ルカの福音書 10:1-16

別に七十人を定め

イエス様は今日の箇所で「別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わし に」なります。イエス様はすでに9章1節で、 12弟子たちを宣教の旅に遣わしました。また前回、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた時、52 節に「ご自分の前に使いを出された」とあり ました。この使いは、その後にヤコブとヨハネの名が出て来るように、12弟子たちを指していると考えられます。 その12弟子たちに加えて、今度は70人を イエス様は遣わされのです。この70人という数字については、欄外の注に「異本『72人』」とありますように、 どっちが本当の数字なのか議論があります。 そしてこの数字の意味についても色々議論されています(創世記10章の全世界の国々のリスト、創世記46章のエ ジプトに行ったヤコブの家族の数、民数記 11章でモーセと共に主に呼ばれた長老たちの数、最高議会サンヘドリンの議員数、など)。しかし今日の箇所には 特別そのようなこととの関連は示唆されてい ません。しかしはっきり言えることはあると思います。それは宣教の畑に遣わされるのは12使徒だけではないとい うことです。この70人は霊的なリーダー シップの立場にあった人たちではなく、いわば普通のクリスチャンたちです。その彼らも、使徒たちと同じように出 て行って福音を宣べ伝えるのです。

その彼らを遣わす際、イエス様がまず求められたのは祈りでした。2節:「そして、彼らに言われた。『実りは多い が、働き手が少ない。だから、収穫の主に、 収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」 まずこの言葉の中で注目されるのは「実りは多い が」という言葉です。なかなか宣教が目に見え て進展しているようには思われない中にある私たちは、すぐにはうなずけないかもしれません。しかしこれはイエス 様のお言葉です。参考になるのは、使徒の働 き18章でパロがコリントで伝道した際、人々がパウロに反抗し、暴言を吐いたため、パウロが会堂を去らなければ ならなかった時のことです。その夜、主は幻 によってパウロに現れて「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。・・この町には、わたしの民がたくさ んいるから。」と言われました。パウロの目 にはそれが良く見えませんでしたが、神の目から見ればそうだったのです。同じようにイエス様が「実りは多い」と ここで確言して下さっていることは、私たち にとって大きな励ましです。しかしそのために緊急に祈るべき課題があることもイエス様は示されました。それは 「働き手が少ない」ということです。実りは多 いが、働き手が少ない。だからまずあなたがたのすることは、収穫の主に、収穫のための働き手を送って下さるよう に祈ることだとイエス様は仰います。果たし て私たちの祈りの中にどれほど、この「働き人を送って下さい」という祈りがあるだろうか、と思わされます。実際 に目の前にしている働きのために働き人が必 要です。それを誰かに押し付けて、人間的に解決するのではなく、主が働き人を送って下さるようにまず祈る。もち ろん私たちはこれを人ごとのような態度では 祈れません。「神様、働き人を遣わして下さい。しかし私はのぞいて。」とは祈れません。「働き人を!」と熱心に 祈る時、「神様、こんな私でもよければささ げます。御心のために用いてください。」という心なくしては祈れないでしょう。この祈りを経て、宣教という神の 働きに加えられ、仕えて行くことが大事であ るということです。

3節以降でイエス様はいくつかの心得を語っておられます。これは9章で見た12弟子たちに語られた心得とほぼ同 じです。まずイエス様は「財布も旅行袋も持 たず、くつもはかずに行きなさい。」と言います。最初の二つは分かりますが、「くつもはかずに」とは、裸足で行 け!ということでしょうか。原文を見ると、 「持って行くな」という動詞が一つあって、その後に財布、旅行袋、くつ、とあります。ですからこれは予備のくつ を持って行くな、二足目はいらない!という 意味であると思われます。これは前に見ましたように、宣教に遣わされる者にとっての永遠の変わらないルールでは ありません。イエス様は後の22章36節で 「今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、云々」と語っています。ですから状況によって判断する余地 は残されています。しかし原則は「必要以上 に多く持つな」ということでしょう。主が迎え入れる家を用意し、また生活に必要なものを行く所々で備えて下さ る。ただし、与えられたもので満足すべきであ る。また良いもてなしをしてくれそうな家があるからと言って、家々を渡り歩くようなことをしてはならない。彼ら は働きにこそ集中しなければなりません。4 節の「道であいさつしてはいけない」という部分もそういう意味でしょう。当時は道で会うと、一時間も二時間も丁 寧に挨拶をする習慣があったようです。その ようなことに必要以上に時間を取らないで、働きに集中する。そうするなら必要は十分に神が上から満たして下さ る。

