ルカの福音書 15:11-24

放蕩息子

ルカの福音書15章には三つのたとえ話が記されていますが、これらはいずれも同じ真理を語っています。「失われ た羊のたとえ」「失われた銀貨のたとえ」 「失われた息子あるいは息子たちのたとえ」。これらの中でも三つ目の放蕩息子のたとえが一番有名でしょう。羊や 銀貨よりも生きた人間が題材となっていて、 より私たちに当てはまり、より私たちに訴えかけるものとなっているからでしょう。

このたとえ話はよく伝道説教のテキストとして用いられます。有名な話ですが、ある説教者が刑務所の受刑者に説教 するために出かけると、刑務所の役人がこん なことを言ったそうです。「今日あなたがどんな話をしようと、それはあなたの自由であり、少しも干渉がましいこ とを申し上げるつもりはないが、できること なら放蕩息子のたとえばかりは話さないでいただきたい。というのは、先だってから来る説教者も来る説教者も、放 蕩息子のたとえばかり話されて、すでに24 回続けてうけたまわった。当分はもうたくさんだから、どうかなるだけ他の話をお願いしたい。」 確かにそうかも しれません。しかしこのたとえを理解する上 で大切なことは、前回も触れましたように、文脈を押さえることです。1~3節を見ると、これらのたとえはパリサ イ人や律法学者たちに対する言葉です。とす ると、たとえの登場人物はそれぞれ具体的には誰を指しているでしょう。まず放蕩の罪を犯して父のところに戻って きた弟息子は取税人や罪人たちを指します。 たとえの中の父親は父なる神様です。そして弟息子が歓迎されたことに腹を立て、父に文句を言っている兄息子はパ リサイ人、律法学者たちです。ですからこの たとえの力点は明らかに後半にあります。しかし全部を一回の説教で見るには長いので、今日は前半の24節までを 見たいと思います。

まずこのたとえが描いているのは、弟息子の罪です。彼は12節で父に「おとうさん。私に財産の分け前を下さい」 と言います。今日と同じく当時も、相続は父 が死んでから行なわれるのが普通でした。当時、長男は2倍の分け前を受けましたので、弟息子が受けるのは3分の 1となります。彼は父がまだ生きているの に、その相続を願い出ます。これはとんでもない暴言です。お父さんに早く死んで欲しいと言っているようなもので す。あなたからもらえるものはもらっておき たいが、あなたはいらない。どうせ私にくれるものを早くくださいと要求した。父と弟息子の間に何度かのやり取り があったかどうかは分かりませんが、父は身 代を分けてやります。すると弟息子がしたことは何でしょうか。さっさと何もかもまとめて遠い国に旅立つことでし た。この「何もかもまとめて」という言葉 は、お金に換金するという意味を持つそうです。つまり彼は家族の思い出が詰まっている大切な品々も簡単に現金に 換えたのです。全く心ない行為です。そして 遠くへ出て行った。それは自分の好き勝手な生活をするためです。誰にも干渉されずに、罪の生活を自由に行なうた めです。

これは直接的にはこのたとえを聞いていた取税人や罪人たちを指しています。しかし私たちは単にこれを彼らの話 だ、と見るのではなく、自分にも当てはめて考 えるべきでしょう。私たちも神の権威の下で生きるより、遠く離れた罪の国で、したい放題の生活をしたいと願い、 またそのように歩んで来た者たちではない か、と。

場面は遠い国での生活に移ります。この息子はついに自分がしたいと思っていた生活を始めます。そして最初の内は うまく行きます。彼は湯水のように財産を 使ってしまいます。買いたいものを買い、出かけたいパーティーに出かけ、飲み食いに自由にお金を使い、人々と遊 び回る。これぞ私が求めていたものだ!と喜 びつつ、日々を過ごす。罪を犯す生活は最初はそのように楽しいのです。しかしそれは長くは続かない。生活は急に 苦しくなります。しかもその後で、その国に 大ききんが生じます。全く予想外の事態です。泣きっ面に蜂です。その結果、ちょっと前までみんなにもてはやされ た金持ちの若旦那が、食べるものにも困り始 めた。かつて周りに群がっていた友だちも、誰も助けてくれない。そして彼はある人のもとに身を寄せて、豚の世話 をするまでに落ちぶれます。「豚」はユダヤ 人にとっては汚れた動物でしたから、これは考え得る最悪のみじめな仕事に就いたということを意味します。しかも 彼は豚の食べるイナゴマメで腹を満たしたい ほどであった。つまり汚れた動物以下の状態にまで落ちたのです。これは罪の生活が行き着く結果です。神から逃げ 出し、自分の欲望を満たす道を進むなら、喜 びはあっという間に消え、苦しみが支配し、ついにはこのような霊的に瀕死の状態に至る。

そんな苦しみのどん底に至って、彼はふと「我に返った」と17節にあります。つまり彼はこれまで自分を見失って いたのです。自分のしたいことで頭が一杯 で、周りが全然見えていなかったし、自分も見えていなかった。彼はその時、「父のところには、パンのあり余って いる雇い人が大ぜいいるではないか」と言い ます。彼はここで自分は何と愚かな生き方をして来たか。父を疎んじ、邪魔に思い、自分の欲望達成を優先して突き 進んで来ましたが、その生き方がいかに誤っ たものであったことを今さらのように悟ったのです。ですから彼は「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあな たの前に罪を犯しました。」と告白しなけれ ばならない、と感じた。ここに本当の悔い改めの特徴があります。それは自分の内にある問題を認めて、人のせいに しないことです。自分がこんな状況に陥った のは、大ききんが起こったからだとか、こんな状況に放っておく神が悪いとか、皆は私を助けなかった、といったこ とは彼は述べていません。彼は自分の歩みを 振り返った時、自分自身の中に悔い改めなければならない問題があるのであり、それを神の前でだけでなく、具体的 な悪を行なった父の前でも告白し、詫びなけ ればならないと思ったのです。これこそ私たちに幸いをもたらす大きな転換点です。

