ペテロの手紙第一 1:3-5
神の御力によって守られて
1~2節で手紙の読者への挨拶を記したペテロは、今日の3節から本論へ入って行きます。まず彼が最初に記
しているのは「私たちの主イエス・キリストの父な
る神がほめたたえられますように!」という賛美です。前回見ましたように、この手紙の宛先である小アジアのクリ
スチャンたちは、キリスト教信仰を持って生
きるがゆえの苦難を経験していました。周りの社会から迫害されたり、嫌がらせをされる中にありました。そんな彼
らを思いつつ書いた手紙の最初に、神への賛
美が来ています。これは果たして適切でしょうか。これは彼らの苦境を全然理解していない配慮に欠けた始め方では
ないでしょうか。しかし前回の1~2節に、
すでに彼らに対する素晴らしいメッセージが語られていました。彼らが周りの人々から悪口を言われたり、不当な仕
打ちを受けていたのはなぜだったでしょう。
それは彼らが「散って寄留している、選ばれた」神の民だからでした。彼らの真の国籍は天にあります。従って彼ら
は一時的にこの世で生活している外国人のよ
うな存在。外国の地で生活することには何かと不便が伴います。言葉も違いますし、ものの考え方も違いますし、生
活習慣も違います。そんな中で周りの人々か
ら「あっ、この人は外国人だ!」と奇異な目で見られることもあるでしょうし、からかわれたり、よそ者扱いやさら
には外国人排斥運動の憂き目に会うこともあ
るでしょう。しかしそのことは一つのことを示しています。それは彼らはこの世の国に属する者ではなく、この世で
はない国、すなわち天国人であるということ
です。彼らが受ける色々な不当な扱いは、彼らがあずかっている素晴らしい霊的事実を逆に示している。そのことを
思うペテロは、本文に入ってもまず神を賛美
せずにいられないのです。そして続けてクリスチャンがあずかっている素晴らしい特権について語って行きます。私
たちは前回に引き続き、彼の言葉を通して、
自分をどのように見るべきなのか、自分が立つべきアイデンティティーについて教えられるのです。
まず、ペテロがここで言っていることは、私たちは神によって「新しく生まれた者」であるということです。これは 信仰を持った時に私たちの内に生じた根本的な 霊的状態の変化を指す言葉です。信仰を持つ以前の私たちは、エペソ書2章1~2節にありますように「自分の罪過 と罪との中に死んでいた者」であり、「それ らの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に 従って、歩んで」いました。しかし神はご自身 の大きな憐れみによって、私たちをキリストにあって霊的に生かし、私たちにいのちを与えて下さいました。それは 神による新しい誕生です。
私たちはともすると、日々の生活の中で、この事実を忘れているかもしれません。肉の目で見るなら、信仰に生きて いる人もそうでない人も、何も違っていな いように見える。そしてただ自分の生活が苦しいということにばかり思いが行きがちかもしれません。しかしペテロ は、クリスチャンは神によって新しいいのち を頂いて歩んでいる者であるという事実を見つめています。クリスチャンは神の特別な祝福にあずかっている者たち なのです。
この神による新しい霊的誕生は、二つの目標とつながっていることが以下に語られています。その一つ目は「生ける 望み」です。世の中で「望み」という言葉 は、実現するかどうかは分からない単なる願望を指しても使われます。アマゾンコムなどのネットショッピングの ページでは「ウィッシュリスト」というものが ありますが、あれは自分がこれを欲しいなあ~という希望するリストであり、それを他の人にも知らせて誰かがこれ を買ってくれないかな~と望んでいるリスト です。そこに希望する商品を登録したからと言ってそれがいつか自分のものになるという保証は全くありません。う まくその希望がかなえられる場合もあるかも しれませんが、なかなかそううまくはいかないでしょう。しかし聖書が言う望みは、必ず将来実現する望みです。私 たちは信仰を持った時、この生ける希望が分 かったはずです。自分にはとてつもない未来が開けた。自分の人生は死で終わるものではなく、栄光の御国で、神と 共に永遠に生きるものになった、と。これは 私たちの勝手な願望ではなく、確固たる根拠に基づくものです。その根拠とはイエス・キリストの復活です。私たち の罪のために十字架で死なれたイエス様がよ みがえったのですから、そのイエス様により頼む私たちもそのように死からよみがえることができる!イエス様に よって罪の清算が全部なされた者として、また 完全な義を頂いた者として、聖なる神の前に出て行くことができ、天の御国で永遠の命に生きることができる!私た ち神によって新しく生まれた者の先には、確 かにこのような輝かしい望みがあるのです。
