ルカの福音書 17:1-10

役に立たないしもべ

今日の箇所には「つまずき」という言葉が出てきますが、これはクリスチャンの世界独特の意味合いを持つ言葉では ないか、と思います。世の中でも「つまず く」という言葉は 使います。歩いている時に足先に物が当たって、けつまずくという意味。あるいは事業につまずくといった具合に、 失敗するという意味。しかし聖書では霊的な 意味が加わり、信仰をもって歩いていた人が、ある出来事を見たり聞いたりした結果、その道をそれ以上歩けなくな ることを指すでしょう。すなわち信仰の道か ら離れ、罪の道に戻って行く。そのようなつまずきが起こるのは避けられない、とイエス様は言っています。なぜな らこの世は天国ではなく、サタンがあらゆる ところで活動しているからです。すきあらばつまずかせようと様々な障害物を置きます。しかしイエス様は同時に、 「だが、つまずきを起こさせる者はわざわい だ。」と言われました。ただでさえ教会の外には人をつまずかせる色々な動きがあるのに、教会の内側で信者をつま ずかせ、その歩みを妨げるような悪影響を及 ぼす者はわざわいだ、と。

私たちは果たして自分は大丈夫だろうか、と吟味させられるわけですが、その際の視点として2節は大切なことを 語っています。すなわち「この小さい者たちの ひとりに」ということです。イエス様の目はどこを見ているか、ということです。私たちは人をつまずかせるような 大それたことはしていない、と思うかもしれ ません。しかし「小さい者」とは、私たちがあまり重要に考えていない人たちのことです。社会的にも、また信仰的 にも、ともすると無視し、軽んじてしまいそ うな人々。そういう小さく弱い人の前での何気ない言葉、振る舞い、態度によって、私たちは失望や落胆を与えてい るかもしれません。そういう人へのイエス様 の言葉は厳しいものです。「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれた方がましです。」 

イエス様は、だから気をつけなさい、と述べた後、二つのことを3節4節で語ります。その一つ目は、もし兄弟が罪 を犯したなら、彼を戒めなさい、ということ です。積極的につまずきを与えなければ良いのではなく、互いの益のために適切に関わり合うということです。しか しこれは、他人のあら捜しをしたり、高いと ころからあれこれ指摘することとは違います。私たちは自分の問題点はさっぱり見えないのに、人の悪い点だけはよ く気が付くので、そんな私たちが何の配慮も なく互いの問題を責め合ったら大変なことになります。マタイ7章5節:「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りの けなさい。」 ガラテヤ書6章1節:「兄弟 たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさ い。」

これと合わせて言われているもう一つのことは、「悔い改めれば、赦しなさい」ということです。4節のイエス様の 言葉は衝撃的です。「かりに、あなたに対し て一日に7度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って7度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」  似た言葉としてペテロが「主よ。兄弟が私に 罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」と尋ねた時、イエス様が「七度を七十倍す るまで」と言われたことを私たちは思い起こ すでしょう。しかしこの4節の驚くべき点は、「一日の間に」と言われていることです。一日は24時間。その中で 眠っている時間をのぞいて7回赦すとした ら、約2時間ごとにそうすることになる。私たちは誰かに何かをされると、1ヶ月も1年も、あるは何十年間もあの 人は赦せない、と思い続けるかも知れません が、イエス様は何と同じ日の2時間前に罪を悔い改めた人がまた同じことをして悔い改めるなら、赦してあげなさ い、と仰る。もちろんこれは、罪を軽く扱うと か、うやむやにして良いと言っているのではありません。しかしイエス様はここで私たちに、進んで赦す心の用意を 持つべきことを語っているのです。たとえ2 時間前に悔い改め、また同じことを繰り返して謝って来るなら、何度でもそうしなさい、と。これは特に2節の言葉 と結びつけて考えるべきではないでしょう か。私に繰り返し悪を行ない、迷惑をかける人は小さな人なのです。一度謝ったにもかかわらず、また同じことを繰 り返すということにおいて弱い人なのです。 しかしそういう人を赦さないという態度を取ることによって、私たちはその小さい者たちをつまずかせることができ る。私たちとしては、自分こそ被害者だと言 いたい。一日に7度同じ罪を繰り返された私の身になって考えて欲しい、と叫びたくなる。しかし神から見ると、悔 い改めたのに赦さず、その人を回復させない 重罪だ、ということになるかもしれない。だからイエス様は気をつけなさい、と言われるのです。そして何度でも赦 してやりなさい、と命じておられるのです。

