ルカの福音書 12:22-34

宝を天に積む

前の箇所で「金持ち農夫のたとえ」を見ました。彼は自分の畑が豊作になり、これから先の豊かな生活を予想して、 「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽し め」と自分の魂に向かって語りかけました。しかし彼は「愚か者。お前のたましいは、今夜おまえから取り去られ る。そうしたら、おまえが用意したものは、 いったいだれのものになるのか。」と神から言われます。「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこの とおりです。」とイエス様は警告されまし た。では私たちは何に心を向けて地上の人生を歩んだら良いのでしょう。そのことをイエス様は続けて語って行かれ ます。

まずイエス様が語っていることは「心配するのはやめなさい」ということです。ともすると私たちは「心配」で毎日 を過ごしてしまいやすいものです。今日は特 に不況という問題があります。なかなか経済が上向かない。会社の業績も上がらない。賃金も上がらない。むしろ人 件費カット、ボーナスカット。新しく仕事に 就きたくても仕事の口がない。今後は消費税も上がりそうですし、電気料金も上がりそう。今が苦しいばかりか、将 来の年金の保証もない。老後の生活はどうな るのか。もはや自衛手段を講じるより他ないのではないか。こういった心配で私たちの心が固まってしまうと、私た ちの生きる姿勢は自己中心の方向に一層傾き がちになります。人のことなどかまっている場合ではない。生き残りをかけて、まず自分の生活、まず自分の生 活、・・。こういうあり方は神の前に正しくない のではないか、という後ろめたさをどこかで感じつつも、今は仕方ないのだと自らに言い聞かせ、自己中心の生き方 を肯定する。しかし今日の箇所には、そんな 生き方から私たちを解放し、新しい生き方へと招待するイエス様の御言葉があります。22節と23節:「それから 弟子たちに言われた。『だから、わたしはあ なたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりする のはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせ つであり、からだは着物よりたいせつだからです。』」

イエス様はここで、いのちと食べ物のどちらが大切かと問うています。答えはもちろんいのちでしょう。そのいのち は神様が私たちに与えて下さいました。そこ でイエス様はこう言っているわけです。もし神があなたがたに命を与えたなら、どうしてそのいのちを保つのに必要 な食べ物を与えないはずがあろうか。からだ と着物の関係も同じです。神は私たちにからだを与えて下さいました。その神が着る物をくださらなかったら、神は からだは用意したが、それを包み、保護する ものを与えなかった。何と愚かなことをしたものか、と評価されてしまう。神はそんなことはされない。

その証明としてイエス様はカラスと野のゆりのことを良く考えなさい、と言われました。カラスは種蒔きもせず、刈 り入れもせず、納屋も倉もありません。彼ら は自分たちのできることは一生懸命しますが、自分で作物を作ることはできませんし、たくさん貯える貯蔵庫を持っ ているわけでもありません。しかしそんな鳥 の一羽をも神は心に留め、養っておられる。ここで考慮して良いことは、カラスはユダヤ人の間では汚れた動物で あったことです。そんなカラスをも神は養って いて下さる。ヨブ記38章41節:「カラスの子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、カラスにえ さを備えるのはだれか。」 詩篇147篇9 節:「獣に、また、鳴くカラスの子に食物を与える方。」 であるなら、はるかにすぐれたあなたがたに対しては、 神はどれほど愛と配慮を持って、必要を満た して下さるか、とイエス様は仰っています。

ユリの花も同じです。いつしおれ、明日にも炉に投げ込まれるか分からない野の草さえ、神は栄華を極めたソロモン 以上に着飾らせておられる。であるなら、ま してあなたがたには!とイエス様は仰っている。しかも神と私たちの関係は特別です。30節でイエス様は弟子たち に対し、「あなたがたの父は」と言っておら れます。この「父」という言葉は、カラスやゆりの花に対しては使われていません。ご自分の子どもではないカラス や野のユリに対しても神があのような配慮と 慈しみを示しておられるなら、ましてご自分の子であるあなたがたにはどれほど特別な意味でそうしてくださるか! とイエス様は言っているのです。

これは食べ物着物の問題ばかりでなく、私たちの人生のあらゆる心配や不安にも適用できることだと思います。私が 良く心配することの一つは飛行機に乗ること です。一度怖い経験をしてからそうなってしまいました。新婚旅行の帰りの飛行機で途中から乱気流に巻き込まれ、 まるでジェットコースターのように突然急降 下したかと思うと、次の瞬間には機首が持ち上がって反対にひっくり返ってしまうのではないか、という繰り返し。 乗客もキャーと大声を上げますし、乗務員も しきりに外を見て、落ちつかない様子。私はその時、「冗談じゃないですよー、神様!結婚して、これからという時 なのに!こんなところで終わりにしないで下 さい!」と必死で祈りました。あれ以来、私は飛行機はなるべく乗らないようにしています。

しかしある時、この箇所を読んでいて、これも信仰の問題と思わされました。神は私にいのちとからだを与えて下さ いました。神は明確な目的を持って、私の人 生を始めて下さいました。私たちが持つべき確信は、私の人生に対して神がご計画下さったことがみな成し遂げられ るまで、私の人生が途中で終わることはない ということです。神が定めた目的が全部成就した時のみ、神は天の住まいへと私たちを迎え入れて下さる。ですから 私たちは心配によって時間とエネルギーをす り減らすのではなく、神を見上げ、最後の1秒までも神の目的に生き抜くことができるようにということに心を向 け、歩んで行きたいと思わされるものです。

