ペテロの手紙第一 1:1-2
散って寄留している、選ばれた人々
今日からペテロの手紙第一を開きたいと思います。この手紙の差出人使徒ペテロは、あの12弟子の筆頭者ペ
テロのことです。彼のもともとの名前はシモンある
いはシメオンでしたが、兄弟アンデレに連れられてイエス様に会った時に、この「岩」という意味のケパ、ギリシャ
語でペテロという名前を頂きました。彼はガ
リラヤ湖の北側の町ベツサイダ出身の漁師でしたが、イエス様の一番弟子として召され、大きな働きをします。その
情熱的でユーモラス、人間味溢れる人柄のゆ
えに、聖書に登場する人物の中でも最も多くの人々が親しみを覚える一人であるに違いありません。
その彼がポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに住む信者たちに書き送ったのがこの手紙です。これら の町々は黒海の南、小アジアの北側に位置す る町々です。地図を見て不思議に思うことは、ローマの行政区分においては最初のポントと最後のビテニヤが同じ一 つの州を形成しているのに、なぜ初めと終わ りに分割されているのかということです。おそらくそれはここに記されている順にこの手紙が回覧されたから、と一 般的には考えられています。この宛てられた 人々の多くは異邦人であったようです。1章18節の「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方か ら贖い出されたのは、云々」という言葉は、 彼らが異邦人世界出身の人々であることを指し示しています。4章3~4節もそうです。彼らはかつては異邦人たち が今もしたいと思っていることをしていまし たが、今はもうそれを行なっていない。そのため、周りの人々は自分たちと一緒に度を越した放蕩に走らないの不思 議に思い、悪口を言う、とあります。これも 読者の多くが異邦人世界から救われた人々であることを指し示しているでしょう。
では、なぜペテロは彼らにこの手紙を書いたのでしょうか。その執筆目的は何でしょうか。この手紙を見て行く時に 分かることは、彼らは色々な苦難に直面してい たということです。特にキリスト教信仰のゆえに迫害を受けたり、嫌がらせをされたり、様々な苦境の中に置かれて いた。少し先取りして見てみますと、1章6 節後半に「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の 試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金 よりも尊く、云々」とあります。2章12節には「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と勧められ て、「彼らは、何かのことであなたがたを悪人 呼ばわりしていても」とあります。3章に入っても14節に「義のために苦しむ」とか、16節に「キリストにある あなたがたの正しい生き方をののしる人た ち」といった表現があります。4章3~4節には、先ほど触れたように、人々が一緒に度を越した放蕩に走らないの を見て、悪口を言うとありました。そして5 章でも「苦難」とか、「苦しみ」という言葉がキーワードとなって出て来ます。こんな彼らの現実を直視しつつも、 信仰に堅く立ち、キリストの足跡に従って善 を行ない続けるようにと励ましているのがこの手紙です。そしてその中心的メッセージは、すでに手紙の冒頭1~2 節の挨拶にも現われています。今夕はここか ら大きく二つのことを見て行きたいと思います。
まず第一に見たいことは、彼らが現在あずかっている霊的特権についてです。一言でそれは「選ばれた人々」と言わ れています。この言葉は本来、旧約のイスラ エルを指して使われる言葉です。それが異邦人主体のこの手紙の読者たちに対して使われています。彼らはただ自分 の意志で信仰を告白し、たまたまキリスト教 会に連なっている者ではない。彼らは旧約のイスラエルと同様、神に選ばれ、この特別な祝福へ召された者たちなの です。
この素晴らしい特権は、どのようにして自分たちのところに来たのかが2節に記されます。まずそれは「父なる神の 予知に従い」。「予知」とは、神があらかじ め私たちがどんな人間であるのか、福音にどう応答する者かを知っていた、という意味ではありません。もしそうで あるなら、救いは神の恵みではなくなり、私 たちの功績になってしまいます。神はただ私たちが将来どうするかを予見しただけとなります。しかしこの「予知」 はそういう意味ではなく、神がすべてに先だ ち、私たちを知って下さったという意味です。単に情報をキャッチしたという意味で知ったのではなく、積極的に私 たちを知って下さった。永遠の昔から私たち を先に愛して下さった。私たちはこれを自分に当てはめる時、驚かずにいられるでしょうか。この手紙の読者たちと 同様、私たちも異邦人です。旧約のイスラエ ルの民とは関係ないような者です。ところがこの私も実は、この手紙の読者たちと同様、永遠の昔より、聖なる神に 知られていた者。