ルカの福音書 19:41-48

都のために泣いて

エルサレムに向かって旅を続けて来たイエス様は、ついにエルサレムの都を前にして、その都のために泣 かれたと今日の箇所に出てきます。エルサレムにイエス 様が特別な思いを抱いておられたことは、すでに13章34節35節に示されていました。「ああ、エルサレ ム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わさ れた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めよう としたことか。それなのに、あなたがたはそれを 好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。云々」 エルサレムは、イスラエルの 中心的な町です。そこは単に地理的・政治的な意 味での首都と言うよりは、信仰の都であり、神のご臨在を象徴する町です。またそこから全世界への祝福が溢れ 流れ出るべき聖なる町です。ところがそのエルサ レム、またエルサレムに代表されるイスラエルは、歴史の中で繰り返し、神が遣わした預言者を受け入れず、こ れに聞こうとしませんでした。それどころか、彼 らを殺し、石で打ち、その血を流して来ました。そしてついに神の最終的な恵みの現われである御子が遣わされ ました。御子はめんどりがひなを翼の下にかばう ように、最高のやさしさと慎重な配慮をもって幾たびも集めようとしました。しかし彼らはそれに応えない。そ んな彼らには厳しいさばきとひどい荒廃が待って いる、とイエス様は旅の途中で語っておられました。

 その愛する都が視界に飛び込んで来た時、イエス様は溢れる思いをとどめることができず、悲しみの涙をボロ ボロと落とされたのです。当のエルサレムに住む 人々は、自分たちのことをそのように嘆き悲しんでいたかというと、決してそうでない。45節に出てきますよ うに、人々は宮で忙しく生活していました。商売 人はお金をジャラジャラとならし、繁盛しています。誰も自分に問題があるとは思っていません。むしろ自分た ちは宮に出入りする信仰に厚い人間と自負し、神 の祝福を豊かに味わっている、それの何が悪いか、と思っている。そんな自分のために誰かが泣いているとはつ ゆだに思わない。そこに、エルサレムの人々の罪 があるのです。

41節の「泣いた」という言葉は、強い言葉のようです。なぜイエス様はそのように泣かれたのでしょうか。 42節でイエス様は「おまえも、もし、この日のう ちに、平和のことを知っていたのなら。」と言っています。この平和とは「神との平和」のことです。イエス様 はまさにこの平和をもたらすために、地に来られ ました。前回のろばの子に乗られたイエス様の姿は、平和をもたらす王であることを象徴していました。また弟 子たちはイエス様を見て「天には平和」と賛美し ました。罪のため、神と敵対関係にあり、本当の祝福を失っていた私たちのところに、神がイエス様を遣わして 平和の道を開いてくださった。それが44節の 「神の訪れの時」という言葉の意味です。ところが彼らは、その神の訪れを拒否した。その結果、この祝福は彼 らの目から隠されている、と42節後半にありま す。差し出されている恵みを拒否し続けると、やがて知りたいと思っても、もう知ることができない状態になる のです。そのような悲惨に自分で自分を追いやっ てしまうのです。

そんな彼らには大変なさばきが待っていることが、43~44節で語られます。「やがておまえの敵が、おまえ に対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻 め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積ま れたままでは残されない日が、やって来る。」  これは紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落において現実に成就します。またこれは将来の最後の審判を 指し示すものでもあります。イエス様は、この彼 らが刈り取らならなければならない将来の報いを思って、都のために激しく泣かれたのです。私たちはこれを単 にエルサレムの人たちにだけ当てはまる話と見る ことはできません。私たちが思うべきは、もしかしてこの私を見て、同じようにイエス様が泣いていることはな いだろうか、ということです。イエス様が涙を流 しておられるのに、私たちがケロッとしていて、なぜイエス様はそんなに泣いているのか、私にはさっぱり分か らないなどと言うなら、私たちもエルサレムの人 たちと同じ罪を犯していることになるのです。

次に見るのは、宮に入られたイエス様です。45節に、イエス様は宮で「商売人たちを追い出し始め」とありま す。これはイエス様が悪霊どもを「追い出した」 という時に使われているのと同じ言葉です。他の福音書を参照すると、イエス様は両替人の台をひっくり返した り、はとを売る者たちの腰掛けを倒したり、宮を 通り抜けて器具を運ぼうとする人たちを体を張って阻止されたことが分かります。私たちがイエス様に対して 持っているイメージが、大きく覆されるような激し いイエス様の姿です。そして46節でこう言われました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と 書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強 盗の巣にした。」 言うまでもなく宮は神に祈り、礼拝をささげる特別な場、神聖な場です。ところがその根本 的に大事なことが、全くおろそかにされていた。 イエス様にはそこは強盗の巣に見えた。確かに、いけにえの動物を売ることは旧約聖書で認められていました。 遠くの国からやって来る巡礼者たちがわざわざ自 分の国から家畜を携えて来なくても良いように、宮の近くまで来て、お金と換えることは認められていました (申命記14章)。そのために両替人も必要だった でしょう。そういう人々がいたことまでイエス様は否定されたわけではありません。しかし彼らの関心の中心は 金儲けにあった。一見神のために働いているよう で、多くの人々が集まり、これほどにぎわい繁盛している場所はない、これぞ神の祝福だ!と言いたくなる状況 がそこにあった。しかしイエス様の目で見ると、 そこには真実な祈りがない。「祈りの家」からはかけ離れた姿があったのです。イエス様はそのためにいわゆる 宮清めをされたのです。これは決して一時の感情 の爆発によるものではありません。これはイエス様の悲しみから出た行為です。エルサレムを見て泣かれたイエ ス様が、その現実を目の前にして深く嘆かれ、行 なわれたことです。

