ルカの福音書 17:20-37

人の子の日

今日の箇所は「神の国はいつ来るのか」というパリサイ人たちの質問から始まります。パリサイ人たちと聞くと、私 たちは、彼らがイエス様への敵対心を持って 質問したので はないかと思うかもしれませんが、そのようなことはここに記されていません。当時のユダヤ人たちは、イスラエル を他の国の支配から救い出し、全世界の上に 高く上げてくれる神の国を待ち望んでいました。それはいつ来るのか、それが来る前にはどんなしるしが見られるの か。そのことについてイエス様の考えを聞き たいと彼らは願ったのでしょう。

そんな彼らにイエス様は答えられました。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」  イエス様は11章20節でこう言ってお られました。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来てい るのです。」 つまりイエス様の答えは「神 の国はすでに来ている」ということです。神の国とは、神の恵みのご支配のことです。それは「ここにある」とか 「あそこにある」と言えるものではなく、あな たがたのただ中にある。この意味は「あなたがたの心の中に」ではなく、「あなたがたの間に」ということです。す なわち、彼らのただ中におられるイエス様の 御言葉の宣教において、また癒しなどの力あるみわざにおいてということです。私たちはここに改めて神の国は、肉 の目で認められるものでないことを教えられ ます。神の国はイエス様の言葉に聞き、イエス様の招きに従って歩む人たちの上にあるのです。

しかし今、地上にある神の国は最終的なものではありません。その完成はなお将来に属しています。イエス様は弟子 たちに向かって語られます。22節:「イ エスは弟子たちに言われた。『人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。』」 「人の子の 日」とは、やがてイエス様が再臨し、神の国 が完成する日を指しています。それまでは、イエス様を信じる者たちにもなお苦しい日々がある。確かに私たちは神 の国がすでに到来していることを味わい、 「御国の心地す」といった賛美をもって心から主をほめたたえる時があります。しかし一方でもっとはっきり神の恵 みの支配を見たいと願うのに、なかなかそれ を見ることができない。あまりにも悲しく厳しい状態が続き、早く今の苦しみに終止符を打って欲しいと切望するの に、それがかなわない。せめて人の子の日を 一日でも見ることができたら、と願うが、その日を見ることはできない。そんな時が来る、とイエス様は仰っていま す。

そういう時の誘惑は、人々が「こちらだ」とか「あちらだ」と語るのを聞くと、心が騒いでしまうことでしょう。苦 しみの中であえぎ、うめいている時に、 「こちらだ」と言われると、後を追いかけたくなる。しかしイエス様はその必要はないと言われます。なぜなら24 節にあるように、主の再臨の日はすべての人 が瞬時に分かる仕方でこの世に臨むからです。稲妻がピカッとひらめいて、天の端から天の端へと輝き渡るように、 全人類が一瞬にして人の子の来臨を知るから です。誰かに教えてもらう必要はないのです。ボヤボヤしていると自分だけ乗り遅れるのではないかという心配は一 切ご無用。ソワソワせず、主が圧倒的な神の 力を持って一気に現れることを、ただ信じて待っていればよろしい。

イエス様はこのことと合わせて25節で「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなけれ ばなりません。」と言われました。すなわ ちイエス様はこの日の出来事を、ご自分がこれからかかる十字架というレンズを通して見ておられました。神の国は イエス様の十字架という代償と引き換えに与 えられるものです。ですから神の国の完成のためには、まずご自分の十字架の死という恐ろしい出来事が先に来る。 それが成し遂げられてこそ、神の国は豊かな 祝福と力を持って地に臨むことができるのです。

イエス様はこの「人の子の日」についてさらに語って行かれます。次にイエス様が言っているのは、その日はちょう どノアの日やロトの時代にあったことと同 様であるということです。創世記に出て来るノアは神の命令を受けて巨大な箱舟を相当な年月をかけて造りました。 人々はなぜそんな大きな船を作るのか、ノア に尋ねたでしょうし、ノアは神のさばきについて宣教しました(2ペテロ2章5節)。しかし人々はそのメッセージ を心に留めず、食べたり、飲んだり、めとっ たり、とついだり、・・・日常生活を忙しく過ごしました。そんな時に、突然神の審判が下ったのです。ロトの時代 も同じです。彼らも食べたり、飲んだり、 売ったり、買ったり、植えたり、建てたり、普段の生活を送っていたただ中に、神のさばきが臨みました。人の子の 現われる日も全くその通り、とイエス様は言 われます。すなわち再臨の日など、そう簡単には来ないだろう、どこにそのしるしや兆候が認められるのか、と多く の人が気にも留めず、その警告を嘲笑い、無 視して生活しているただ中に、主の日は突然力を持って臨むのです。今日なら、人々が犬の散歩をしに出かけていた 最中に、友達と遊んでいた最中に、仕事のた めに会議に出席していた時に、ケータイやパソコンでメールをチェックしたり、お得なお店の情報を検索していた時 にということでしょう。

