ルカの福音書 20:1-18

見捨てた石、礎の石

エルサレムに入られたイエス様は、まず「宮きよめ」をされました。ここは祈りの家でなければならないのに、あなたがたは強盗の巣にしたと言って、商売人たちを追い出されました。 そしてその宮でイエス様は毎日教えておられました。これは宮を仕切っていた祭司長たちからすれば、黙って見ていられない姿です。自分たちこそ民を教えるエルサレムの指導者たちなのに、突然宮に入って来て、やりたい放題にやっている人がいる。 そして多くの群衆が彼に引きつけられている。祭司長、律法学者、長老たちは、これ以上、彼をのさばらせておくわけにはいかないと考え、相集ってイエス様に挑戦したのが今日の箇所です。彼らはイエス様に言います。 「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」

彼らが言いたいのは、誰から許可を取ってこんなことをしているのか、ということです。宮を治めている我々は、あなたにそんな許可を与えた覚えはない。ならばなぜ勝手にこんなことをしているのか。もし万が一、「神からの権威によって」などと答えたならしめたもの。 神への冒とく罪で訴えよう、と彼らは計画していたのでしょう。

それに対してイエス様は答えられました。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか。人から出たのですか。」  彼らはこの質問によって、思わぬジレンマに陥ります。もし「天から」と答えれば、ではなぜヨハネを信じなかったのか、と責められることになります。 またヨハネはイエスこそ来たるべきメシヤであると宣べ伝えていましたから、イエス様は何の権威によってこのことをしているのか、自ずとその答えは明らかになります。 これはまずい。一方、「人から」と言えばどうなるでしょう。民衆はみなヨハネを神からの預言者と信じ、彼からバプテスマを受けていましたから、彼らからどんなことをされるか分かりません。

このジレンマに陥って、彼らは「どこからか知りません。」と答えます。都合が悪いこと、認めたくないことについては「知らない」という言葉でとぼけようとした。 そんな彼らにイエス様は言われました。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」 実に厳しい答えです。 祭司長たちは、人々の前でイエス様を責め立て、自分たちの権威を誇示しようと大挙してやって来たのに、これでは面目丸つぶれ。 何かを言ってくれれば、幾らでも揚げ足取りができるのに、その言葉の一つさえ言わせてもらえないまま、退散しなくてはならない。 私たちはここに、イエス様の驚くべき知恵を改めて見ます。これ以上、効果的な撃退方法は他にあるだろうかと思われるような仕方で、見事に彼らを追い返してしまわれました。 と同時にここに見るのは、神の都エルサレムの実態です。イエス様は前回、エルサレムが見て激しく涙を流されました。そのようにさせたエルサレム、 またその指導者たちの実態がここに示されています。イエス様はここで決して、彼らの質問をはぐらかそうとしたわけではありません。 答えはすでにこのやり取りの中に明白に示されています。祭司長、律法学者、長老たちが教えていた民衆だって、すぐに答えを言えます。 そんな真理に目をつぶり、知らないと言い、それを受け入れようとしない人たちに何かを語っても、何の実りがあるでしょうか。 むしろイエス様はご自身から答えを語らないことによって、彼らが自分自身で答えを出すように仕向けられたのです。

さて、このようなエルサレムの実態に接して、イエス様は9節からのたとえを語られました。ぶどう園は旧約聖書でイスラエルの象徴として何度も使われて来ましたので、 ユダヤ人にはすぐ、そのことが分かったでしょう。とするとその世話や管理をする農夫たちは誰でしょうか。イスラエルの指導者たちを指します。 そして農夫たちにぶどう園を貸す主人は神様、そして主人が遣わすしもべは、神が歴史の中で繰り返し遣わした預言者たちを指します。 イエス様はすでに13章34節でエルサレムについて、こう語っていました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。」  イスラエルの歴史は、民の指導者たちが繰り返し、神が遣わすしもべたち、預言者たちを拒絶して来た歴史でもありました。このたとえでも、一人のしもべが遣わされると、 農夫たちは彼を袋だたきにし、何も持たせないで送り返します。神がさらに別のしもべを遣わすと、彼らはそのしもべも同じように袋だたきにし、さらにはずかしめた上で、 何も持たせないで送り返した。さらに神が3人目のしもべを遣わすと、またしても彼らは、このしもべにも傷を負わせ、追い出した。この繰り返しの連続です。 そうして最後に神はご自身の愛する御子を送ります。これは言うまでもなくイエス様のことです。この息子なら、さすがに彼らも敬ってくれるだろうと思い、 送り出す。ところがぶどう園の農夫たちはこう言います。「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」 

これは農夫たちが好き勝手に、したい放題に振る舞っている話のように見えます。人間たちの方が、より力を持っていて、神が弱々しく見えます。 しかしそれは大きな勘違いであることが、この後に示されて行きます。まず言われている一つ目のことは、ぶどう園の主人はこのままで終わりにしないということです。 15節後半からイエス様はこう言っています。「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、 ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」 農夫たちは繰り返し主人に反抗しましたが、そのたびに大した罰は主人から返って来ません。主人は遠くにいて、 力を発揮できないのだろう。あるいはその力がないのではないか。だから似たようなしもべたちを繰り返し送って来るだけで、それ以上のことは何もして来ない。 今や我々の方が力がある。そう思ったのでしょう。しかしそれは大変な勘違いです。主人は力がないから何もしなかったのではなく、「忍耐」していただけなのです。 自分のしもべが辱められても、すぐにふさわしいさばきを与えず、むしろ次のしもべを送り続けたのは、神の恐るべき忍耐と寛容の現れなのです。しかし愛する息子は、 神が送ることのできる最終カードです。この方を退けるなら、もはや神は他に送る人を持っていません。もうこれ以上、あわれみの余地はないのです。 神は必ずやって来て、その農夫たちを滅ぼし、ふさわしいさばきを彼らの上に実行されるのです。

