ルカの福音書 12:35-48

主人が帰って来る時

2週間前の聖日に「金持ち農夫のたとえ」を見ました。そこでは自分のためにたくわえても、神の前に富まない人の 悲惨が語られました。そして先週の聖日は 「何はともあれ、神の国を求めよ」というイエス様のお言葉を見ました。特に富を貧しい人たちに施すことによっ て、天に宝を積み上げなさい、と言われまし た。このような弟子たちの生活はいつまでも延々と続けられるものではありません。この歩みが目標とする日、すな わち神の国が完成する日がやって来ます。そ してその日はイエス様がもう一度地上に来られる再臨の日です。その日に地上の歴史はゴールに到達し、一人一人の それまでの生き方が神の前に評価され、それ ぞれの永遠の運命が定まる日となります。その日を見据えてどのように歩むべきかについて、イエス様は今日の個所 で語っておられます。

そのイエス様の基本的なメッセージは、いつ主人であるイエス様が帰って来ても大丈夫なように、目をさまして準備 していなさい、ということです。イエス様は まず婚礼から帰って来る主人を迎えるしもべたちのたとえを語っています。当時のユダヤの結婚式は何日にも及ぶの が普通であり、一週間続くこともまれでな かったようです。そのため、いつ主人が帰って来るのか、予測がつきません。38節にあるように、真夜中や夜明け 前に帰って来ることもあり得ます。しかしそ の時にしもべたちが眠ってしまっていたら大変です。門の出入りをすべてしもべに委ねて旅に出た主人にとっては、 彼が迅速に扉を開けてくれないと長い間、寒 い外で待たされることになります。夜であればあるほど、大変な出来事となります。しかしもしその時、しもべがラ ンプをともして待ち受けており、主人が家に 近づくよりも先に気がついて門を開け、出迎えてくれたなら、そして35節にあるように、腰に帯を締め、いつでも 仕える準備ができている状態でいてくれたな ら、主人はどんなに喜び、そのしもべを尊ぶことでしょう。37節:「帰って来た主人に、目をさましているところ を見られるしもべたちは幸いです。まこと に、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれま す。」

何と立場が逆になり、主人が帯を締め、しもべたちをご自身のテーブルに招き、仕えてくださる。主人はそれほどに 自分の喜びを表すということです。そしてこ れはイエス様がやがてこのようにしてくださることを指しています。イエス様はある意味で地上におられた時からそ うしておられました。22章27節:「食卓 に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたの うちにあって給仕する者のようにしていま す。」 しかしやがての天国でもイエス様はそうしてくださると言うのです。13章29節:「人々は、東からも西 からも、また南からも北からも来て、神の国 で食卓に着きます。」 22章30節:「あなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、・・」 主 人であるイエス様が再び来られる日を待ち望 んで、その主人に喜ばれる歩みをするなら、イエス様はこのようにしてご自身の喜びを表すと約束くださっているの です。

その一方、そのように歩んでいない人にとって、イエス様が帰って来る出来事は喜ばしいものとはなりません。39 節でイエス様はその人のことを、泥棒に押し 入られる人にたとえています。イエス様がこれによって表したいと思っていることは二つあると考えられます。一つ は主の再臨は予期しない時に起きるというこ とです。泥棒はこちらが思ってもみなかった時にやって来るので成功します。そしてもう一つは泥棒に入られた人は ショックを受けます。大切なものを失い、物 質的・精神的に大きなダメージを受けます。同じようにイエス様の再臨のために備えていない人も、大きな損害を受 けるということです。ですからイエス様は、 その日がいつ来ても良いように目をさましていなさい、と言っているのです。私たちの心を過ぎゆく地上にへばりつ かせてしまうのではなく、やがて完成し、現 れる天の御国を見据えて、そこに焦点を合わせた生き方、すなわち「何はともあれまず神の国を求める」という生き 方をすることです。