神による新しい誕生が約束している二つ目のことは、4節にありますように、天の資産を受け継ぐことです。神に よって誕生させられたということは、神の子 どもとされたということであり、私たちが神の相続人ともされていることを意味します。その私たちが受け継ぐ資産 がここでは「朽ちることも汚れることも、消 えていくこともない資産」と表現されています。地上の宝は皆、この反対です。立派な車も傷つき、新築の家も次第 に古びて、ひびが入って行きます。私が今ま で一番自分がお金をつぎ込んで買ったものは、大学時代の中型バイクでした。ホンダのNSRというレースにも使え るバイクでしたが、ある時、学校から帰って 来たところ、アパートの前に転んだ状態になっていて、ミラーや外側のカウルが割れ、傷ついていました。私は非常 なショックを受けて、周りの人々に相当聞き 込み捜査をしましたが、その時、地上の宝は傷つき、消えて行くのだという頭では分かっていたことを痛く実感しま した。しかしクリスチャンが受け継ぐ資産 は、天にたくわえられているものなので、そういう地上的な要素とは無関係。いつまで経っても朽ちたり、汚れた り、消えたりすることがありません。その資産 とは一体どんなものであるのか、私たちは具体的に知りたいと思いますが、詳しくはここに書いてありません。い や、天上の宝は地上の言葉では限界があり過ぎ て、到底適切には表現できないのでしょう。ですからここでも「朽ちず、汚れず、消えず」と否定語を三つ重ねるこ とで、精一杯対処しているのでしょう。1コ リント2章9節にもこうあります。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い 浮かんだことのないもの。神を愛する者のた めに、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 ある人はこれでは結局良く分からないではないか、と言 うかもしれません。しかし少し想像してみれ ば分かりますが、神の持てるものを全てを相続することは恐ろしいことです。他の箇所で「私たちは神の相続人であ り、キリストとの共同相続人であります。」 と言われています。神の一人子であるキリストが相続する資産を、私たちはキリストにあってキリストと共に相続す るのです。これは何と恐ろしい、またもった いないお話でしょうか。私たちは従ってかの日に必ず、「確かにこれは私たちが見たこともないものであり、また聞 いたことのないものであり、考えてみたこと もないもの、いやとても考えられないものであった!」と叫ぶことでしょう。そのような資産を神は私たちに受け継 がせるべく、天でしっかり守っていて下さる のです。
最後に、5節に記されているもう一つのことに注目したいと思います。先にも触れましたように、この手紙のクリス チャンたちは、様々な苦難の中にありまし た。キリスト教信仰を持つがゆえの迫害や不当な扱いを受けていました。そんな彼らにペテロは彼らが新しく生まれ た者であること、また素晴らしい将来が備え られていることを語って来ました。しかしいくら将来が素晴らしくても、困難の中にある彼らは、将来の祝福にたど りつけるのでしょうか。その前に倒れてし まって、絵にかいた餅になってしまうことはないのでしょうか。それに対してペテロは5節で言っています。天の資 産が守られているだけではなく、それにあず かるあなたがたも神の御力によって守られている、と。この「守る」という言葉は軍事的用語で、「外から押し寄せ てくる攻撃あるいは危険から誰かを保護す る」という意味を持ちます。この言葉が暗示するように、クリスチャンを取り巻く環境はある意味で危険です。表面 的に見れば様々な攻撃がクリスチャンに向 かってなされます。あわよくばその心をくじき、信仰の道から引き離そうとするサタンの働きがあります。しかしそ のような悪の力の懸命な努力にもかかわら ず、クリスチャンは大丈夫。なぜなら偉大な御力をもって守っていて下さる神がおられるからです。しかもこの言葉 には絶えず、継続して守り続けている、とい うニュアンスがあります。神は一時も私たちから目を離さず、全能の御手で守り続けて下さっている。その御力に守 られて、私たちは終わりの時に現わされる最 終的な救いに必ず到達することができるのです。
と同時に、この神の守りは「信仰を通して」と言われていることにも注目したいと思います。神の約束は自動的に成 就するのではありません。信仰を通して、私 たちはこの祝福を受け取るのです。ですからペテロはその信仰に生きるように勧めているわけです。私たちは神がこ のように守って下さるという祝福を、この方 に信頼する信仰の生活を通して自分のものとして受け取って行くのです。