そして、彼らが行った先ですることは、9節にあるように「病人を直し、彼らに『神の国が、あなたがたに近づい た。』」と述べることです。これも9章で見ま したように、言葉による宣教と憐れみのわざとまとめることができます。神は私たちの霊的必要ばかりでなく、その 肉体的必要も心にかけて下さっています。で すから私たちの働きも、その神の関心を映し出すようなものでなければなりません。確かに私たちは病を直す特別な 力は与えられていませんが、だから自分には 何もできないと結論するのではなく、できることをもって、あわれみの働きにも自分自身をささげて行く。それと セットになって、御言葉の宣教が進められるべ きであることがここにも示されています。

さて、こうして遣わされる彼らに対しては二つの反応があります。その一つは彼らとそのメッセージを受け入れると いう反応です。5~6節に「この家に平安が あるように!」と言って入って行った時に、もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安はその人の上に とどまる、とあります。ご存知のように、ヘ ブル語のシャロームという挨拶は「平安」とか「平和」を意味する言葉です。弟子たちがするこの挨拶は、単なる形 式的な挨拶ではなく、福音のメッセージを象 徴します。その福音を受け入れる人がそこにいたら、すなわち平和の子がいたら、そのメッセージが指し示す祝福は その人にとどまる。一方、彼らのメッセージ を受け入れない人もいます。すなわち6節後半にあるように、平安の子がいない場合です。その時、その平安はあな たがたに帰って来ます、と言われています。 これは弟子たちが差し出した平和の福音を相手は受け取らなかった、ということを意味する表現でしょう。そしてそ の町が受け入れない場合、足の塵を払い落す べきことも10~11節に記されています。これも前に9章5節で見ました。ユダヤ人は異邦人世界を旅して自分た ちの国に帰って来た時に、その境界線上でこ のような行ないをしました。それは足の裏についた塵についても、神を信じる私たちとそうでないあなたがたとの間 には関係がないということを示す象徴的行為 でした。それを彼らはユダヤ人たちに対してするのです。すなわちあなたがたは真の意味でのユダヤ人ではないこ と、実は異邦人に他ならないことを宣言するも のです。

そして、イエス様は重大な声明を12節から発されます。何と、この弟子たちとそのメッセージを受け入れない町に やがて下るさばきは、あのソドムの町が受け る罰よりももっと重い!やがてのさばきの日は、どんな罪人にとっても耐えられないような日となるでしょう。しか しその日にそれらの町に下る罰は、もっと耐 えられないものとなる!13節に出てくるコラジン、ベツサイダ、そして15節のカペナウムは、いずれもガリラヤ の町々です。これらの町に臨むさばきは、ソ ドムやツロやシドンに臨むさばきよりももっと厳しいとイエス様は言われます。ソドムはご存知の通り、創世記に出 て来る不道徳な町で、その性的な不品行のゆ えに、ゴモラと共に硫黄の火で滅ぼされました。またツロとシドンは地中海に面する商業都市で、その繁栄と傲慢さ とで知られていました。イザヤ書やエレミヤ 書、エゼキエル書などを読むと、この二つの町ほど、繰り返し非難されている町はありません。偶像礼拝、高ぶり、 不道徳で名高いこれらの町に主はさばきを予 告され、果たしてその通り、紀元前4世紀にそれは成就しました。しかしそれよりもガリラヤの町々に対するさばき はもっと重い。なぜでしょうか。コラジン、 ベツサイダ、カペナウムの町の方がより多くの恵みを受けたからです。イエス様の訪れがそれらの町々にはあったか らです。ソドムやツロやシドンの人々が耳に しなかったような福音を彼らはじかに聞いた。なのに信じなかったからです。