さて、そうして父のもとに行った時にどんなことが起きたでしょうか。ここに示されている父なる神の愛を正しく知 るために私たちが十分に思い巡らすべきは、 父がこれまで受けて来た犠牲のことです。父は弟息子にひどく傷つけられました。恩を仇で返されるよう扱いを受け ました。財産を与えた直後にすべてを売り払 い、さっさと出て行った息子を見る父の胸中はいかなるものであったでしょうか。そんな息子が帰って来たなら、怒 りと拒絶を持って、その悪に報いても何らお かしくありません。あらゆる埋め合わせと償いを要求して当然です。しかしたとえの中の父は驚くべき姿を見せま す。第一に父の方が先に放蕩息子が帰って来た のを見つけました。これは父が、息子がいなくなってからもずっと彼のことを心にかけ、事あるごとに地平線を見つ めていたことを暗示しています。二つ目に、 父は走り寄って行きました。年老いた人が走るのは今日でも普通ではありません。ましてや当時はそうです。年長者 が走るなんてはしたない。威厳が損なわれま す。なのになぜ走るのか。それは一刻も早く放蕩息子に会いたいからです。20節の「かわいそうに思う」という言 葉は、あの有名な「はらわたがよじれるよう な思い」を指す言葉です。出て行った時とは丸っきり違った姿で帰って来た息子を見て、父はすべてが分かったので す。走ることによって周りの人々からどんな に蔑まれようともかまわない。父は走り寄って息子を抱き、口づけします。放蕩息子はどうしたでしょうか。彼は道 中、考えて来た18~19節の悔い改めの言 葉を述べ始めます。ところが21節と18~19節を比べると、19節最後の「雇い人のひとりにしてください。」 という言葉は21節にありません。ある人は 放蕩息子は、父にこのように迎えられたのを見て、そこまでは言わなくても良いと考えたと言います。しかしそうで はないでしょう。その言葉がないのは、父が 言わせなかったからです。その言葉を遮るように、22節からのことばを語ったからです。つまりここに示されてい るのは進んで赦した父の姿です。そして4つ 目は驚くべき歓迎です。急いで一番良い着物を持って来て着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせよ!と言 います。そして肥えた子牛を引いて来てほふ れ!と言います。こんなことをしてもらうにふさわしい姿は何もないのに、たとえの父はこのようにして帰って来た 放蕩息子を喜び迎え入れたのです。

これは神の私たちに対する愛を示しています。一言で言って、とてつもなく大きな犠牲の愛です。父は弟息子によっ て言葉にすることもできない悲しみと苦しみ を経験させられました。しかし息子が戻って来た時、父は自分の傷ついた心は脇に置いて、この息子のために持てる ものすべてをささげて迎え入れた。私たちの 神も、このたとえの父のように私たちのためにへりくだり、忍耐し、ご自身に痛みを負ってまで私たちを迎えてくだ さる方です。このような神だから、神は私た ちの救いのために、ご自身の一人子イエス様さえも差し出すことを惜しまれなかったのです。本来神は高い所にい て、ご自身の義を主張していれば良いのに、聖 なる神が痛みを負い、こんな私たちのためにへりくださり、仕えてくださっている。私たちが信じている神は何とい う神でしょうか。

そして何と言ってもこのたとえが強調していることは、前回の二つのたとえと同様、神の喜びです。父のもとに帰っ た放蕩息子は、このように迎えられて言い知 れぬ感動を味わったでしょう。しかし放蕩息子が見たものは、父の喜びです。父は着物や指輪や靴を持って来なさい と言い、さらに特別な時のために取っておい た子牛を迷うことなく引いて来させ、祝おうではないか!と言った。こんな自分が帰って来たことを父がこんなにも 喜んでくれている。一体そのようにして頂け る私とは何者なのでしょう。本当に申し訳ないことです。

私たちはこの御言葉の前にどう応答すべきでしょうか。このたとえから益を受けることができるとすれば、それは私 たちがこの放蕩息子は自分のことだというこ とが分かる時でしょう。神から離れて、自分勝手に生きたいと願い、好き勝手な生活をして来た自分。そうして本当 の喜びはなく、むしろ苦しみや失望の毎日が ある自分。そんな私たちは今からでも、この放蕩息子と同じように、父なる神のもとに帰るようにと招かれていま す。これはすでに信仰告白をしたクリスチャン にも当てはまります。信仰告白をしたと言っても、いつの間にか神の権威のもとにあることを嫌い、神から離れ、自 分を主とし、御言葉に従うより自分の好きな 道を行こう、としていることはないでしょうか。そうしてなお神を悲しませ、傷つけ、神が下さる祝福ではない道に 行っていることはないでしょうか。しかし神 は私たちが神のもとに帰ることを待っておられ、そのことをご自身の大きな喜びとしてくださいます。威厳ある聖な る方が、ご自身を低くして、走り寄ってまで 私たちを喜び迎えてくださる。私たちはこの神の前で自らを省み、悔い改めを持って神に立ち返る歩みに進みたい。 神の祝福だけを目当てに戻るのではなく、父 なる神のもとで、父なる神と共に生きることへと帰って行きたい。神はそのことをご自身の大きな喜びとし、私たち を豊かな祝福に生かしてくださいます。「急 いで一番良いものを持って来て、この子に着させなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさ い。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさ い。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだか ら。」