さて、その時ペテロがイエス様にこう質問しました。41節:「そこで、ペテロが言った。『主よ。このたとえは私 たちのために話してくださるのですか。それ ともみなのためなのですか。』」 イエス様はこれまでも群衆にはたとえで語り、弟子たちには特別にその意味を解 き明かされたということがありました。です からペテロはそのような区別がここにもあるのかもしれない、と思ったのも知れません。特に泥棒に押し入られてダ メージを受けるという話は、必ずしも忠実で はない一般の人々向けの言葉なのか、それとも自分たち弟子たちにも当てはまる話なのか、と。イエス様はその質問 に直接的には答えていませんが、その後の言 葉を見て行くなら、実質的な意味ではきちんとお答えになっていることが分かります。先に答えから申し上げるとこ うなるでしょう。この話は主に従って来よう とするすべての人に当てはまる。しかし特にリーダーである者たちにはさらに強い意味で当てはまる、と。42節: 「主は言われた。『では、主人から、その家 のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。』」  ここで焦点が当てられているのは、主人から しもべたちを任された管理人です。先のたとえでは一般的なしもべの立場にある人のことが語られましたが、ここで はそのしもべたちを治め、指導する立場の人 のことが取り上げられています。ですからこれは教会の中の特にリーダーたち、すなわち今日で言えば牧師、長老、 教会役員といった人々を指していると考えら れます。その彼らの役割は、主人から任されたしもべたちに食事時には忠実に食べ物を与えることです。これは御言 葉を持って適切に人々を教え、導き、牧会す る働きを暗示していると思われます。もしその奉仕を忠実に行ない、主人が帰って来た時にもそうしているのを見ら れるなら、そのしもべは幸いです。44節: 「わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」 しかしもしその人 が正しく務めを果たさなかったら、どうなる でしょう。45節の「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ち たたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし 始めると」とあるのは、教会のリーダーたちが本当の主人であるイエス様が来る日はまだまだ先だと考えて、自分が 主人であるかのように横暴に振る舞うことを 指したものでしょう。みことばを持って人々に仕えるどころか、その権威ある立場を乱用して、好き放題に振る舞 う。そういう人は主が厳しく罰すると46節に あります。「不忠実な者どもと同じめに会わせる」という言葉も、彼らが一般的なしもべとは区別された立場にある ことを暗示しています。彼らはその立場にあ るからと言って甘く採点してはもらえません。むしろ教会のリーダーたちは、47節にあるように、主人の心をより よく知るという特別な恵みにあずかって来ま した。そうでありながら、その御心に従って奉仕しなかったり、仕える働きをしなかったなら、ひどく鞭打たれる。 反対から言えば、48節前半にあるように、 少ししか知らなかった者は、不忠実であった場合、やはり同じく罰されるものの、まだ少なくて済むということにな ります。つまりイエス様がかの日に私たちを 評価する基準は、人によってそれぞれ違うのです。48節後半にあるように「すべて、多く与えられた者は多く求め られ、多く任された者は多く要求され」るの です。

これはペテロと同様、今日の教会のリーダー、教会役員などの立場にある者たちにとっては恐ろしい言葉です。同じ 原則はヤコブ書3章1節にもあります。「私 の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別厳しいさばきを受けるの です。」 教師はかの審判の日に、他の人よ り厳しく問われるというのです。これなら教師にならない方が安全でしょうか。あるいは教会の役員などを務めるこ とは危険なことであり、悲惨なことなので しょうか。しかし一方でたとえばⅠテモテ3章1節のように教会役員となることは素晴らしいことだと語る御言葉も あります。一体どっちが本当なのでしょう? もちろんこれらは互いに矛盾しているわけではありません。教会のリーダー的立場に任じられるプロセスには色々あ ると思いますが、最終的にその人がその働き についたのは主の召しを受け入れたからでしょう。そしてその召しを受け入れた根底にあるのは、主の素晴らしい愛 を知った者として、主が召されるなら応答せ ずにはいられないという心があるからでしょう。ですからやがて厳しいさばきが待っているから、応答するのはやめ ようか、等と考える余地はないのです。残さ れている道はただ一つ、主の恵みと召しに感謝して、一生懸命それに応えることです。そして忠実に歩むなら大変な 祝福が約束されているという素晴らしい報い にしっかり目を上げて、一層励む者でなくてはなりません。しかし一方、もし与えられた働きに不忠実なら、より厳 しいさばきを受けることになるというのも当 然です。そのこともしっかり心に留め、自分の歩みを整えて行かなければなりません。

しかし、この箇所は先にも触れたように、教会のリーダーたちに特に焦点が当てられているものの、ここにある原則 はすべての信者に当てはまるものです。教会 役員以外の方は、48節を読んでどう思うでしょうか。あ~良かった!私は少ししか与えられていない者だから!と 思うでしょうか。いや私たちは神の前で自分 を振り返るなら、誰一人、私は少ししか与えられていない、と結論付けられる人はいないのではないでしょうか。私 たちは神から救いを頂き、信仰を頂き、日々 たくさんの恵みを頂いています。また様々な能力、賜物、持ち物、財産も与えられています。また時間、機会、家 庭、環境、教育、様々な人間関係、・・もそう です。私たちは一人として、この御言葉の前で、これは自分にはあまり関係がない御言葉であるとは言えないと思い ます。むしろいかに自分は多く与えられ、ま た任されている者であるか、改めて感謝するとともに、その委ねられているものを、一層御心にかなってふさわしく 用いるようにと駆り立てられるべきではない でしょうか。

私たちの地上の歩みは目的や目標もなく、ただダラダラ続けられるものではありません。その歩みはそこまで!と 言って、今の歩みに終止符を打たれる日が来ま す。私たちの歩みはそれぞれどうでしょうか。主人の心を知りながら、主人の帰りはまだだと言って、地上のことに のみ心がへばりつき、自分のためにだけ生き ている者でしょうか。あるいは主人が帰って来る日を心待ちにし、その日に主に喜んでいただくために、神の国のた めにと生きる者でしょうか。私たちの主人は 帰って来ます。聖書の一番最後の書、ヨハネの黙示録22章の最後の部分にこうあります。「これらのことをあかし する方がこう言われる。『しかり。わたしは すぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」 私たちはこの主の再臨をしっかり見据えることによっ て、地上の自分の歩みを正しく整えられたいと 思います。そして主イエス様が来られる日には喜びを持ってお迎えし、主の称賛を頂いて完成した御国に入るという 素晴らしい祝福に生かされる者としての歩み をささげてまいりたいと思います。