ルカの福音書 13:22-30

狭い門から

「イエスは、町々村々を次々に教えなが ら通り、エルサレムへの旅を続けられた。」と 22節は始まります。ガリラヤ伝道を終えて、エルサレムに向かう最後の旅に出発されたことが9章51節に記 されましたが、ここにもその旅が続いていること が記されています。そんな中、ある人がイエス様に質問します。「主よ。救われる者は少ないのですか。」 当 時のユダヤ人の間では、他の国の人はいざ知ら ず、自分たちユダヤ人は神の民としてほとんどが救われると考える人たちが多かったようです。ところがイエス 様はこのところ、最後のさばきを見据えて自分の 生活を整えるべきこと、自分のためにたくわえるのではなく、神の前に富むべきこと、いつ主の再臨が訪れても 良いように準備しているべきこと、悔い改めて実 を結ぶ者となるべきこと、などについて語られました。ということは救われる人は少ないのか。イエス様はこの 質問を受けて「人々に言われた」と23節にあり ます。みなが聞く必要のある言葉として、イエス様は以下の言葉を語られたのです。

イエス様はここ で彼の問いに直接は答えていませ ん。それよりもっと重大なことに人々の心を向けさせています。それはあなたがたは努力して狭い門から入るこ とに心を向けなさい、ということです。私たちは 救われる人が多いと聞けば、私も大丈夫かもしれないと思い、逆に救われる人が少ないと聞けば、私もダメかも しれないと心配になります。しかし仮に天国に入 る人の数が多いとしても、それだけでは私も天国に入ることの保証にはなりません。ですから自分を第三者の立 場において、「救われる人は多いか少ないか」と 論じるのではなく、まずあなた自身がそこに入るように努力しなければならない。

イエス様はここ で私たちは差し出されている福音に 熱心に努力して応答しなければならないと言っています。ある人は、キリスト教の救いはただ神の恵みによるの ではなかったか、と言うかもしれません。確かに そうです。しかしそれは私たちは何もしないで、ただ受身的な状態にあれば良いということではありません。神 は決して私たちの人格を無視されません。恵みに よって働きかけてくださいますが、私たちもまた差し出されている恵みに自分の決断をもって応えて行くという 歩みを通して救ってくださるのです。

イエス様はここ で「狭い門から入りなさい」と言わ れました。一般的に言って、私たちは狭い所よりも広い所を好むと思います。狭い所では思う通りの行動が取れ ません。色々な制限があります。具体的にこれ は、救われるためには神が指定された方法に従うという制限があることを示しています。新改訳は「狭い門か ら」と訳していますが、原文をもう少し正確に表せ ば、これは「ドア」と訳されるような言葉です。口語訳や新共同訳は「狭い戸口から」と訳しています。その向 こうは神の国の宴会場につながっているドアで す。なぜその入口となるドアは狭いと言われているのでしょうか。

その理由の一つ は、救いはただイエス・キリストに しかないからでしょう。しばしばキリスト教は自分たちの宗教こそ救われる唯一の道であると説く偏狭な教えで ある、と言われます。しかし私たちが覚えている べきは、聖書自身が「狭い」と言っていることです。これを和らげて、救いの道は広いかのように説く人は、聖 書から離れた偽教師です。

また、これが狭 いと言われる理由の二つ目は、この 戸口は私たちに悔い改めを求めるからです。イエス・キリストを信じるとは、この方の御言葉に耳を傾け、自分 自身の罪を告白し、この方による赦しと聖めを頂 くことです。これは生まれながらの私たちの性質に反することです。私たちは罪を認めたくありませんし、自分 が赦しを必要としている人間であることを告白し て、頭を下げるなどということをしたくない。そんな私たちにとって、この戸口は狭いのです。

そして、この戸 口が狭いと言われるもう一つの理由 は、イエス様に従う生活には多くの困難や戦いもあるからです。イエス様はこのように9章23節で言われまし た。「だれでもわたしについて来たいと思うな ら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 もちろんこのイエス様が示さ れる道こそ、本当の意味では私たちにとって幸い の道です。詩篇の作者が「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と告白した通りです。 しかしこれまで自分中心に歩んで来た私たちに とっては、必ずしも楽な道ではない。そこには戦いがあります。時には逃げ出して、安易な罪の道に逆戻りした いとさえ思う。そういう誘惑と戦って、努力しな ければ進めない道です。

このように考え ますと、私たちはとてもこの戸口を 通って行くことは自分にできないなあと思います。しかしもう一つ心に覚えるべきは、私たちはこれらを自分一 人の力でするのではないということです。後に 25節と27節のイエス様の「わたしはあなたがたを知らない」という言葉を見ますが、狭い戸口から入る人 は、イエス様から「知っている」と言われる人で す。この「知る」とは単に頭の知識ではなく、生きた交わりを通しての知識のことです。つまり私たちはイエス 様と交わり、イエス様からこの道を進むための力 も励ましも希望も慰めも頂きながら取り組むのです。ですからこれは一人寂しく戦う歩みではなく、イエス様と 親しい交わりを共にしながら歩む生活です。その 先には、28~29節に描かれている永遠の祝福の生活が待っています。私たちはそこであのアブラハム、イサ ク、ヤコブ、またすべての預言者たちと交わるの です。もちろんモーセやサムエル、エリヤやダビデ、あるいは新約のペテロ、ヨハネ、ヤコブ、パウロ、バルナ バなどともそうです。その他、ただ主に頼って狭 い戸口を通った多くの聖徒たちと共に「神の国で食卓に着く」のです。