私が生まれるよりはるか前 から、神の愛を注がれて来た者である。そのことを思う時、私たちは何と自分を改めてとらえ直さなくてはならない ことでしょうか。私たちは神様の前に何という存在なのでしょうか。その父なる神の予知は、次に御霊の聖めによっ て現実化されます。父なる神がご計画すれば、あとは自動的に事が進むのではありません。そのためには聖霊なる 神の働きが必要です。この聖霊が実際に働いて下さって、私たちを聖め分かたって下さったので、私たちは神へと聖 別され、神のもの、神の民とされた。そして、さらにイエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受け るように、とあります。これは出エジプト記24章との関係があるので参照したいと 思います(特に3~8節)。そこではイスラエルの民が主の律法を受け入れた後、モーセが民の上にいけにえの血を 注ぎかけたことが出てきます。モーセはそこ で血の半分を祭壇に注ぎかけ、もう半分は鉢に入れて、主の契約の書を大声で民に読んで聞かせました。そして7節 にあるように、彼らが「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」と服従の誓約をした後、モーセは「見 よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血であ る。」と言って民に注ぎかけました。ここでまず民の服従の告白があって、それから血が注がれたという点で、Ⅰペ テロ1章2節の順番とピッタリ一致するで しょう。従ってペテロが言いたいことは、この手紙の読者たちは、旧約の神の民イスラエルと同じようにしてこの新 約時代に神の民とされた者たちであるという ことです。彼らの多くは異邦人でしたが、父なる神の一方的な愛を受け、御霊の聖めにあずかって、キリストに従 い、その血の注ぎかけをもって正式な契約関係 に入れられた民なのです。父、子、聖霊の三位一体の神の豊かな働きに守られ、祝されている、栄えある選ばれた国 民なのです。
しかしです。このような素晴らしい霊的特権にあずかっている自分たちがなぜ、現実の世の中で多くの苦難に直面す るのでしょうか。ペテロは読者たちのその現 実にも目を向けています。そしてその現実が、実は今見て来た霊的特権と全く一つに結び付いていることを示して行 きます。そのことをもう一つのポイントとし て見て行きたいと思います。ペテロは小アジアのクリスチャンたちを「散って寄留している人々」と1節で語ってい ました。原文で先に来ているのは「寄留している人々」という言葉です。 寄留者とは何でしょうか。それは自分の国ではないところで、一時的に生活している人々のことでしょう。自分の故 郷ではないところで、ある期間だけ仮住まい している人々のことでしょう。果たしてこの手紙の受け取り人たちはそんな人たちだったでしょうか。彼らは外国生 活をしている人たちだったでしょうか。そう ではありません!彼らはずっと前からポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤ地方に住んでいる住民で す。なのに寄留者とはどういうことでしょう? これは「彼らの真の国籍はここにあるのではない!」というペテロのメッセージを示すものです。彼らは先に見たよ うに、神の民とされた者たちであり、天に国 籍を持っている天国人です。ですから寄留者として今ここで生活している者です!もし私たちがこのアイデンティ ティーをしっかり持つなら、地上で受ける様々 な苦難は説明がつきます。外国で生活することは何かと不便が伴います。まず言葉が違います。コミュニケーション すること自体が難しい。また言葉だけでな く、物の考え方も違う。発想の仕方が全然違う。価値観も違うし、生活習慣も違うし、文化も違う。そんな中、外国 人としてのアイデンティティーを持って生活 しようとすると、周りの人々から奇異な目で見られることもあるでしょうし、からかわれたり、馬鹿にされたり、嫌 がらせをされることもあるでしょう。しかし それは当然のことではないでしょうか。それはかえって自分がその国の者ではないこと、他の国の者であることを証 明するものではないでしょうか。