私たちはこれも自分に当てはめて考える必要があると思います。私たちも今、会堂に来て、礼拝をささげていま す。決められた式順に従って、秩序正しく礼拝を ささげています。そして人間の目で見ればにぎわっている、あるいは栄えている、これは神の祝福だ!と評価し たくなる状況があるかもしれません。しかしイエ ス様から見ると、祈りがないと言われる状況になっていることはないでしょうか。ここは祈りの家でなければな らないのに、そうではないことが中心になってい る。その姿を見て、イエス様が憤り、また悲しまれるということはないでしょうか。私たちもまた自分たちのあ り方を振り返り、イエス様はどう見ておられるか と考え、点検する必要があるのではないでしょうか。

そしてここにはもう一つ、イエス様がエルサレムでなされたことが記されています。それは47節にある通り、 「毎日、宮で教えておられた」ということです。 イエス様は彼らのあり方を批判されただけでなく、彼らの建徳のために熱心に仕えられたことがここに示されて います。イエス様の周りにはイエス様を殺そうと する祭司長、律法学者、民のおもだった者たちが取り巻いていました。民衆がみな熱心にイエス様の話に耳を傾 けていたため、すぐに手をかけることができませ んでしたが、イエス様は危険な状態にありました。そんな中でも、エルサレムのために心を砕いてその祝福のた めに熱心に仕えられたイエス様の姿がここにあり ます。

私たちは今日の箇所にこれまで見なかったようなイエス様を見ます。激しく泣いたかと思うと、次には宮に入っ て商売人を追い出し、激しく行動されるイエス 様。まるでなりふり構わず行動しておられるような姿です。そして引き続いて毎日、宮で教えられた。そこに一 貫していることは何でしょう。それはエルサレム の人々に対するイエス様の激しい愛であり、またそのままでは失われようとしている人々に対するイエス様の激 しい愛でしょう。もしイエス様がエルサレムを愛 していなければ、その町がやがて滅びることを見て取っても、特別な感情は抱かなかったでしょう。また宮の堕 落した状況を見ても、さばきを宣言するだけで十 分だったでしょう。しかしイエス様はエルサレムを愛しておられたので、その都を見て泣かれたのです。彼らに 正しいあり方に立ち返ってほしいから、宮の中で 激しい行動にも出たのです。そして彼らの救いを心にかけておられたので、毎日宮で教え続けたのです。このイ エス様はどこまで進んで行くでしょう。それは十 字架上での身代わりの死です。人々の救いを強く願い、そのために非常な熱心を持ってくださった方として、つ いには十字架にまで進まれたのです。そしてその 十字架上でも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(23章 34節)ととりなさされました。「わが神、わが 神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばずにいられない非常な苦しみの中にありながらも、 エルサレムの人々のために、また私たちすべての ために心砕き、ご自身をささげ尽くしてくださったのです。イエス様はそうして私たちが平和の祝福に生きるこ とができるように、ご自身を投げ出してくださっ たのです。

この事実の前に私たちはどうしたら良いでしょうか。私たちは今日の箇所のイエス様の涙を見て、自分を振り返 りたいと思います。エルサレムを見てそうされた ように、イエス様が私を見て涙していることはないだろうか。私にもまた、イエス様が涙を流さずにいない大き な罪の現実があるのではないか、と。私たちは自 分にもイエス様を十字架に追いやった罪があることを告白して、イエス様の十字架による救いを心から感謝して 受け取り、神との平和の祝福に生かされる者であ りたいと思います。そして真心から神に祈り、礼拝する生活へと一層導かれたい。

と同時に私たちは、イエス様が私のために泣いてくださったことを知り、感謝するなら、私たちもまた、他の人 のために泣く者へと導かれるはずでしょう。私た ちの救いを考えてみても、その背後には、イエス様に導かれて私のために陰で涙し、その救いのために心砕いて くれた信仰の先輩たち、また導き手がいたのでは ないでしょうか。救われても救われなくてもどっちでも良いという態度ではなく、私の救いを心にかけ、祈り、 時にはうめき、涙し、そして忍耐をもって御言葉 を伝え続けてくれた人。そのとりなしを頂いて、私たちも救いをいただきました。私たちはそのことをも思っ て、自分自身もそうありたいと願わされます。私た ちの周りにも多くの方々がいます。その方々はイエス様を信じることなしには救いがありません。滅びに至るこ とを私たちは聖書に従って知っています。そのこ とを思い、私たちはイエス様を映し出す者へ導かれたいのです。その方々を心にかけ、涙をもって祈り、御言葉 を伝え続けて、一人でも多くの魂がこの主の救い にあずかることができるように、そしてやがて共に神の恵みをほめたたえ、神に栄光を帰すことができるよう に。イエス様に感謝し、イエス様と同じ心で共に働 く救いの民の歩みへ導かれたいと思います。