ルカの福音書 ルカ 15:1-10

神の喜び

ルカの福音書15章は「放蕩息子のたとえ」で有名な章です。しかしその前に二つのたとえ話が語られています。今 日これから見る「いなくなった羊のたとえ」 と「なくした銀貨のたとえ」です。これら三つは基本的に同じメッセージを語っています。このたとえを理解する上 でカギになるのは、これらが語られた文脈で す。1~3節:「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パ リサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう 言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたと えを話された。」 ここに三つのたとえはパ リサイ人、律法学者たちに対して語られたものだと分かります。彼らはこの時、イエス様につぶやいていました。ま たしても取税人や罪人たちと交わっている! ということについてです。取税人とはローマの手下になって、同胞ユダヤ人にも税金を課し、裕福な生活をしていた 裏切り者です。後にザアカイ物語でも見ます ように、中には税金をだまし取って私腹を肥やしていた人たちもいました。一方の罪人は当時のユダヤ人の細かい宗 教規定を十分に守れていない人たちのことで す。そのため、あいつらはどうしようもない奴らだと、ユダヤ人社会の中で見下げられ、はじき出されていた人々で す。そんな彼らと交わることは身を汚すこと であり、宗教指導者としてはタブーに属することです。しかしイエス様は彼らを受け入れ、食事の交わりまで一緒に している。そんなパリサイ人や律法学者たち の批判に対して、イエス様は三つのたとえを通して答えて行かれるのです。

まず一つ目は「いなくなった羊のたとえ」です。4節:「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのう ちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を 野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」 しばしばこのたとえで、羊飼いは一 匹を探すために出て行ったが、残りの99匹 はどうなるのか、99匹は野に放って置いても良いのか、などと問われたりします。しかしそのような問いは持つ必 要がない問いです。羊飼いは複数いたかもし れませんし、羊飼いの下で働く少年たちがいたかもしれません。当然誰かに残り99匹の世話は任せたことでしょ う。そのことよりこのたとえが強調しているこ とは、羊飼いは一匹を大事にするということです。残り99匹もいるから、一匹くらいどうでも良い、とは言わな い。その羊飼いは、一匹を「見つけるまで」捜 し歩く。どんなに多くの時間、労力、犠牲が必要とされても、それを厭わず、一匹を捜すために出かけるのです。

そしてこの羊飼いの思いと結びついているのが、無事、その羊を見つけた時の彼の喜びです。5節に「見つけたら、 彼は大喜びでその羊をかついで」とありま す。彼はそれまで本当に心配したでしょう。深い谷に落ちていないだろうか、悪い泥棒に盗まれたりしていないだろ うか、野の獣に食い殺されてはいないだろう か。しかしついに、無事何事もなく鳴き声を上げていた一匹を見つけ出す!その時の羊飼いの心の中の深い喜びが、 続く物語を支配します。彼は近所の人たちを 呼び集め、一緒に祝って下さい、と言います。当時は村の一人に生じた出来事は、村全体で共有する出来事でしたか ら、友だちや近所の人たちは一緒になって、 良かった!良かった!とこの人の喜びを共に祝うことになるわけです。

8節からの「なくした銀貨のたとえ」も同じです。この女の人は、10枚の銀貨のうち、1枚をなくしました。彼女 も残り9枚があるから1枚くらいは良い、と はしません。明かりをつけ、ほうきで掃きます。コインがあれば音がするでしょうから、手と目ばかりではなく、耳 も使って捜します。そうした末についにそれ を発見した時、彼女の心にも言葉では言い表せない喜びと安堵感と感激が広がります。そして彼女も、この喜びをみ んなと分かち合いたいと願い、友達や近所の 人たちを呼び集めます。彼女を親しく知っている人たちは、一緒になって喜び、素晴らしいその日の残りの時間を過 ごすことになるでしょう。

さてこれらのたとえはどんなメッセージを語っているでしょう。二つのポイントがあると思います。その一つ目は、 神は私たちを捜し、求めてくださるお方であ るということです。このたとえにおける迷い出た羊とは、直接的には1節に出て来た取税人や罪人たちを指します。 彼らはまさに失われた羊たちでした。人々か らも見下され、神の祝福から最も遠い所にいるような人々でした。そんな彼らを神はイエス・キリストにおいて捜し に出て来てくださった。そしてこれは私たち すべてにも当てはまります。イザヤ書53章6節に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道 に向かって行った。」とありますように、私 たちは神から離れ、羊飼いを失い、さまよい歩く羊のような者たちでした。そんな私たちを見つけ、捜し出すため に、神はどんな労も惜しまなかった。4節に 「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く」とありますが、どんなに多くの労と犠牲が羊飼いの側でささげられた ことでしょう。神もそうです。イエス様はそ のために、天の栄光を後ろに捨てて私たちのところに来てくださいました。また私たちを永遠のいのちに生かすため に、必要となるあらゆる犠牲を払うことを厭 われませんでした。特にそのために十字架上でご自身のいのちをささげることさえ控えられませんでした。そのよう なことをしてまで神の方で、私たちを求めて くださったのです。