私たちはここに恵みを無駄に受けてはならないことを改めて教えられます。多く与えられたものは多く要求される。 福音を聞く機会が多ければ多いほど、恵みに あずかればあずかるほど、ふさわしくそれに応答しない者へのさばきは一層厳しいものになるのです。16節:「あ なたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾 ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者で す。」 ここに遣わされる70人の弟子たち は、イエス様の大使として遣わされることが語られています。彼らを退けた人は、単に人間ではなく、イエス様を退 けたのです。そしてそれはさらにイエス様を 遣わした父なる神を拒んだのです。70人の弟子たちは何という地位を与えられていることでしょうか。そしてま た、その彼らを受け入れず、そのメッセージを 軽んじることは、その人たちの将来について、何と重大な意味を持っていることでしょうか。

今日のイエス様の言葉から学ばされることを最後に二つ申し上げて終わりたいと思います。その一つは、福音に応答 しないことの危険です。イエス様は「ああコ ラジン、ああベツサイダ!」と、恵みを受けつつも、それに無応答であった彼らを思ってうめかれました。これは今 日の私たちにも当てはまります。いや今日の 私たちにはもっとそうです。ガリラヤの町々はソドムやツロ、シドンにまさる特権と恵みにあずかりましたが、それ でも彼らはイエス様の十字架や復活、昇天に ついては知りません。それに対して今日の私たちはキリストの地上の生涯のすべてとその意味について、はるかに良 く見渡せる地点に立っています。またその後 2000年間の教会の歴史を通しても、キリストのみわざの意義をさらに良く理解できる地点に立っています。そう いう今日の私たちがイエス様の福音に応答し ないなら、イエス様は何とさらに深く「ああ」と言われることでしょうか。私たちは今、聖書を自分で持ち、それを 開き、御言葉の説教を聞き、いつでも自分で それを読める状況にあります。そんな私たちは恵みを無駄に受けないように注意しなくてはなりません。福音を聞け ば聞くほど、そのメッセージに接すれば接す るほど、私たちがどう応答するかは益々重大な意味を持つのです。そして私たちはその自分の応答に基づいて、やが ての日に永遠の運命に直面しなければならな いのです。私たちは今聞いている福音にどう応答する者でしょうか。

そして、もう一つのことは、私たちはこの福音を受け入れ、信者となったなら、キリストの大使となるということで す。16節では、遣わされるクリスチャンは キリストを代表し、さらに父なる神をも代表すると言われています。この私はそんな者ではない、そんなに確かな存 在ではない、と言いたくなります。しかしこ れは12弟子にではなく、別の70人すなわち一般のクリスチャンに言われた言葉です。ですから私たちはこの言葉 に聞き、恐れ多くも自分はキリストの代理 人、キリストの大使として立たされていることを改めて受け止めさせられたいと思います。

私たちは今週も遣わされます。主は「実りは多い」と言われました。私たちはこの御言葉のもとで遣わされる場所を 見つめ、そこに主が働き手を送って下さるよ うに祈り、また自分自身をささげたい。私たちが出て行く所にいる人々は、日々天に向かっていのちの道を歩んでい る人であるか、あるいは永遠のさばきに向 かって歩んでいる人であるかのどちらかです。その中へ遣わされる私たちは主に信頼し、言葉と行ないを持って、 人々の救いに仕えることができるように、そし て神がご計画された収穫の喜びの日、神の国が完成する喜びの日のために仕え、用いられて行く歩みへ進みたいと思 います。