ですから私たちもこの主のみことばを忘れて、この世の生活で頭と心が一杯になることがないように注意しなくては なりません。31節:「その日には、屋上 にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけませ ん。」 もし何か大変だという時に、預金通 帳を取るために急いで1階に降りることを優先したり、あの自分の宝物はどうなってしまうことかと考えて、それを 持ち出すために家に引き返そうとするなら、 それは私たちが普段からそれらに第一の信頼と愛情を注いでいることを意味します。そんな私たちにとっての警告は ロトの妻です。彼女はソドムとゴモラの町を 抜け出して、救いの道を走っていたのに、後ろを振り返ってはならないという御使いの戒めにそむいたために塩の柱 になりました。あれはうっかりミスではな く、彼女の普段からの心の状態を現わしているとイエス様は言っています。すなわち神がくださる救いよりも、この 世を彼女はより多く愛していたのです。です から私たちも、自分の生活は果たして主の再臨を本当に待ち望むものになっているだろうか、それともそのことは すっかりどこかに追いやり、今、ここでの私の 生活に心が捕われ、縛り付けられていないだろうか、と点検させられなければなりません。この世での自分の命を救 おうとする者は来たるべき日にそれらをみな 失う一方、たとえこの世の命を失うようであっても、主の約束を信じ続けて歩む者には本当の命が与えられるからで す。

そしてこの日について厳粛な事実は、一人は取られ、一人は残されることです。34節35節に出て来る二人は特別 に親しい間柄にある二人です。同じベッド で眠り、同じ臼を引き、何をするにも一緒の二人。私たちは運命共同体!と相手も自分も口にし、その関係に信頼し 合って来た二人。ところがその二人の間にさ えも、やがての日にはそれまで良く見えなかった一線がスーッと浮かび上がる。一方は永遠のいのちに入るが、もう 一方はさばきに服さなければならない。です から私たちは他の人と自分がどのようにつながっているかという人間的なつながりに満足したり、安心するのでな く、一人一人が神と自分の関係を大事にし、人 の子の日に備える者でなくてはなりません。

最後の37節で弟子たちは「主よ、どこでですか」と問います。それに対してイエス様は「死体のある所、そこに、 はげたかも集まります。」と答えられま す。一見謎めいた言葉で、色々な解釈が言われていますが、基本的には次のことを言っているものと思います。イエ ス様は人の子の日が「いつ」起こるかという 問いに答えておられませんが、「どこで」という問いにも答えておられない。イエス様が言っていることは、その日 が来ればすぐ分かるということです。もし死 体があるなら、それはどこにあるかと問わなくても、はげたかが集まって来る様子を見れば分かります。同じように 人の子の日が到来したら、どこで?などと問 わなくてもすぐに分かる。と同時にこれはやがてのさばきの恐ろしさも暗示しているのではないでしょうか。死体に はげたかが集まる光景が不気味なものである ように、やがての日はさばかれるべき人たちに、そのように恐ろしく、厳しい結果をもたらす日となる。

この御言葉の前に私たちはどのように応答する者でしょうか。このイエス様のメッセージを本当に理解するなら、私 たちの生き方はこれまでと同じであること はできないと思います。間もなくイエス・キリストが再臨して、神の支配が最終的な形で現わされる日が来ます。ノ アの洪水が示す最後の審判の日が来ます。ソ ドムとゴモラのさばきが示すさばきの日がやって来ます。果たして私たちのなすべき準備は何でしょうか。それはま ず自分は大丈夫であるということを確かにす ることでしょう。すなわちイエス様がすでにもたらしておられる神の国に今ここで生き、いつ主の再臨の日が来ても 良いように、その日を待ち望む生活をするこ とです。その日が来るまで、私たちの生活には苦しいことがたくさんありますが、今日の御言葉を通して心に刻むべ きは、その日はいつの瞬間にも地上に臨み得 るということです。稲妻がひらめくように、私たちが見ている現実を打ち破って、明日にも、数秒後にも、約束の日 は実現し得る。私たちはその望みを抱いて、 いつでも主をお迎えする準備ができている者として歩むべきです。

そしてそれを確かにしたなら、周りの人々の救いのためにも仕えるべきです。周りの人々は、この主の救いを受け入 れなければ、ノアの洪水の日のように圧倒 的な主のさばきに服さなければならなくなります。私たちの伴侶も、家族も、友人も、同僚も、・・・。そのことを 思って、かの日が確実に迫っている今、私た ちは周りの方々のために祈り、言葉と行ないを持って神の国を伝え続ける歩みへ導かれたいと思います。

イエス様は25節で、人の子はまず多くの苦しみを受け、捨てられなければならないと言われましたが、すでに十字 架のみわざは成し遂げられ、主は復活し、 父なる神の右に上げられ、聖霊が遣わされています。もはや最後のプログラムとしての主の再臨はいつ起きてもおか しくありません。いつの瞬間にでもそれは起 き得る、という状況にあります。この主の約束が私たちの日々の歩みの励ましとなり、力となることができますよう に。このことから目を離して、この世の歩み にどっぷりつかり、主の再臨の話を聞いてビクビクしたり、後ろめたさばかり感じる者でありませんように。むしろ 必ず来るやがての日にしっかり焦点を合わ せ、その日に向けてすべてを準備し、希望を大きくし、その日を待ち望む力強い歩みを主の前に導かれて行きたいと 思います。

「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てく ださい。」(黙示録22:20)