお遣わしに なったキリストです。」と答えることができたのです。マタイの福音書の並行記事では、イエス様が「このことをあ なたに明らかに示したのは人間ではなく、天 にいますわたしの父です。」と語られたことが記されています。またこのペテロの告白は、イエス様の祈りの後に記 されていますように、イエス様のとりなしの 祈りによって結ばれた実とも言うことができます。ペテロは神の恵みによって、最も大切な質問に、最も良い答えを なすことができたのです。

しかし、イエス様はここではそのことを喜ぶどころか、「だれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。」 と21節にあります。そしてこの時から初め て、ご自分の受難について語り始められます。22節:「そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、 長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺 され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』」 これは弟子たちにとって何と耳を疑うような言葉だっ たでしょうか。当時の人々は、弟子たちも含 め、キリストに対しては、外国の勢力からイスラエルを解放し、世界の上に高く上げてくれる力に満ちたメシヤを期 待していました。しかし私たちの問題は外側 の状況にばかりあるのではありません。実は私たちが経験しているあらゆる苦しみと悲惨の根は、私たち自身の内 に、そこにある罪という問題にこそあります。 ですから私たちの救い主は、この罪という根本問題に解決を与えて下さる方でなければなりません。そのために神が 遣わすキリストは、私たちの身代わりになっ て、私たちの罪をその身に背負い、多大な犠牲を払われる方だということが旧約聖書から示されて来ました。イザヤ 書53章の苦難のしもべの章などにはっきり 示されています。

それにしても弟子たちが聞いた言葉は大変衝撃的でした。人の子は必ず多くの苦しみを受ける、とイエス様は言われ ます。さらに長老、祭司長、律法学者たちに 捨てられると言います。これは人間の法廷で注意深く取り調べられたあげく、公けに拒絶されるということです。そ してついには殺される。イエス様はこれを、 必ず起きなければならないこととして語られました。この「必ず~しなければならない」という言葉は、神の必然を 意味する言葉です。すなわちイエス様のこれ からの苦しみと十字架の死は、単なる成り行きや偶然によるものではなく、神が初めからご計画されたことだったと いうことです。ペテロを始めとする使徒たち は、そして今日の私たちも、イエス様をキリストと告白するとは何を意味するのか、改めてその考えを正されなけれ ばなりません。キリストを告白するとは、私 の救いのために測り知れない犠牲を払って死んで下さった方であることを感謝し、自分の主として受け入れることで す。心からの悔い改めと涙とを持ってこの方 の前に額ずくことなしに、私たちは決してこの方をキリストと告白することはできないのです。と同時にイエス様が ここで「三日目によみがえらねばならない」 と言われていたことも心に留めるべきです。イエス様は苦しめられ、捨てられ、殺されるという戦いを通して、最後 には復活の命を勝ち取ることをしっかり見据 えていたのです。そこまで到達してこそ、イエス様はより頼む者たちに、死で終わらない永遠の命を与える救い主と なれるのです。

さて、イエス様がこのような方であるということは、この方に従う弟子たちにもある種の覚悟と決心が求められるこ とを意味します。23節:「イエスは、みな の者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわた しについて来なさい。』」 イエス様を信 じ、イエス様について行くということは、十字架に向かって進まれるイエス様の後ろについて一緒に行進をして行く ということであり、イエス様が受けたのと同 じような苦しみを私たちも一緒に受けることを意味します。その歩みが「自分を捨て、日々自分の十字架を負う」歩 みとして表現されています。具体的にそれは どんな生活でしょうか。それはまずイエス様が人々から捨てられ、拒絶されたように、私たちも人々から捨てられ、 拒絶される扱いを受けることを意味します。 私たちがイエス様を信じる告白を公にすると、たいてい周りの人々は歓迎しません。なぜ自分たちと違う道を行くの か、なぜ最後に十字架にかけられて死んだよ うな人を信じてついて行くのか、奇異な目で見られ、うわさ話をされます。そして何かあると嫌がらせをされたり、 笑いのネタにされたり、学校や職場や地域社 会で仲間外れにされるような扱いを受けることもあります。こういう扱いを受ける中でもイエス様について行くとい うのはなかなかに厳しいことです。またイエ ス様に従う生活は決して安楽ではありません。私たちの先を進まれたイエス様は、ご自身の命までも投げ出して下 さった方です。そのイエス様に付いて行くとい うことは、それまで持っていた様々な自分の考え、自分の計画、自分の楽しみ、自分の志を一旦わきに置き、イエス 様に従うことを第一に選び取って行く生活を 意味します。イエス様の御心にかなうことを自分の優先順位の第一位のこととし、イエス様に従って行くことです。 これはクリスチャンの定義です。特別な人た ちのことではありません。クリスチャンであるとはイコール自分を捨て、日々自分の十字架を負い、イエス様につい て行く人。いくら口でイエス様を信じますと 言っても、その生活において、自分を捨て、日々自分の十字架を負ってイエス様について行っている姿がないなら、 その人はクリスチャンであるとは言えない。

