ルカの福音書 19:11-27

王が帰って来る時
イエスはいよいよエルサレムに近づいておられました。この時はちょうど過越の祭りが近づいている時でした。 過越の祭りは、イスラエルの民がエジプトの苦役から救い出されたことを記念する祭りです。ユダヤ人たちは 神が再びその力強い御手を持って、外国の勢力から、この時はローマ帝国の支配から解放して下さること、 そして自分たちを世界の上に高く上げて下さることを熱心に待ち望んでいました。そんな時にイエス様が神の 国を宣べ伝え、次々にみわざを行なっています。そのため、人々の間には、イエス様がエルサレムに到着した 暁には、ついに待ち望んだ御国が実現するのではないか!という期待が高まっていたようです。 そんな彼らに イエス様は今日のたとえを語られました。

すぐに分かりますように、たとえの中の「ある身分の高い人」とはイエス様を指しています。その人はまず遠い国へ 旅立って行かれます。「遠い国」という表現によって、神の国の完成は今すぐではないことが示唆されています。 イエス様は十字架と復活と昇天のみわざを経て、弟子たちのもとから去り、父なる神のもとへ行かれます。 長い旅に出かけた人のように、すぐには戻って来ません。しかしこのことは、「何だ!ではまだ神の国は来ないの か」 と言って失望したり、あるいは目的を見失ったダラダラした生活をして良いということではありません。イエス様の ポイントは、私は一旦去って行くが、あなたがたにはその間、なすべきことがあるということです。そして、 やがて王として戻って来た時には、一人一人のしもべに歩みを問い、報いをするということです。イエス様は その日に照らして、私たちが今日という日を正しく生きるようにと、ここに主の再臨の日、最後の審判の日に関する たとえを語ってくださったのです。

まず、一人の目の人が現われて16節でこう言いました。「ご主人さま。あなたの1ミナで、10ミナをもうけまし た。」 この人は何と10倍の利益をあげました。彼は主人から誉められます。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほん の 小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」 2人目の人は1ミナから5ミナをもうけまし た。 彼も500%の増収という素晴らしい成果を残しました。14節に、その国民たちは彼を憎み、反対活動・拒絶活動 を展 開していたとあります。主のしもべたちが置かれている環境は、必ずしも快適なものとは限りません。むしろ多くの 困難や、信仰者への逆風が吹く中で、働かなければならない。しかしそういう中で忠実に働く者には主が報いをくだ さる。そのやがての報いについて、ここにはいくつかの真理が示されています。三つのこ とに注目したいと思います。

まず一つ目は、主のために忠実に働いた者への報いは、釣り合わないほどに大きいということです。主人から託され た 1ミナは、欄外の注に「約100日分の労賃に相当する額」とあります。しかし、忠実に働いた人に与えられたの は、新しく 打ち立てられた御国における10の町々でした。これは比較にならないほどの報いです。17節で主人が「あなたは ほんの 小さな事にも忠実だったから」と言っていますように、私たちがこの世で与えられているものは、「ほんの小さな 事」 にしか過ぎません。また一人目の人も二人目の人も、自分が持っていた1ミナについて「あなたの1ミナ」と言って います。つまり今、私たちが手にしているものは実は私たちのものではなく、主のものです。私たちは「他の人の もの」を一時的に管理している管理者に過ぎません。私たちはそれらを、将来の莫大な祝福を受けるにふさわしいか どうかを試すテストケースとして今、一時的にあずかっているのです。そのお預かりしている小さなものを忠実に 用いるなら、その人には将来、とてつもない祝福がもたらされることになるのです。