もう一方の「散って」という言葉も同じです。これは通常、パレスチナ以外の地に移り住んだ離散のユダヤ人・ディ アスポラを指す言葉です。ユダヤ人はバビロ ン捕囚によって異邦の地へとらえ移されましたが、彼らはその地でもユダヤ人としての自覚を忘れることなく、再び 自分の故郷に帰ることを待ち望んで生活しま した。その彼らの姿に、この手紙の読者たちが重ね合わされています。彼らは繰り返して申し上げていますように、 その多くは異邦人であり、離散したユダヤ人 ではありません。生まれた土地に前から住んでいる者たちです。しかし霊的に見るなら、世界のあちこちに散らされ ている神の民である。彼らは周りの人々と自 分を同じに見てはならないのです。自分は彼らと違う国籍を持って、人々の中に散らされて生活している神の民であ る。大切なのはこのアイデンティティーを しっかり持つことでしょう。そうする時に、周りの人々と自分が違っていても何ら戸惑わなくて良い。むしろ違って いるということは、自分について素晴らしい 恵みの事実を示しています。すなわち私は神の恵みを受けた選ばれた民であるということです。天に国籍を持つこの 世における外国人であるということです。で あるなら、自分の国ではないこの世界で一時的に様々な患難があってもそれは普通のこと。それは外国人として生活 することから来る当然の帰結なのです。ペテ ロはこの素晴らしい事実を指し示しながら、神の民としてどのように立派に歩んで行くべきかをこれから語って行き ます。ここは外国の地だからと言っていい加 減に歩んではなりません。旅の恥は掻き捨てと言って適当な歩みをしてはなりません。むしろこの仮住まいにおいて も、私たちの故郷を証しするような立派な生 活をして行くべきです。そのあるべきライフスタイルについて、ペテロはクリスチャンに与えられている大いなる望 みと共に語って行くのです。
そのメッセージを始めるにあたって、ペテロは「どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされます ように。」と祈ります。彼らに必要なのは単 なるアドバイスではありません。上からの恵みが必要です。またその結果としての平安も必要です。ペテロはこれら があなたがたの上にますます豊かにされます ようにと祈って、これからのメッセージを語って行きます。この恵みと平安が豊かに加えられることによって、彼ら が現在遭遇している困難に力強く打ち勝って 行けることを祈っているのです。
私たちは果たして自分をどうとらえているでしょうか。私たちもキリストに従う信仰のゆえに、社会の中で色々な難 しさを覚えるかもしれません。様々な意味で の生活しにくさを感じるかもしれません。しかし今夕、改めて覚えたいのは、私たちは「散って」「寄留している」 「選ばれた人々」であるということです。周 りの人々と違う者とされているのは不幸なこと、残念なことではなく、大いなる恵みを頂いている証拠であり、結果 です。この世の者でなく、旧約のイスラエル と同じ栄光ある神の民とされているからです。このことを心から感謝し、新しい光のもとで自分自身をとらえ、その 生活を考えて行きたいと思います。そして続 くペテロの言葉に教えられながら、神の民として今ここで立派な証しをなし、やがてペテロが語るように、私たちを 「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に 招いてくださった方のすばらしいみわざを・・宣べ伝える」(2章9節)歩みへ進みたいと思います。
その彼がポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに住む信者たちに書き送ったのがこの手紙です。これら の町々は黒海の南、小アジアの北側に位置す る町々です。地図を見て不思議に思うことは、ローマの行政区分においては最初のポントと最後のビテニヤが同じ一 つの州を形成しているのに、なぜ初めと終わ りに分割されているのかということです。おそらくそれはここに記されている順にこの手紙が回覧されたから、と一 般的には考えられています。この宛てられた 人々の多くは異邦人であったようです。1章18節の「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方か ら贖い出されたのは、云々」という言葉は、 彼らが異邦人世界出身の人々であることを指し示しています。4章3~4節もそうです。彼らはかつては異邦人たち が今もしたいと思っていることをしていまし たが、今はもうそれを行なっていない。そのため、周りの人々は自分たちと一緒に度を越した放蕩に走らないの不思 議に思い、悪口を言う、とあります。これも 読者の多くが異邦人世界から救われた人々であることを指し示しているでしょう。
では、なぜペテロは彼らにこの手紙を書いたのでしょうか。その執筆目的は何でしょうか。この手紙を見て行く時に 分かることは、彼らは色々な苦難に直面してい たということです。特にキリスト教信仰のゆえに迫害を受けたり、嫌がらせをされたり、様々な苦境の中に置かれて いた。少し先取りして見てみますと、1章6 節後半に「いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の 試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金 よりも尊く、云々」とあります。2章12節には「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」と勧められ て、「彼らは、何かのことであなたがたを悪人 呼ばわりしていても」とあります。3章に入っても14節に「義のために苦しむ」とか、16節に「キリストにある あなたがたの正しい生き方をののしる人た ち」といった表現があります。4章3~4節には、先ほど触れたように、人々が一緒に度を越した放蕩に走らないの を見て、悪口を言うとありました。そして5 章でも「苦難」とか、「苦しみ」という言葉がキーワードとなって出て来ます。こんな彼らの現実を直視しつつも、 信仰に堅く立ち、キリストの足跡に従って善 を行ない続けるようにと励ましているのがこの手紙です。そしてその中心的メッセージは、すでに手紙の冒頭1~2 節の挨拶にも現われています。今夕はここか ら大きく二つのことを見て行きたいと思います。