では心配から心を解放された私たちは、何に関心を向けて歩んで行けば良いのでしょうか。31節:「何はともあ れ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そう すれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」 「神の国」とは「神のご支配」のことです。この神のご支 配はイエス様の到来と共に地上に現れ始め、 やがての再臨の日に完成すると聖書で教えられています。ですから神の国を求めるとは、まず自分自身が神との関係 を確かにし、その全生活が神のご支配のもと にあるように生きることを意味します。さらに神のご支配は周りの人々にも広がって行かなければなりません。です から福音を伝えること、人々の救いのために 祈ること、そのために具体的に労することも含みます。

しかし、この神の国を求めるという生き方で、ルカが強調しようとしていたメッセージが33節に出てきます。33 節:「持ち物を売って、施しをしなさい。自 分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、し みもいためることがありません。」 これは 前の32節で「小さな群れよ」と呼びかけられた人たちへの言葉です。ある意味で小さいということは、私たちの考 え方まで小さくします。こんな少数集団では 何ができるのか。力もないし、貧しいし、資力もない。だから我々は自分を守ることで精一杯だ。しかしイエス様は そんな私たちに「恐れるな!」と言われま す。小さく、弱く、傷つきやすい者たちが、ただ神の国を求めるという偉大な歩みへ召されています。

そう言ってイエス様が示された道はどんな道だったでしょうか。それは持ち物を売って、施しなさい、という道で す。ただでさえ貧しいのに、そんな私たちがこ の御言葉に従ったら、自分たちの生活はどうなるのか。しかしイエス様は、それは「自分のために、古くならない財 布を作ることだ」と言います。また「朽ちる ことのない宝を自分のために天に積み上げることだ」と言います。前回、金持ち農夫のたとえでも見ましたように、 地上の財産はやがて消え行くものです。せっ かく貯えても自分のものにならない可能性もありますし、盗人に盗まれる可能性もあります。いずれにせよ、次の世 には持っていけません。そんな不確かな富を 私たちはどう用いたら良いでしょうか。それは貧しい人たちに施すことです。神はそのようにして用いられたもの を、ご自身にささげられたものと見なされま す。先週も引用した箴言19章17節:「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報い て下さる。」 またマタイの福音書25章で 「まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりに したのは、わたしにしたのです。」というイ エス様のお言葉も思い起こされるでしょう。もし私たちが自分の持てる富を人々に分け与えるなら、神はそれをご自 分に対してなされたことと受け止めて、私の 天国銀行の口座にそっくりそのまま、いやたくさんの利子をつけて振り込んで下さるというのです。1テモテ6章 19節:「また、まことのいのちを得るため に、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」 これは私が成人式の時に、当時所属していた 教会から頂いた御言葉です。私はその時、こ れからの将来のために良い基礎を築くように自分の人生を良く考え備えて行くべきだ、と受け取りました。しかし前 後関係を良く見ると、これはお金をどう使う か、という文脈で語られています。18節では「また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで 分け与えるように」とあります。すなわち私 たちが地上で神に喜ばれるようにお金を使うことが、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げることだと いうことです。

これはもちろん、私たちの良い行ないによる救いを教えているわけではありません。そうではなく、神はご自分が何 を喜ばれるかをはっきり示して、私たちがい よいよそこに歩むようにと励ましておられるのです。私たちはこのことにも駆り立てられて、益々この良いわざに励 むようにと導かれているのです。

34節:「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」 イエス様は今日の箇所で「神の国 を求めなさい」と言っておられますが、ここ に言われていることは、私たちが本当に神の国を求めているかどうかは、宝がどこにあるかを見れば分かるというこ とです。「宝」とは、私たちが持っているお 金と置き換えることができます。確かに私たちはお金また財産を、私たちが価値ありと考えているものに使っていま す。ですから、そのお金がどこに使われてい るかを調べれば、その人の心がどこにあるかが分かるのです。たとえその人が毎週礼拝に出席していても、教会役員 をしていても、多くの奉仕をしていても、お 金を神のために使っていないなら、その人の心はそこにはない。その心は「神の国」ではなく「地上」に縛り付けら れている。私たちは自分のことは分かってい るつもりでいますが、本当の自分の霊的状態を知りたければ、自分がお金をどう使っているかを調べてみれば良いの です。私たちはこの結果、うつむいてしまう でしょうか。それとも反対に、ああ、確かに私は神の国に心があるのだなあ、と思って神様に感謝するでしょうか。

イエス様は「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」と言われました。この真理の前で 私たちは自分を改めて点検したいと思いま す。そしてイエス様が招いている神の国を求める生き方へ導かれたい。神は私たちを罪から救うだけではなく、ご自 身と共に神の国を打ち立てる神の一大プロ ジェクトに私たちを招いておられます。ただ救われて後は天国に行くのを暇つぶしをしながら待つ生活ではなく、御 国建設のために共に労する特権へ召していま す。私たちはその神を見上げて、地上の自分の人生と持てるものをささげるように招かれています。そうする人は何 も失いません。なぜならその人はそのように して、自分のために古くならない財布を作っているからです。朽ちることのない富を天に積み上げているからです。 その人はやがて「愚か者」と言われるどころ か、「良くやった、良い忠実なしもべだ。あなたにたくさんのものを任せよう。」とイエス様から言われる何にも勝 る将来を、自分自身のために築き上げている 人なのです。