二つ目の点は、やがての日に私たちが受ける報いは、一人一人みな異なるということです。一人目の人は10ミナを もうけて、主人から「10の町を支配する者になりなさい。」と言われました。二人目の人は5ミナをもうけて、 「5つの町を治めなさい。」と言われました。やがて天国に入った人たちの間には、より多くの誉れを受ける人とそ うでない人とがいるのです。そのことはたとえば1コリント3章10節から15節にも記されています。そこでは イエス・キリストという土台の上に私たちがどのように自分の家を立てるべきか、それぞれが注意しなければ ならないと言われています。ある人は金、銀、宝石で、ある人は木、草、わらなどでそれぞれの家を建てますが、 主の再臨の日の燃やし尽くす火によって、金、銀、宝石で建てた家は残り、木、草、わらで作った家は焼けてなく なってしまいます。そのように私たちの地上での働きはやがての日に調べられ、評価される。それによってそれぞれ が御国で受ける報いは違ってくる、と聖書は 教えています。

では、その日に私たちが受ける報いとはどのようなものでしょうか。三つ目に私たちが学ぶのは、それは「さらなる 奉仕」であるということです。一人目の良いしもべは、ただご褒美をもらったのではなく、10の町を支配する者に なりなさい、と言われました。地上でよく働いたしもべには、天国でもっと多くの仕事が待っている!そう聞くと、 ある人は「え~!天国に行ってもまだ働かされるの?」と困惑するかもしれません。天国に行ったら一日中、ふか ふかのソファーに寝そべって、見たいだけテレビを見て、贅沢三昧をして過ごせると思ったのに!と。しかし、 良く考えて見れば、永遠にそのような生活をすることは恐ろしいことです。やることが何もなく、ただ自分の 楽しみのためにだけ永遠に時間を用いることは虚しいことです。私たちを満たす本当の喜びは何でしょうか。ウェス ト ミンスター小教理問答問1「人の主な目的は何ですか。」 答「人の主な目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶ ことである。」 私たちの喜び楽しみは神の栄光を現わす歩みと関係します。私たちは罪を犯し、自分中心に生きる ように なったので、この本当の喜びを見失いました。しかし救われるとは、人間本来のあり方に立ち戻って行くことです。 自分 中心から神中心の生き方に回復させられることです。私たちは救われて、この世にある時から神の栄光のために自分 をささ げるところに、真の喜びと満足を再発見するように導かれます。そして天国では完全にそうです。しかも天国では疲 れる ことがありません。私たちはもはや死とは無縁の強い体、栄光の体を頂きます。聖書を見るとその体はもはや食事す る ことも不要、睡眠さえも不要。それらがなければ支えられない弱い体ではなくなっているのです。そういう疲労困憊 を 知らない体を頂いて、ただ自分のためにだけ永遠の時間を費やすとは何と虚しく、またつまらない生活でしょうか。 その反対に神のための働きをさせて頂けるなら、それは何という幸いでしょうか。ですから天でさらに主のための大 きな 働きが与えられることは、何にも勝る特権であり、祝福なのです。その人は永遠に主のために働き、そこにおいて尽 きる ことのない非常な喜びを永遠に味わう人になるのです。

さて、今日のたとえ話にはもう一人の人が出て来ます。20節以降の3人目の人です。彼は1ミナを風呂敷に包んで しまっておき、少しも主のために活用しませんでした。彼は「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろ しゅう ございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですか ら。」と 語ります。随分とひどい言葉です。こんな言葉はすぐイエス様は否定なさるだろうと思って続きを読みますと、それ が 見つかりません。むしろ一見同意しているような言葉さえ出て来ます。しかし言うまでもなく、この3人目の人の非 難は 正しくありません。神やイエス様を否定しようとする人は、言いたい放題のことを言います。自分のことを反省せ ず、 他者を批判して言い訳をしようとします。このたとえの主人はそんな彼とは張り合っていません。主人がここで言っ て いることは、「私はあなたの言葉によって、あなたをさばこう。」ということです。そして言います。もし私があな たが 言う通りの者だとするなら、なぜ私の金を銀行にあずけておかなかったのか!そうしておけば、あなたは何のリスク も 負わずに、少しはお金を増やすことができた。それさえもしなかったということは、あなたの怠惰さを証明するもの で あり、さらには私への愛のなさ、反抗心を物語っている、と。そのため、この人は持っていた1ミナさえも取り上げ られ、 10ミナを持っていた人に与えられます。この3人目の人には何の祝福も与えられない。