まず第一に見たいことは、彼らが現在あずかっている霊的特権についてです。一言でそれは「選ばれた人々」と言わ れています。この言葉は本来、旧約のイスラ エルを指して使われる言葉です。それが異邦人主体のこの手紙の読者たちに対して使われています。彼らはただ自分 の意志で信仰を告白し、たまたまキリスト教 会に連なっている者ではない。彼らは旧約のイスラエルと同様、神に選ばれ、この特別な祝福へ召された者たちなの です。
この素晴らしい特権は、どのようにして自分たちのところに来たのかが2節に記されます。まずそれは「父なる神の 予知に従い」。「予知」とは、神があらかじ め私たちがどんな人間であるのか、福音にどう応答する者かを知っていた、という意味ではありません。もしそうで あるなら、救いは神の恵みではなくなり、私 たちの功績になってしまいます。神はただ私たちが将来どうするかを予見しただけとなります。しかしこの「予知」 はそういう意味ではなく、神がすべてに先だ ち、私たちを知って下さったという意味です。単に情報をキャッチしたという意味で知ったのではなく、積極的に私 たちを知って下さった。永遠の昔から私たち を先に愛して下さった。私たちはこれを自分に当てはめる時、驚かずにいられるでしょうか。この手紙の読者たちと 同様、私たちも異邦人です。旧約のイスラエ ルの民とは関係ないような者です。ところがこの私も実は、この手紙の読者たちと同様、永遠の昔より、聖なる神に 知られていた者。私が生まれるよりはるか前 から、神の愛を注がれて来た者である。そのことを思う時、私たちは何と自分を改めてとらえ直さなくてはならない ことでしょうか。私たちは神様の前に何という存在なのでしょうか。その父なる神の予知は、次に御霊の聖めによっ て現実化されます。父なる神がご計画すれば、あとは自動的に事が進むのではありません。そのためには聖霊なる 神の働きが必要です。この聖霊が実際に働いて下さって、私たちを聖め分かたって下さったので、私たちは神へと聖 別され、神のもの、神の民とされた。そして、さらにイエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受け るように、とあります。これは出エジプト記24章との関係があるので参照したいと 思います(特に3~8節)。そこではイスラエルの民が主の律法を受け入れた後、モーセが民の上にいけにえの血を 注ぎかけたことが出てきます。モーセはそこ で血の半分を祭壇に注ぎかけ、もう半分は鉢に入れて、主の契約の書を大声で民に読んで聞かせました。そして7節 にあるように、彼らが「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」と服従の誓約をした後、モーセは「見 よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血であ る。」と言って民に注ぎかけました。ここでまず民の服従の告白があって、それから血が注がれたという点で、Ⅰペ テロ1章2節の順番とピッタリ一致するで しょう。従ってペテロが言いたいことは、この手紙の読者たちは、旧約の神の民イスラエルと同じようにしてこの新 約時代に神の民とされた者たちであるという ことです。彼らの多くは異邦人でしたが、父なる神の一方的な愛を受け、御霊の聖めにあずかって、キリストに従 い、その血の注ぎかけをもって正式な契約関係 に入れられた民なのです。父、子、聖霊の三位一体の神の豊かな働きに守られ、祝されている、栄えある選ばれた国 民なのです。
