ルカの福音書 19:28-40

ろばの子の上に

イエス様がいよいよエルサレムへ上られる時のお話です。イエス様はここ で一つの行動を取られます。それはご自分を「王」として示すことです。イエス 様はこれまで決して人々の前にそのようにご自分を現わしたことはありませんでした。人々がイエス様のみわざ を見て王に祭り上げようとした時も、それを退け て群衆から離れて行かれました。しかしエルサレムを目前にして、ついにご自身の時が来たことを知られ、イエ ス様はこのことを行なわれたのです。

まず最初に行なわれたのは、ろばの子の調達です。イエス様は二人の弟子を使いに出して言われました。 30~31節:「向こうの村に行きなさい。そこに入 ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来 なさい。もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人 があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」 使いに出された二人は行ってみると、イエス様が 言われた通りに事が展開するのを見ます。ろばの 子をほどいていると、持ち主がやって来て「なぜそんなことをするのか」と問うて来ます。そこで弟子たちはイ エス様に言われた通りに話しますと、彼らはスン ナリ許可してくれます。そして二人はイエス様のもとに帰って来ました。まるで何事もなかったかのように淡々 と書かれていますが、読む私たちは戸惑わずにい られないでしょう。どうしてこんなにスムーズに事が進むだろうか。なぜろばの子の持ち主は、簡単にOKを出 しただろうか、・・。とてもミステリアスな雰囲 気がする箇所です。


ここでまず私たちが心に留めたいのは、「主がお入用なのです」という言葉です。33節の「持ち主」という言 葉には印がついていて、欄外を見ると、直訳では 「主人たち」と示されています。ギリシャ語で「主」と「主人たち」は同じ言葉で、その違いは単数形か、複数 形かだけです。つまりこのろばの子の持ち主たち は、弟子たちから「このろばの子を、このろばの子の主人がお入用なのです。」と言われたわけです。一体何を 言っているのか。ろばの子の主人は、私たちでは ないのか。この私たちを越えて何かを主張できる者がいるのか。そのように反発することもできたでしょう。こ こに改めて、私たちが今、手にしている色々なも のは本当は私のものではなく、主のものであるという真理が示されています。この世界にあるすべてのものは、 主が造られたものであり、究極的に言えばみな主 のものです。私たちは主の御心に従って、「これは私のもの」と言えるものを主から託され、お預かりしていま す。しかしそれらは究極的には主のものであるこ とを覚えて、もし「主がお入用である」と言われるなら、その持ち物を、また私たち自身を、喜んで差し出す者 でなくてはならないと教えられます。


幸いなことに、この主人たちは快く、ろばの子を差し出したようです。私たちにとってはここが一番、謎に思え るところです。なぜ彼らはスンナリろばの子を差 し出したのでしょうか。ある人は、これはイエス様が前もってアレンジしておられたからだろう、と言います。 「ろばの子が必要なので、後から人を遣わすの で、準備しておいてください」と事前にイエス様が頼んでいた。そして遣わされる人が本当に主からの人かどう かを知るためのパスワードとして「主がお入用な のです」という言葉があったのだ、と。そのようにここを注解する学者たちもいます。あるいはこの主人たちは 主を信じる人たち、少なくともイエス様に好意を 持つ人たちだった可能性もあります。イエス様はこのベテパゲやベタニヤに以前に来られたことがあり、彼らは すでに主を知っていた。あらかじめイエス様から 予約を受けていたわけではないが、「主がお入用なのです」と説明された時、喜んで差し出す心の用意を持って いる人たちだった。あるいは主がそのようにこの 時、彼らの心に働きかけて導かれた。詳しいことは書いていないので何とも分かりません。しかし彼らがその意 志に反して、無理矢理ろばを提供させられたので ないことは確かでしょう。大切なことはイエス様は事前予約していたのであれ、そうでないのであれ、この後の 出来事のために、ご自身自らがろばの子を用意さ れたということ、そしてろばの子の主人たちはその主の御心に従ったということです。この彼らの応答を通し て、この後、大切な出来事とメッセージが示されて 行きます。「主がお入用なのです」という御声に聞いて、これに服従してささげる人のわざは、そのように神の 栄光のために用いられ、祝福されることになるの です。


さて、こうして用意されたろばの子に乗って、イエス様はいよいよエルサレムへの道を進まれます。弟子たちは みな歓喜の声を上げます。人々はロバの子の上 に自分たちの上着を敷き、道にも自分たちの上着を敷きます。さて何と言ってもこの行進の特徴は、イエス様が ろばの子の上に乗っておられたことでしょう。ど うして神によって立てられた王が首都エルサレムに入るという出来事なら、もっと派手にやらなかったのか。天 から火の馬車に乗って下って来たり、輝かしい白 馬に乗って現れたりしなかったのか。ゼカリヤ書9章9節:「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。 喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに 来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」  イエス様はこの旧約の預言をここで成就してお られたのです。これは単にその預言に合わせてパフォーマンスをしたということではありません。ここにはイエ ス様がどんな王であるかが示されています。すな わちイエス様は柔和な王であり、へりくだった王であるということです。普通、王は自分の力強さを見せつけ、 人々を圧倒して登場するでしょう。しかし、イエス様はロバの子の上に乗ることを良しとされる王です。「すべ て、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。・・わたしは心優しく、へりく だっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎ が来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたし の荷は軽いからです。」 こんな方がどうやって王として私たちを治めることができるのでしょうか。王はやは り力と富と圧倒的な武力を持ってこそ、治めるこ とができるのではないでしょうか。しかしイエス様の方法は違います。イエス様が私たちを治める方法は、私た ち、その民の身代わりとして、尊いご自身のいの ちを十字架上で投げ出す、という方法によるのです。私たちが様々な苦しみや悲惨の中であえぎ、本当の幸せに 生きることができないのは、その根本に罪という問題があるからです。これが解決されない限り、いくら一時的 で表面的な祝福を味わっても、私たちは本当の神の祝福に生きることはできません。そんな私たち を救い出すために、何と王である方が、その国民の身代わりとなってその尊いいのちを全く投げ出してくださ る。王である方がご自分のいのちという尊い代価を払ってくださるなら、それは無数に多くの人々を罪の束縛と のろいとから解放し、救い出すことができます。そうしてこそ、この方は私たちに真の平和、すなわ ち「神との平和」をもたらし、また神との平和に基づくあらゆる祝福をもって私たちを治め、導いてくださるこ とができるのです。そのようなまことの王が、つ いに贖いの舞台エルサレムへと進んでくださったというのが今日の箇所なのです。イエス様はご自身がそのよう な王であることを、こうしてろばの子に乗ること によって示されたのです。