私たちも同じです。私たちは神の恵みに応答しなくても、すぐには罰されません。少々神の御心に反する生活をしても、案外うまく行きます。すると私たちは思うのです。 このように生活しても大丈夫ではないか。神に従う必要などないのではないか。そうして神を見くびり、恵みにあぐらをかき、 したい放題の生活をエスカレートさせていくのです。しかし神は侮られるお方ではありません。そんな歩みを続けるなら、どこにもないと思われた神の御手が突然、 自分の生活に力をもって介入し、大変なショックを受けることになります。そして後悔しても後悔し切れない、神の怒りとさばきを身に招くことになってしまうのです。

彼らの勘違いの二つ目は、彼らの見捨てた石が礎の石となることです。この石はイエス様を指しています。彼らエルサレムの指導者たちは、 イエス様を役に立たない石同然に脇に捨てました。しかしそれが何と、本当の神の家の礎となったのです。この礎の石とは、 土台として建物全体を支える「礎石」を指しているのかもしれませんし、あるいは建物の上部にあって建物を完成させる「隅のかしら石」を指しているのかもしれません。 どちらにしても、その石はなくてはならない、最も大切な石です。つまりイエス様はイスラエルの指導者たちによって捨てられ、殺されますが、 それで終わりにはならない。それを経て、何と人々を贖い、永遠のいのちを与える神の救いの家の礎の石となるのです。神は人間の全く思いもしないような方法で、 人間が見捨てた石を用いて、ご自身の計画を成し遂げられるのです。

イエス様はこれをどんな気持ちで語っておられたでしょうか。イエス様がここで語っているのは、父なる神の愛がずっと拒否されて来た話です。 何度も何度もしもべたちを遣わしたのに、それに反抗し続けて来たイスラエルの歴史、神の忍耐の歴史です。そしてイエス様はその頂点として、 ご自身が殺される話をされました。それはもう数日後のことです。民衆は16節で「そんなことがあってはなりません。」と言いましたが、 イエス様は17節で「彼らを見つめて言われた。」とあります。ここにはイエス様の深い思いが現れていると思います。イエス様は旧約聖書を引用しながら、 ご自分はこれから見捨てられた石とならなければならないこと、しかしそのことを経て礎の石となることをもう一度確認しておられます。 人々は、そんなことがあってはなりません!とある意味で軽い言葉を発していますが、イエス様はそんな彼らのために、捨てられた石となるのです。 ひどい不当な仕打ちをも甘んじて受けられるのです。しかしそのことを経て、必ず人々に救いをもたらす礎の石となる。そのゴールを見据えて、 十字架への道から逃げずに、深い思いをもって最後の受難へと進もうとしておられるイエス様の姿がここにあるのではないでしょうか。

そしてイエス様は礎の石となるだけではなく、受け入れない者にとってはつまずきの岩、滅びの岩となることが最後の18節で言われています。 「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」  「石の上に落ちれば」というのは、人々からイエス様にぶつかって行く場合のことでしょう。その人はイエス様を打ち壊すことができるどころから、 自分自身が粉々に砕け、滅びることになる。また後半の「この石が人の上に落ちれば」というのは、イエス様の方からその人にぶつかって行く場合のことでしょう。 私たちの方からイエス様に向かわなくても、イエス様の方から私たちに迫って来られる。そしてその人もまた、粉みじんに飛び散らされてしまう。 それは私たちがこの世にある時から始まるかもしれません。色々な点で私たちの生活が壊され、私たち自身が壊れて行く。 しかし究極的にこれは最後のさばきの日に成就します。

私たちは今日の御言葉に照らしてどうでしょうか。神は多くの預言者を遣わして、私たちに語りかけてくださいました。そしてついにこの終わりの時代には御子を遣わし、 御子によって語ってくださいました。この方こそ、神が送りたもう最後のメッセンジャーです。その御子はご自身をへりくだらせ、私たちの傲慢さの前で、 弱い者のように歩み、十字架の死にまで下られ、その犠牲をもって私たちのための救いの岩となってくださいました。このようにしてまで備えられた神の救いを退けるなら、 あと私たちには何が残っていると言うべきでしょうか。ヘブル書2章3節:「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、 どうしてのがれることができましょう。」 たとえの中の農夫たちが、しばらく高ぶって生活できたように、私たちもなお高ぶって生活することはできるかもしれません。 しかし神が遣わしてくださったこの最後のしもべ、愛する御子を退けるなら、もはや救いの余地はありません。使徒の働き4章11~12節: 「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによって救いはありません。 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」 神が立てたこの唯一の救いの岩を拒絶するなら、私たちはしばらくの間、 自分を保つことができても、必ず18節で語られたさばきを受けなければならなくなります。しかしこの方を受け入れるなら、イエス様は私たち一人一人の救いの岩となってくださいます。 その十字架と復活をもって、私たちの罪を赦し、神との平和、永遠のいのちに生かしてくださいます。この救いの祝福に、 私たちはこの主イエスという礎の石に私たちの人生が築き上げられることによって、導かれて行きたいと思います。