ルカの福音書 11:37-54

わざわいだ

イエス様は今日の箇所で「わざわいだ」という言葉を繰り返し連発しています。前半でパリサイ人に対して3回、後 半で律法の専門家に対して3回、合計6回で す。事の始まりはイエス様があるパリサイ人の家に招かれ、食事の前にきよめの洗いをなさらなかったことでした。 パリサイ人とは外から帰って来た時には、異 邦人や罪人との接触による汚れを洗い流すために、この儀式を行ないました。ところがイエス様はそれをなさらない のを見て、パリサイ人はビックリしたので す。とても信じられない。そんな彼に対してイエス様は語られたのです。39~40節:「すると、主は言われた。 『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や 大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も 造られたのではありませんか。』」

以前、教会学校の子どもたちにここからお話をした時、私は自分の家で一番素敵なカップを持って行って、「これで ジュースを飲みたい人?」と聞きました。す るとみんながハイハイ!と手を上げて前に出て来ましたが、私はカップの内側にあらかじめ、泥やヤモリの死がいな どを入れておきました。そして先を争って前 にやってきた子どもたちに「本当に飲みたいですか?実は内側はこうなっていますよ~。」と見せると、子どもたち は「ウワ~!飲みたくない!」と叫んで後ろ に下がって行きました。まさにイエス様はそのようなものを彼らの中に見ておられました。外側はきれいにしている が、内側には吐き気を催すようなものがたく さん詰まっている。神は外側だけではなく、内側も造られたのではないか。

イエス様は続く41節で「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとっ てきよいものとなります。」と言います。お そらくイエス様が仰いたいことは、私たちの外側の行ないは内側にあるものが現れ出るようでなくてはならない、と いうことではないでしょうか。施しをする際 の誘惑は、それによって人々に認められようとすることです。ですから偽善者は会堂や人通りの多い所で、自分の前 でラッパを吹き鳴らすかのようにして施しを する、とイエス様は山上の説教で言われました。そこでは内側と外側はバラバラです。すなわちその内側には相手に 対するあわれみの心はないのに、外側の行な いはさもそういう内側があるかのように見せかけている。しかし私たちが取り組むべきは、まず自分の内側に気をつ けることです。その内側にあるものが外側に 現れ出るようでなくてはならない。

イエス様は42節からパリサイ人に対する三つの「わざわいだ」を語って行かれます。一つ目は42節:「だが、わ ざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっ か、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしな ければならないことです。ただし、十分の一 もなおざりにしてはいけません。」 パリサイ人は十分の一教えを大事にし、はっか、うん香、あらゆる野菜といっ た家の庭に生えるような草や香料までも几帳 面に計算して、その十分の一をささげていました。私もこういう話を聞いたことがあります。ある人が贈り物をもら うと、それが大体いくらになるか、すぐに見 積もる。そして次の日曜日にはその十分の一も加えて献金する。イエス様はそのことが悪だと言っているわけではあ りません。問題は次のことにあります。すな わちこのように十分の一を几帳面に守り、自分を誇りながら、公義と神への愛というより重大なことをなおざりにし ているということです。私たちも十分の一を しっかり守っているかもしれません。聖日礼拝も毎週しっかり守っているかもしれません。それらはイエス様がなお ざりにしてはいけないと言っておられるよう に、守るべき大切なことです。また他にも私たちは信仰者としてこれは特に大事だと確信を持っていることがあるか もしれません。しかしそれらを守りつつも、 その心に神への愛がない、また隣人への愛と正義の実行がないということはないでしょうか。なのに自分はこれらを 行なっている立派な信仰者で、あの人はそれ を正しく守っていないダメな信仰者と見下すとしたら、イエス様は私たちに対しても、「わざわいだ!」と言われる のではないでしょうか。

2つ目は43節:「わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きで す。」 人が集まる所で一目置かれるような人が 皆から挨拶されることは自然に起こることでしょう。しかし問題はパリサイ人たちにとって、それが結果ではなく、 目的となっていることです。神の栄光のため に奉仕しているような振りをしながら、心で求めているのは自分の栄光、自分の誉れ。内側と外側がここでも大きく 食い違っている。

また、イエス様は3つ目に44節で「わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気が つかない。」と言われます。墓は人々が誤っ て触れて汚れた者にならないように、白く塗って目立つようにしておくのが普通でした。しかしパリサイ人は、知ら ない間に人々を汚れさせる隠れた墓のよう だ、とイエス様は言われます。12章1節:「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことで す。」 パン種はパン全体に浸透し、それを大 きく膨らませるように、パリサイ人の偽善は知らぬ間に人々を汚し、重大な悪影響を与えるとイエス様は言っていま す。

さて、このようなイエス様の言葉を耳にして、ある律法の専門家が憤慨したと45節に記されています。「先生。そ のようなことを言われることは、私たちをも 侮辱することです。」 しかしイエス様は律法の専門家たちに対しても、「わざわいだ」という言葉を3回語って行 かれます。一つ目は46節:「しかし、イエ スは言われた。『おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、 その荷物に指一本さわろうとはしない。』」  この専門家たちは旧約時代に与えられた律法を当時に適用し、生かすための具体的な指針をたくさん作りました。 たとえば安息日にはどんな仕事もしてはなら ない、と律法に命じられていますが、では物を運ばなければならない時、どうしたら良いのか。たとえばこんなこと を言ったそうです。安息日に右手や左手で物 を運んではならない。胸や肩に乗せて運んでもならない。しかし手の甲に乗せて運ぶことは良い。あるいは足や口や ひじを使って運ぶことは許される。また耳の 中や髪の毛の中に入れて運ぶことは良い。・・・当時の彼らとしてはそれなりの理屈に基づいた結論なのでしょう が、人々は途方もない重荷を背負わされること になってしまう。しかも専門家たちは、時に明確ではない聖書の戒めへの違反が重大なら、よりはっきり提示された 規則に逆らうことは、さらなる反抗を意味す ると教えたそうです。そして彼らは規則は作るものの、人々を助けたり、支えたりすることはしない。冷たい眼で眺 めて、あの人は罪人、この人も罪人、全く 困った人が多いとつぶやき、周りを断罪する。