こう言われると私たちは思わず後ずさりしそうになります。しかし続くイエス様のお言葉から分かることは、私たち が招かれている生き方とは、自分で自分の命 を救おうとする生き方の反対であるということです。イエス様がはっきり仰っているように、イエス様に従う道には 難しいことが色々あります。日々困難があり ます。死さえもあり得ます。歴史の中では殉教者もたくさんいました。しかしその人たちは何も失わない。なぜなら 主に従う人は自分の考えや力によってではな く、ただ神の恵みと力によって救われるからです。もし私たちが人間的に色々考えて、自分で自分の地上のいのちを 救おうと思うなら、いつまで経ってもイエス 様に従って行くことはできないでしょう。イエス様に従う歩みには色々困難なことがあると言われているからです。 そればかりを自分の頭で考えていたらいつま で経っても前に足は進まない。そしてその人は自分のいのちを失う人になってしまう。それが24節の「自分のいの ちを救おうと思う者は、それを失い、わたし のために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」という言葉の意味でしょう。25節:「人は、たとい全世 界を手に入れても、自分自身を失い、損じた ら、何の得がありましょう。」 イエス様に従う道には困難や辛いことがあるからと言ってそれを避け、自分の生活 を守り、今の幸せを守り、この世の楽しみや 快楽を大事にして生きれば、ついには全世界を手に入れるという生き方ができるかもしれません。しかしそうした結 果、最後に永遠のいのちを手に入れられず、 自分自身を失い、損じたら何の益があるでしょうか。26節:「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思 うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使い との栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」 周りの人々の顔色を伺ってイエス様を信じ るという告白を公にしないでおきながら、や がての審判の日には、イエス様に私を知っていると言って欲しいと願うことは虫の良過ぎる願いであり、決して聞き 入れられないとはっきり言われています。も し最後の審判が行なわれるやがての最も大事な日に、イエス様に知っていると言ってもらいたいなら、今ここで私た ちはイエス様を告白し、イエス様について行 かなければならない。

イエス様は27節で、ご自身に従う者たちへの励ましの言葉も語っておられます。「しかし、わたしは真実をあなた がたに告げます。ここに立っている人々の中 には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」 ここで言われている「神の国を見る日」と はいつを指しているかについては色々な意見 があります。ある人は次のイエス様の変貌の出来事を指していると言い、またある人は十字架後の復活の出来事、ま たある人はその後の昇天、さらには天から聖 霊を遣わされたペンテコステの日、あるいはその後の教会の宣教の時代を指すと言います。どれかを決めることは難 しいことですが、イエス様が言いたいメッ セージは同じでしょう。すなわちイエス様に従う人は、この世においても神の国の現れを見始めるということです。 最終的な救いは最後の日まで待たなければな りませんが、その日までは苦難しかないのではない。主に従う人はこの世の歩みにおいても神の国の現れ、その前味 を味わい始めるのです。この助けと励ましを 頂いて、私たちは多くの苦しみがある地上の歩みにおいても、先にあるものを見つめ、喜びに打ち震えながら、主に 従うことができるのです。

私たちはこのイエス様にどうお答えするでしょうか。今日の御言葉は大変厳しいものです。しかしこれは慰めをもた らしてくれる言葉でもあります。なぜならク リスチャンはすでにこのようなものを味わっているからです。私たちは主に従うがゆえに嫌な思いをさせられている ことがあるかもしれません。主のために様々 な労苦の内にあるかもしれません。信仰を持ったのに、なぜこんな苦しい毎日なのか、とふと疑問に思う時があるか もしれません。しかしそれはイエス様の弟子 だからなのです。そう思う時に、私たちはこのことで悩む必要はないのだと教えられます。これは主が導いて下さっ ている道なのだ。祝福に至る正常な道なの だ。私たちはそのことを思って、今の歩みを投げ出さず、なお主に従う道を進みたいのです。

また、イエス様をまだ告白していない方々にも今日の箇所は語りかけています。その方々はイエス様に従う道にある 困難を思って、後ずさりしたくなるかもしれ ません。しかしイエス様は神様が下さった唯一のキリストです。この方を感謝して受け入れ、この方に従う道を進む のか、それともこの方を退け、この世のいの ちは保っても、最後に一切を失う道に進むのか。一人一人が「あなたはわたしをだれだと言いますか。」というこの 最も大切なイエス様の問いに答えなくてはな りません。私たちは神に祈りつつ、正しい選択ができるように祈りたいと思います。自分で自分のいのちを救おうと する道に救いはありません。真のいのちは私 たちのために天から降りて十字架を担い、死にまで服し、そして復活して下さったイエス様に従って行く中で与えら れます。これは全世界を手に入れるよりもは るかにまさる祝福です。この祝福こそを、私たちは「あなたこそ神のキリストです」との告白をもってどこまでも付 いて行き、この身に頂く者でありたいので す。