弟子たちの群れはこのイエス様を見て、大声で神を賛美します。38節の「祝福あれ。主の御名によって来られ る王に。」という言葉は、メシヤを指す詩篇と して知られていた詩篇118篇の言葉です。また「天には平和。栄光は、いと高き所に。」という言葉は、クリ スマスの夜の天使たちの賛美を思い起こさせるものです。これを聞いて、パリサイ人の中のある者たちが、イエ ス様に向かって「先生。お弟子たちをしかってください」と言います。しかしイエス様は最後40 節で「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」と答えて、人々の賛美を 受け入れておられることを示されます。まことの王がろばの子に乗ってついにエルサレムに入ろうとするこの 時、その姿を見て賛美することはふさわしいことなのです。どんな理由であれ、この賛美を黙らせようとするこ とは、霊の目が開かれていない証拠なのです。石ころでさえ叫ばすにいられないような素晴らしい出来事が、こ の時、人々の前にはあったのです。


私たちは今日の箇所から、どのように自分の歩みが導かれるべきでしょうか。私たちはここを読み、イエス様は かつてエルサレムに入る時にこのような行進を されたということを歴史的に覚えていれば良いのではありません。これまでもたびたび見て来ましたように、イ エス様の内には戦いがありました。ともすればここから目をそむけたくなる誘惑、横道にそれたくなる誘惑と戦 いながら、前へ、前へ、と進んで来られました。その方がついに、それらの誘惑を一切断ち切っ て、ご自身の尊い命を投げ出すために、エルサレムに入るところまで来てくださった。私たちの王がついにこの 舞台まで来てくださったということにこそ、私た ちその民の救いはあるのです。これからイエス様にはエルサレムにおける最後の壮絶な一週間の戦いが待ってい ますが、イエス様はその戦いを通して、私たちの救いを勝ち取ってくださいます。私たちはそのまことの王の姿 を見て、地面にひれ伏して感謝し、この王に賛美をささげる者でなくてはなりません。


また、私たちはイエス様がこのエルサレムで最後までみわざを成し遂げ、復活し、父なる神の右に上げられてい ることを知っています。そして今や天地一切を支 配するまことの王としての働きをしてくださっています。マタイ28章18節:「わたしには天においても、地 においても、いっさいの権威が与えられていま す。」 地上にあって、私たちにはまだまだ困難や戦いがあります。しかし、イエス様は一切の権威を神によっ て与えられている王として、すべてが私たちの救い と益につながるように、そして神の栄光に至るように支配し、導いてくださっています。私たちはそのまことの 王を仰ぐがゆえに、困難のただ中にあっても、賛美をささげることをやめないのです。この王に対して、今日も 全世界で賛美がささげ続けられています。


そして、最後にもう一つ言わなければならないことは、やがての主の再臨の日に、主は勝利の内に現れるという ことです。人々は今日の箇所で「祝福あれ。主の 御名によって来られる王に。」と賛美しましたが、まさにその言葉を、主が再び来られる日にすべての人がイエ ス様に対して言う、と13章35節で言われてい ました。ピリピ2章11節にも、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白すると言われています。 これはすべての人がクリスチャンになるという意 味ではありませんが、すべての人はこのイエス・キリストこそまことの王であることをはっきり認めるようにな る、あるいは認めざるを得なくなる、ということ です。誰の目にも疑いえないようにして、この方こそがまことの王であることがはっきり示され、永遠にこの王 にすべての誉れと賛美が帰されるようになるのです。


そのかの日の賛美を先取りするのが今日の箇所です。イエス様はご自身の尊い命を投げ出し、私たちを救ってく ださる恵み深い王として、ろばの子に乗ってエ ルサレムへと進んでくださいました。その王を見て、シオンの民である私たちも、心からの感謝と愛を告白し て、今日の箇所の賛美に加わりたいと思います。ま たこの王に心から感謝する私たちは、主がお入用と言われるなら、どんなものでも喜んで差し出したいと思いま す。主はそれを用いて御国を広げてくださいます。そして私たちは今日もこの世界を治めているまことの王が、 やがてはっきりとその栄光を現わして再び来られる日を喜び見つめて、この王に益々大きな賛美 をささげる歩みへ進みたいと思います。