果たして、私たちは自分をどのようにとらえているでしょうか。私たちもキリスト教信仰に生きるがゆえに、苦しい こと、つらいことがあるかもしれません。そ れは一つの現実です。しかし私たちはそのことにばかり心が向くあまり、そこに埋没してしまってはならない。この ペテロの言葉に導かれて、もっと大切な霊的 現実をしっかり見るべきです。その霊的現実とは、私たちは神によって新しく誕生させられた者であるということ。 また私たちの行く先には素晴らしい将来が備 えられていること。そしてその最後の救いに必ずあずかるように、神の御力によって日々守られている者。そのこと を思って、私たちもどんな困難の中でも、ま ずペテロのように、私たちをこの祝福へ導いて下さった父なる神を賛美する者へ導かれたいと思います。そして日 常、様々な形を通して押し寄せて来る出来事に 慌てたり、狼狽するのではなく、悪の力は指一本私たちに触れられないのだ、と自らに言い聞かせ、心を強くして天 のふるさとに向かう私たちの信仰の歩みを続 けて行きたいと思います。
まず、ペテロがここで言っていることは、私たちは神によって「新しく生まれた者」であるということです。これは 信仰を持った時に私たちの内に生じた根本的な 霊的状態の変化を指す言葉です。信仰を持つ以前の私たちは、エペソ書2章1~2節にありますように「自分の罪過 と罪との中に死んでいた者」であり、「それ らの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に 従って、歩んで」いました。しかし神はご自身 の大きな憐れみによって、私たちをキリストにあって霊的に生かし、私たちにいのちを与えて下さいました。それは 神による新しい誕生です。
私たちはともすると、日々の生活の中で、この事実を忘れているかもしれません。肉の目で見るなら、信仰に生きて いる人もそうでない人も、何も違っていな いように見える。そしてただ自分の生活が苦しいということにばかり思いが行きがちかもしれません。しかしペテロ は、クリスチャンは神によって新しいいのち を頂いて歩んでいる者であるという事実を見つめています。クリスチャンは神の特別な祝福にあずかっている者たち なのです。
この神による新しい霊的誕生は、二つの目標とつながっていることが以下に語られています。その一つ目は「生ける 望み」です。世の中で「望み」という言葉 は、実現するかどうかは分からない単なる願望を指しても使われます。アマゾンコムなどのネットショッピングの ページでは「ウィッシュリスト」というものが ありますが、あれは自分がこれを欲しいなあ~という希望するリストであり、それを他の人にも知らせて誰かがこれ を買ってくれないかな~と望んでいるリスト です。そこに希望する商品を登録したからと言ってそれがいつか自分のものになるという保証は全くありません。う まくその希望がかなえられる場合もあるかも しれませんが、なかなかそううまくはいかないでしょう。しかし聖書が言う望みは、必ず将来実現する望みです。私 たちは信仰を持った時、この生ける希望が分 かったはずです。自分にはとてつもない未来が開けた。自分の人生は死で終わるものではなく、栄光の御国で、神と 共に永遠に生きるものになった、と。これは 私たちの勝手な願望ではなく、確固たる根拠に基づくものです。その根拠とはイエス・キリストの復活です。私たち の罪のために十字架で死なれたイエス様がよ みがえったのですから、そのイエス様により頼む私たちもそのように死からよみがえることができる!イエス様に よって罪の清算が全部なされた者として、また 完全な義を頂いた者として、聖なる神の前に出て行くことができ、天の御国で永遠の命に生きることができる!私た ち神によって新しく生まれた者の先には、確 かにこのような輝かしい望みがあるのです。
神による新しい誕生が約束している二つ目のことは、4節にありますように、天の資産を受け継ぐことです。神に よって誕生させられたということは、神の子 どもとされたということであり、私たちが神の相続人ともされていることを意味します。その私たちが受け継ぐ資産 がここでは「朽ちることも汚れることも、消 えていくこともない資産」と表現されています。地上の宝は皆、この反対です。立派な車も傷つき、新築の家も次第 に古びて、ひびが入って行きます。私が今ま で一番自分がお金をつぎ込んで買ったものは、大学時代の中型バイクでした。ホンダのNSRというレースにも使え るバイクでしたが、ある時、学校から帰って 来たところ、アパートの前に転んだ状態になっていて、ミラーや外側のカウルが割れ、傷ついていました。私は非常 なショックを受けて、周りの人々に相当聞き 込み捜査をしましたが、その時、地上の宝は傷つき、消えて行くのだという頭では分かっていたことを痛く実感しま した。