私たちは神がこのような神であられることを仰いでいるでしょうか。神がそうされるのは、私たちの内に神を引きつ ける何らかの価値があるからではありませ ん。自分勝手に迷い出て、本来はそのまま見捨てられてもおかしくない私たちなのに、神が私たち一匹一匹を御心に 留めて、追い求めてくださるのです。私たち はたまたまキリスト教に接して、たまたまたイエス様に出会ったのではなく、イエス様が私を求めて、私のところま で来てくださったので、私たちはイエス様の 御言葉に触れ、この救いを頂いたのです。一体そのように求められている私たちとはあなたの御前で何者なのでしょ う!と神に問わずにいられないような御言葉 です。

もう一つのメッセージは、神はこのような私たちを見つけ出して喜んでくださるということです。これこそたとえの ハイライトです。さまよっていた羊はもちろ ん、羊飼いを見つけた瞬間、大きな喜びをもって羊飼いの胸に飛び込んで行くでしょう。取税人や罪人たちは、まさ にその喜びを今、味わっています。しかしこ のたとえが浮き彫りにしているのは羊飼いの喜びであり、銀貨を見つけた女の人の喜びです。そしてそれらはいずれ も天で沸き起こる神の喜びを現すものとし て、イエス様は次のように述べておられます。7節:「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人 が悔い改めるなら、悔い改める必要のない 99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」 10節:「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひ とりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いた ちに喜びがわき起こるのです。」

詩篇32篇はダビデの悔い改めの詩篇の一つですが、その7節で彼は悔い改めて神に立ち返った時の経験をこのよう に書いています。「あなたは私の隠れ場。あ なたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」 罪の苦しみから解放され、神の前に平安を頂 いたダビデ本人が「私は喜んでいる!」と言 うなら話は分かりますが、彼はその時、神が救いの大歓声をもって自分を取り囲んでいて下さるのを発見した!と 歌っています。私たちがもし受験に合格して、 掲示板にある自分の番号を発見したら大いに喜ぶでしょう。しかし、その時、周りにいつのまにか多くの人たちが集 まっていて、みなが割れんばかりの歓声と拍 手をもって私を喜んでくれるその中心に自分がいるのを発見したらどうなるでしょうか。その時その人は、一瞬その ことに戸惑いつつも、その喜びはさらに大き なものとなるのではないでしょうか。神はそのように私たちを喜んでくださるのです。

私たちもこの時の羊の気持ちになってみれば分かるかと思います。見つけてもらって何よりも嬉しいのは自分自身で す。しかし羊がそのあと見るのは、羊飼いの 喜びです。こんな自分の4本の手と足を首に巻きつけ、肩に担いで、良かった、良かった、と言いながら、家に運ん でくれる。そして家に帰れば、いなくなった 羊が見つかったから、一緒に喜んでください、とみんなでそのことを祝う。こんなに喜んでくれる羊飼いの姿を見た ら、もはや羊としては深い悔い改めに導かれ るより他ありません。自分は何とこの方から離れ、好き勝手に歩むことが喜びだと思って、愚かな歩みをしていたこ とか。そうではなく、これほどに自分を心に かけ、愛し、大切にしてくれる羊飼いこそを私の喜びとし、いつまでもその羊として住まわせて下さい、と願わずに いられない。

私たちは様々なことに喜びを覚えます。美味しいものを食べること、流行の服を着ること、新しい製品を買うこと、 素敵な人に会うこと、趣味やスポーツに没頭 すること、・・。しかし今日の箇所に示されている喜びに勝る喜びは他にあるでしょうか。何と聖なる全能の神が、 こんな私たちの神への立ち返りを非常に喜ん でくださる。罪ゆえに自業自得の苦しみと滅びを刈り取って当然の私たちなのに、そんな私たちを心にかけ、求め、 神のもとに取り戻されることをご自身のこの 上ない喜びとしてくださる。何ともったいないことでしょう。何とありがたい話でしょう。この神の大きな愛に包ま れて生きることこそ、何にもまして私たちの 心を深く満たし、私たちを生かす、私たちが経験し得る最大の喜びではないでしょうか。

そして私たちは自分自身がこの神の恵みを経験する時に、他のどんな人の救いをも心から喜ぶことができます。この ルカ15章の三つのたとえは、一言で言え ば、パリサイ人や律法学者たちに、あなたがたもこの神の喜びの輪に一緒に加わるように、と語りかけるものです。 彼らパリサイ人や律法学者たちがイエス様を 見てつぶやいたのは、自分たちは立派な人間だと思っていたからです。しかし私たちは本当は、みな神の前に同じ罪 人であり、失われた羊、迷い出た羊のような ものです。そのことが分かれば、取税人や罪人たちと交わるイエス様の姿を見ることは、つぶやきを漏らす機会では なく、むしろ励ましを得る機会にさえなった でしょう。

私たちは自らも失われていた羊であり、神はそんな私が見出され、神のもとに回復されることを喜びとしてくださる と知る時、他のどんなに罪深い人の救いも心 から喜ぶことができます。そして私たちはその喜びの輪に加わるばかりか、さらにこの神の喜びが大きく広がるため に、神と共に働くように導かれるでしょう。 今もなお、一人の罪人が悔い改め、神に立ち返るなら、天では大きな喜びが沸き起こります。イエス様はこのたとえ を通して、神はすべての罪人の救いをご自身 の喜びとして活動しておられるのだということを示し、その喜びの輪に加わるようにとパリサイ人たちを招かれたの ですし、同じように今なお失われている者た ちを捜して救い出す神の喜びの働きに加わる者となるように、と今日の私たちをも招いておられるのです。