そして、やがての再臨の日には、27節にあるように敵に対する処罰も行なわれます。一見厳しい言葉ですが、これ は 聖書全体がはっきり語っていることです。イエス様は私たちのために十字架へ進み、身代わりの死を遂げて下さる 恵み深い王ですが、この方をいつまでも拒み、退けるなら、ついにあわれみが閉ざされる日が来る。そして自分が選 択した 呪いを自分自身の上に招かなければならなくなる日が来る。ある人は3人目のしもべはどうなったのか。天国には入 れた のか、それとも敵と一緒に滅ぼされたのか、と問います。27節を見ると「殺してしまえ!」と言われたのは「この 敵ども」 だけのように見えます。しかしマタイの福音書25章の「タラントのたとえ」を参照すると、このミナのたとえとか なりの 点で似ており、3人目の人はほぼ同じ発言をして、最後に外の暗やみに追い出されて歯ぎしりします。これは救いの 外に 置かれるということでしょう。また先に見ましたように、この人は主人への愛もないし、主人にひどい言葉を発した 人で す。表面的にはしもべのグループに入っていても、本当の意味ではそうでない人であったことを、その言動は暴露し たと 私たちは見るべきではないでしょうか。

私たちは自分を振り返ってどうでしょうか。私たちはまず自分は3番目の人に似ていることはないかと探られます。 主に 与えられているものを主のために用いていない。その人は最後に持っていたものまでも取り上げられ、相応しいさば きを 受けます。14節や27節に出て来たイエス様に敵対する人たちのようにならないのはもちろんのこと、この3番目 の人の ようにもならないように、私たちも自分に与えられている様々な賜物やチャンスを主のために積極的に用いる人でな くては! と思わされます。

そして、私たちは単に3番目の人のようにだけはならないように、という消極的なことだけを今日の箇所から学べば 良い のではありません。先に見たように、私たちは天国に行った人たちの間にも報いの違いがあることを見ました。そし て, そこで大きな働きを与えられることこそ、私たちに永遠の喜びをもたらすことであることを見ました。最後に考えた い ことは、このやがての天国における祝福の生活は、私たちの今の地上における生活と有機的な関連があることについ てです。 もし私たちが天国に行って大きな働きを与えられても、地上でそのように歩む喜びを知っていなければ、天国に行っ た からと言って突然そのような歩みができるわけではないし、またその喜びを味わえるわけでもない、ということで す。 楽器を弾く人は、練習を重ねて上手に弾けるようになればなるほど、その楽器を奏でる楽しみ、そうでない人には味 わえ ない、自由に弾ける喜びを体験します。同じように、この世において主と主の御国のために自分を捧げて生きる人こ そ、 主のために働くとはどういうことかをその実践を通して知り、またそこに伴う喜びがどんなに素晴らしいかを味わい 知り、 やがての祝福に向かって少しずつ準備する人 となるのです。

私たちはともすると、自分は天国に入れさえすれば、この世では主のためであっても苦労したくない。むしろ最小限 の 奉仕で許してもらって何とか天国に入れて頂きたいと思うかもしれません。しかし、そのようにして地上の人生を 終わってしまうことは、本当は祝福ではないのです。主のために今ここで働くことは、将来の天の御国での喜び溢れ る 生活に向けて私自身を整えることなのです。

私たちの王は必ず帰って来ます。そして一人一人に報告を求める日が来ます。私たちも託されている1ミナを積極的 に 活用するしもべでありたい。私たちの言葉、行ない、祈り、時間、奉仕、ささげもの・・・その他、主のために用い る ことのできる多くの機会が私たちには与えられています。それらが小さいものであっても、いや小さいことにおいて こそ、 主に忠実であり、帰って来る王に喜ばれるように、積極的に、また喜びをもって仕えるしもべの歩みを、今週も導か れ たいと思います。