しかし、今日の 箇所でイエス様が特に焦点を当てて 警告しておられることは、この狭い門から入らない人の悲惨についてです。そのことが25~27節に記されて います。イエス様は、家の主人が立ち上がって、 戸をしめてしまってからでは、外に立って「ご主人さま。あけてください。」と頼んでも遅いと言っています。 主人が「あなたがたがどこの者か、私は知らな い」と答えると、その人たちはこのように訴えます。26節:「すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょ う。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだ りいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』」 しかし中から聞こえて来る主人の言葉は厳 しいものです。27節:「だが、主人はこう言う でしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』」

ここでカギとな る言葉は、先にも触れましたよう に、「知らない」という言葉です。これは生きた交わりを通しての人格的な知識のことです。彼らはイエス様の 働きを目で見たかもしれません。群衆の中に混 じってイエス様の説教も聞いた。彼ら自身述べているように、一緒に食事をしたし、自分たちの町の大通りでイ エス差から直接教えてもらうことさえした。しか し問題は、イエス様からのそのような働きかけはあっても、彼らの側からの生ける応答はなかったということで す。

さらに、その 人々は「不正を行なう人たち」とさえ 言われます。なぜそんな風に言われるのか!とその人たちは思うかもしれません。しかしイエス様が差し出して いる福音に応答しないことは、ある意味で最大の 不正な行ないと言えます。これ以上ない善が差し出されているのに、それを拒否しているからです。あるいはイ エス様が差し出している救いは悔い改めを求める ものであると先に述べました。その悔い改めの招きに従わないということは、自分の行ないを改めないというこ とであり、そういう意味で不正を行なう者たち、 と言われることになります。

そして、何と 言ってもこの人々の悲惨は、外に追い 出され、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりすることです。「泣き叫ぶ」とは絶望的な悲しみを表し、「歯ぎ しりする」とは怒りと苛立ちの状態を表します。 彼らは中に入っている人たちの様子、すなわちアブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが祝福の内に ある姿を見るにつけ、自分たちが失ったもののこ とで悔やみに悔み、泣き叫ぶのです。そしてさらに悲しみと怒りをかきたてるのは、29節にあるように、人々 が東からも西からも、また南からも北からもやっ て来て、神の国の食卓に着いてしまうことです。

イエス様は最後 にこう述べられます。30節:「い いですか。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」 これは私たちの永 遠の運命に関わる重大なみことばです。前半で言 われているように、聖書は今しんがりの者が後で先頭になることが良くあると言います。これは自分が神から遠 く離れた所にあると思っている人への福音です。 自分は神の国にふさわしくない罪人である、こんな私なんか天国に入る資格はない。そんな人でもイエス様の招 きに応答し、狭い戸口から入るなら、先頭に立つ ことができる。しかし恐ろしいのは後半です。いま先頭の者がしばしばしんがりになる。これは直接的には、自 らがアブラハムの子孫であることに偽りの安心感 を抱き、当然救われるように思っているユダヤ人への警告ですが、今日の私たちにも当てはまります。私たちも 多くの特権にあずかっています。旧約ばかりか新 約もそろった全巻聖書を手にしています。教会の礼拝に招かれ、聖書の朗読を聞き、説教を聞いています。また 共に賛美をささげ、主にある民の交わりを楽しん でいます。しかしそんな私たちがやがての日に発見することは、私がしんがりにいるということ。このしんがり とは、救われる民の中のしんがりではなく、外に 追い出され、永遠に泣いて歯ぎしりすることです。それは何という驚き、何という悲惨、また何という永遠の災 いでしょうか。

そうならないた めに、イエス様は私たちそれぞれに 「救われる人は多いか少ないか」と問うよりも、あなたがそこに入っているかどうかを問い、努力して狭い門か ら入りなさい、と言われるのです。私たちが今 朝、自らに問うべきは、私は果たしてイエス様の恵み深い働きかけに熱心に応答しているだろうか、というこ と。礼拝に出席し、福音に接してはいるが、個人的 にイエス様に信頼し、イエス様を本当に知るという生活をしているか。いや私がイエス様を知っているという以 上に、イエス様からかの日に知っていると言って 頂ける関係に歩んでいるか。イエス様はエルサレムすなわち十字架に向かって進んでおられました。そして私た ちは特に今週、受難週として、主の十字架を覚え て過ごします。主はそこでどんな罪人をも救い出すための尊いみわざをなしてくださいます。その救いに実際に あずかるためには、一人一人この狭い戸口から 入って行くことが求められています。この言葉に応答して、そこを入って行く者だけが、その戸口の向こうにあ る神の国に入ることができるのです。その者だけ が、ただイエス様の恵みによって、神の国の祝宴にもたとえられる魂を深く満たす永遠の救いへと導いていただ くことができるのです。