二つ目のわざわいだ!は47~51節。ここで言われていることは、律法の専門家たちは預言者たちの墓を建てて、 いかにも彼らを敬っている振りをしている が、実際は預言者たちを殺したかつての先祖たちと同じことをしているということです。50節に「アベルの血から ザカリヤの血に至るまで」とありますが、こ れは旧約時代に迫害された預言者たちの歴史を一まとめにしている表現です。旧約の歴史を通して、そこには神の御 言葉に敵対し、それを語る者を殺して来た歴 史がありました。その伝統の上にあなたがたは立っている!とイエス様は言っているのです。そしてこれはまさに神 が送られた預言者の中の預言者、まことの預 言者であるイエス様に対して、彼らがこれから取ろうとする態度について予告する言葉になっています。

最後3つ目のわざわいだ!は52節:「わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分 も入らず、入ろうとする人々をも妨げたので す。」 聖書は一言で言ってどんな書物でしょうか。それは一言で言って、罪人に対して救いを与えようとする神の ラブレターであり、旧約聖書はこれから神が 救い主を送るから、その救い主に信頼して救われなさいというメッセージを語り、新約聖書は神はもう救い主を送っ たら、この方に信頼して救われなさいと語っ ています。ですからこのカギを見失ったら、いくら細かい箇所を色々解釈しても意味がありません。しかし律法の専 門家たちは、その大事なメッセージを自分た ちの考えに置き換え、キリストにあって人々を救おうとする神のみわざを邪魔している。

果たして私たちはこれらのイエス様のお言葉の前にどうでしょうか。イエス様のお言葉は厳しいものです。できれば 耳をふさいで聞かなかったことにしたくなる ような言葉です。しかしイエス様の言葉を受け入れず、反発し、これに聞かなかった人たちの姿が53~54節に記 されています。彼らはイエス様の言葉にがま んならず、どうにかしてイエス様の口から出ることに言いがかりをつけようとした、とあります。そしてイエス様を ひそかに除き去ろうという行動に出始めた。 これはやがてイエス様を十字架に付けることへと至ります。こうして彼らは預言者たちを殺した先祖たちに倣って、 その総仕上げをすることへ進んで行くので す。

しかし、今日のイエス様の御言葉に接する私たちには、もう一つ別の応答があり得るのではないでしょうか。それは すべてを光の下にさらけ出すイエス様のみこ とばの前で、自分自身のあり方を点検してみることです。誰でも自分の足りない点を指摘されることはつらいことで すが、もし私たちの歩みが間違っていたな ら、このイエス様の言葉に聞くことは、新しい歩みに向かって出発するための特別の機会となります。

旧約の信仰者たちは、神の御前で自分を調べて頂くことを祈り求めました。ダビデは詩篇の中で「主よ。私を調べ、 私を試みてください。私の思いと私の心を試 して下さい。」と祈り、エレミヤも「正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。」と祈りました。私た ちの外側も内側も造ってくださったお方の前 で、私という存在を調べて頂く。私たちにとって慰め深い事実は、主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕 かれた者を救われることです。詩篇51篇 17節:「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」  私たちの内側がどんなに汚れていても、それ を正直に認めて神の前にくずおれる者を、神は決して軽蔑なさらない。私たちは「わざわいだ」という言葉をもって 呪われて当然の者たちでしたが、神はそんな 私たちを救うために、罪のないイエス様を送ってくださり、私たちの代わりに十字架に付けてくださいました。そし てこの方を呪われた者とすることによって、 信じる私たちを呪いから解放して下さったのです。

そして、神はさらに私たちに新しい心を与えて下さいます。エゼキエル書36章26節:「あなたがたに新しい心を 与え、あなたがたのうちに新しい霊を授け る。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」 Ⅱコリント5章17 節:「だれでもキリストのうちにあるなら、そ の人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 このような新しい 心、新しい性質を内側に頂いてこそ、私たちは 今日の箇所でイエス様が言っているような生き方が初めてできる者となる。私たちは今日のイエス様の御言葉に耳を ふさいだり、自己弁護するのではなく、自分 のための貴重な言葉として生かしたいと思います。もし自分にもここで言われているような誤った生き方があると思 うなら、それを正直に神に告白し、赦しを願 い、新しい心を造って頂くことを祈り求めたい。そうするなら私たちは、自分の内側は隠して、ただ外側だけを良く 見せようとする偽善的な生き方から解放され ることができます。むしろ神に感謝する新しい心、また神の御心を喜んで行おうと欲する心を頂いて、その内側にあ る思いが外側の行為となって現れる生き方へ 進むことができる。そしてそのようにして内側と外側が一致する歩みこそ、そのように造られている私たちにとって の最も幸いな歩みなのです。