しかしです。このような素晴らしい霊的特権にあずかっている自分たちがなぜ、現実の世の中で多くの苦難に直面す るのでしょうか。ペテロは読者たちのその現 実にも目を向けています。そしてその現実が、実は今見て来た霊的特権と全く一つに結び付いていることを示して行 きます。そのことをもう一つのポイントとし て見て行きたいと思います。ペテロは小アジアのクリスチャンたちを「散って寄留している人々」と1節で語ってい ました。原文で先に来ているのは「寄留している人々」という言葉です。 寄留者とは何でしょうか。それは自分の国ではないところで、一時的に生活している人々のことでしょう。自分の故 郷ではないところで、ある期間だけ仮住まい している人々のことでしょう。果たしてこの手紙の受け取り人たちはそんな人たちだったでしょうか。彼らは外国生 活をしている人たちだったでしょうか。そう ではありません!彼らはずっと前からポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤ地方に住んでいる住民で す。なのに寄留者とはどういうことでしょう? これは「彼らの真の国籍はここにあるのではない!」というペテロのメッセージを示すものです。彼らは先に見たよ うに、神の民とされた者たちであり、天に国 籍を持っている天国人です。ですから寄留者として今ここで生活している者です!もし私たちがこのアイデンティ ティーをしっかり持つなら、地上で受ける様々 な苦難は説明がつきます。外国で生活することは何かと不便が伴います。まず言葉が違います。コミュニケーション すること自体が難しい。また言葉だけでな く、物の考え方も違う。発想の仕方が全然違う。価値観も違うし、生活習慣も違うし、文化も違う。そんな中、外国 人としてのアイデンティティーを持って生活 しようとすると、周りの人々から奇異な目で見られることもあるでしょうし、からかわれたり、馬鹿にされたり、嫌 がらせをされることもあるでしょう。しかし それは当然のことではないでしょうか。それはかえって自分がその国の者ではないこと、他の国の者であることを証 明するものではないでしょうか。
もう一方の「散って」という言葉も同じです。これは通常、パレスチナ以外の地に移り住んだ離散のユダヤ人・ディ アスポラを指す言葉です。ユダヤ人はバビロ ン捕囚によって異邦の地へとらえ移されましたが、彼らはその地でもユダヤ人としての自覚を忘れることなく、再び 自分の故郷に帰ることを待ち望んで生活しま した。その彼らの姿に、この手紙の読者たちが重ね合わされています。彼らは繰り返して申し上げていますように、 その多くは異邦人であり、離散したユダヤ人 ではありません。生まれた土地に前から住んでいる者たちです。しかし霊的に見るなら、世界のあちこちに散らされ ている神の民である。彼らは周りの人々と自 分を同じに見てはならないのです。自分は彼らと違う国籍を持って、人々の中に散らされて生活している神の民であ る。大切なのはこのアイデンティティーを しっかり持つことでしょう。そうする時に、周りの人々と自分が違っていても何ら戸惑わなくて良い。むしろ違って いるということは、自分について素晴らしい 恵みの事実を示しています。すなわち私は神の恵みを受けた選ばれた民であるということです。天に国籍を持つこの 世における外国人であるということです。で あるなら、自分の国ではないこの世界で一時的に様々な患難があってもそれは普通のこと。それは外国人として生活 することから来る当然の帰結なのです。ペテ ロはこの素晴らしい事実を指し示しながら、神の民としてどのように立派に歩んで行くべきかをこれから語って行き ます。ここは外国の地だからと言っていい加 減に歩んではなりません。旅の恥は掻き捨てと言って適当な歩みをしてはなりません。むしろこの仮住まいにおいて も、私たちの故郷を証しするような立派な生 活をして行くべきです。そのあるべきライフスタイルについて、ペテロはクリスチャンに与えられている大いなる望 みと共に語って行くのです。
そのメッセージを始めるにあたって、ペテロは「どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされます ように。」と祈ります。彼らに必要なのは単 なるアドバイスではありません。上からの恵みが必要です。またその結果としての平安も必要です。ペテロはこれら があなたがたの上にますます豊かにされます ようにと祈って、これからのメッセージを語って行きます。この恵みと平安が豊かに加えられることによって、彼ら が現在遭遇している困難に力強く打ち勝って 行けることを祈っているのです。
私たちは果たして自分をどうとらえているでしょうか。私たちもキリストに従う信仰のゆえに、社会の中で色々な難 しさを覚えるかもしれません。様々な意味で の生活しにくさを感じるかもしれません。しかし今夕、改めて覚えたいのは、私たちは「散って」「寄留している」 「選ばれた人々」であるということです。周 りの人々と違う者とされているのは不幸なこと、残念なことではなく、大いなる恵みを頂いている証拠であり、結果 です。この世の者でなく、旧約のイスラエル と同じ栄光ある神の民とされているからです。このことを心から感謝し、新しい光のもとで自分自身をとらえ、その 生活を考えて行きたいと思います。そして続 くペテロの言葉に教えられながら、神の民として今ここで立派な証しをなし、やがてペテロが語るように、私たちを 「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に 招いてくださった方のすばらしいみわざを・・宣べ伝える」(2章9節)歩みへ進みたいと思います。