しかしクリスチャンが受け継ぐ資産 は、天にたくわえられているものなので、そういう地上的な要素とは無関係。いつまで経っても朽ちたり、汚れた り、消えたりすることがありません。その資産 とは一体どんなものであるのか、私たちは具体的に知りたいと思いますが、詳しくはここに書いてありません。い や、天上の宝は地上の言葉では限界があり過ぎ て、到底適切には表現できないのでしょう。ですからここでも「朽ちず、汚れず、消えず」と否定語を三つ重ねるこ とで、精一杯対処しているのでしょう。1コ リント2章9節にもこうあります。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い 浮かんだことのないもの。神を愛する者のた めに、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 ある人はこれでは結局良く分からないではないか、と言 うかもしれません。しかし少し想像してみれ ば分かりますが、神の持てるものを全てを相続することは恐ろしいことです。他の箇所で「私たちは神の相続人であ り、キリストとの共同相続人であります。」 と言われています。神の一人子であるキリストが相続する資産を、私たちはキリストにあってキリストと共に相続す るのです。これは何と恐ろしい、またもった いないお話でしょうか。私たちは従ってかの日に必ず、「確かにこれは私たちが見たこともないものであり、また聞 いたことのないものであり、考えてみたこと もないもの、いやとても考えられないものであった!」と叫ぶことでしょう。そのような資産を神は私たちに受け継 がせるべく、天でしっかり守っていて下さる のです。
最後に、5節に記されているもう一つのことに注目したいと思います。先にも触れましたように、この手紙のクリス チャンたちは、様々な苦難の中にありまし た。キリスト教信仰を持つがゆえの迫害や不当な扱いを受けていました。そんな彼らにペテロは彼らが新しく生まれ た者であること、また素晴らしい将来が備え られていることを語って来ました。しかしいくら将来が素晴らしくても、困難の中にある彼らは、将来の祝福にたど りつけるのでしょうか。その前に倒れてし まって、絵にかいた餅になってしまうことはないのでしょうか。それに対してペテロは5節で言っています。天の資 産が守られているだけではなく、それにあず かるあなたがたも神の御力によって守られている、と。この「守る」という言葉は軍事的用語で、「外から押し寄せ てくる攻撃あるいは危険から誰かを保護す る」という意味を持ちます。この言葉が暗示するように、クリスチャンを取り巻く環境はある意味で危険です。表面 的に見れば様々な攻撃がクリスチャンに向 かってなされます。あわよくばその心をくじき、信仰の道から引き離そうとするサタンの働きがあります。しかしそ のような悪の力の懸命な努力にもかかわら ず、クリスチャンは大丈夫。なぜなら偉大な御力をもって守っていて下さる神がおられるからです。しかもこの言葉 には絶えず、継続して守り続けている、とい うニュアンスがあります。神は一時も私たちから目を離さず、全能の御手で守り続けて下さっている。その御力に守 られて、私たちは終わりの時に現わされる最 終的な救いに必ず到達することができるのです。
と同時に、この神の守りは「信仰を通して」と言われていることにも注目したいと思います。神の約束は自動的に成 就するのではありません。信仰を通して、私 たちはこの祝福を受け取るのです。ですからペテロはその信仰に生きるように勧めているわけです。私たちは神がこ のように守って下さるという祝福を、この方 に信頼する信仰の生活を通して自分のものとして受け取って行くのです。
果たして、私たちは自分をどのようにとらえているでしょうか。私たちもキリスト教信仰に生きるがゆえに、苦しい こと、つらいことがあるかもしれません。そ れは一つの現実です。しかし私たちはそのことにばかり心が向くあまり、そこに埋没してしまってはならない。この ペテロの言葉に導かれて、もっと大切な霊的 現実をしっかり見るべきです。その霊的現実とは、私たちは神によって新しく誕生させられた者であるということ。 また私たちの行く先には素晴らしい将来が備 えられていること。そしてその最後の救いに必ずあずかるように、神の御力によって日々守られている者。そのこと を思って、私たちもどんな困難の中でも、ま ずペテロのように、私たちをこの祝福へ導いて下さった父なる神を賛美する者へ導かれたいと思います。そして日 常、様々な形を通して押し寄せて来る出来事に 慌てたり、狼狽するのではなく、悪の力は指一本私たちに触れられないのだ、と自らに言い聞かせ、心を強くして天 のふるさとに向かう私たちの信仰の歩みを続 けて行きたいと思います。