果たしてこのようなことは一体誰に可能でしょうか。使徒たちも、これは並の信仰ではできないこと、そのために信 仰を増し加えてもらわなければならない、と 考えました。それに対してイエス様は言われました。6節:「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったな ら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植わ れ』と言えば、言いつけどおりになるのです。」 マタイ17章には「もし、からし種ほどの信仰があったら、この 山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移 るのです。」という御言葉があります。私の実家の石巻の家の前には牧山という山があり、窓を開ければまずそれが 目に入ります。私はその山に向かって、神経 を集中し、「動け!」と念じたことがあります。もちろん簡単には動かない。しかしここであきらめたら信仰が足り ないと思って、再度心を込めて念じて、1セ ンチくらいは動いたかどうかとゆっくり目を開けて見るが動いていない。やはり私には信仰が足りないのだろう。神 に特別用いられる器ではないのだろう、と 思ったことがあります。しかしもちろん、これはそのように理解されるべきみことばではありません。良く考えれ ば、イエス様もそのようにして山を動かしたこ とはありませんし、歴史の中でも、あるクリスチャンが信仰によって山を動かした!という記録もありません。逆に もしクリスチャンたちが気ままに念じて山が あっちこっちに移ったら、富士山もエベレストも、いつどこにあるか分からなくなりますし、恐ろしい混乱が生じて しまうでしょう。ここで言われているのは私 たちの目には不可能だと思われることも神にはできる、ということです。そしてここでは特に4節の「一日に七度罪 を犯す人を赦す」こととの関連で言われてい るのでしょう。

このような神の力に生きるためには、からし種ほどの信仰で十分、とイエス様は言われます。私たちはついつい信仰 を量的に考えてしまいます。しかし大切なの は、信仰それ自体ではなく、その信仰を通して働いて下さる神の力。ある人は「大事なのは神への偉大な信仰ではな く、偉大な神への信仰だ」と言いました。自 分にではなく、神にしっかり向けられている心と信仰、それが大事なのです。

ではそれはどのような信仰なのでしょうか。そのことが最後の7~10節にあります。一見すると、随分ひどいこと が言われているようにも思えます。しかしこ れは私たちが自分を正しくわきまえるための言葉です。私たちは自分を誇りやすい存在です。自分が成し遂げたわざ に注目し、「自分は良くやっている。だから 評価され、賞賛されて当然である」と考え、他人と比較し、自分は偉い者であるかのような尊大な態度を取る。そし て逆に思い通りにいかないと不満や苛立ちを 周りにぶつける。実にそういう姿が人をつまずかせるのです。また自分に害を及ぼした人を決して赦そうとしない人 間になる。しかしイエス様はここで自分のな すべきことをみなしてしまった後で、「私たちは役に立たない人間です」と言いなさい、と教えておられます。これ はどういうことでしょうか。これは誇る気持 ちを持たない人になれ!ということです。言いつけられたことをみな行なった後でも、「私は役に立たないしもべで す」と告白する謙遜な人になりなさい、とイ エス様は言われる。一体どのようにして、そのような人になれるでしょうか。それは自分は神の大きな恵みによって 生かされている者だということを正しく認識 することによってでしょう。1コリント6章19節20節:「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれ る、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがた は、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから自分のからだをもって、神の栄光を 現わしなさい。」 私たちは代価を払って買い取られた者です。イエス様はそのためにご自身のいのちという測り知 れない尊い代価を払ってくださいました。そ のようにして買い取られた私たちが、少し何かをしたからと言って自分を誇り、イエス様に感謝を求めるというのは あまりにもおかしな話ではないでしょうか。 むしろ私たちは自分に与えられた恵みを思うなら、どんなに立派な応答をしても、不十分なものだと言わざるを得な い。仮に相当に素晴らしいわざを行なうこと ができても、それもただ神の恵みによってそうさせて頂いただけで、私自身に誇ることは何もない。私は役に立たな いしもべです、と告白するのがふさわしい。 このように告白する人は、ただ神の恵みを感謝し、これに一生懸命答えようとしている人であって、そういう人は真 にへりくだっていて、人をつまずかせること がありません。むしろ過ちに陥った人を適切に戒め、主が赦してくださったように悔い改める者を何度でも赦し、桑 の木を根こそぎ海の中に移すという神の奇跡 的な力に生きることができる人なのです。

このように告白して歩んだ模範として、パウロをあげることができます。彼は手紙の冒頭でしばしば、「神のしも べ」とか「イエス・キリストのしもべパウロ」 と自分を呼びました。彼は卑しめられているとの思いをもって、暗い顔でこの表現を使ったのではなく、感謝と喜び と持ってそう言ったのです。そしてそう語る 時、彼は神のために何でもすることができたのです。

私たちはこの反対の考えを持ちやすい者です。しもべではなく、王様のように誇り高ぶって、人をつまずかせてしま う者です。しかしイエス様は私たちに祝福の 言葉を教えてくださいました。それは私たちが日々「私たちは役に立たないしもべです」と告白することです。喜び を持って、はっきりこの告白をすることで す。その時、私たちは正しい謙遜を頂いて、神が喜ばれることのためには何でも行なおうというしもべの歩みへ導か れます。とてつもない神の恵みに取り囲まれ ていることについての言い尽くせない感謝から、桑の木を根こそぎ動かす神の全能の力にさらに導かれて、イエス様 が命じているように、人を赦し、徳を建て、 神の栄光のために用いて頂ける光栄な器として歩むことができるのです。