ペテロの手紙第一 1:13-16

聖なる方にならって
この手紙が宛てられた小アジアのクリスチャンたちは様々の試練の中にありました。キリスト教信仰に生きる がために、社会から迫害や嫌がらせをされていまし た。そんな彼らにペテロは彼らが素晴らしい救いにあずかっていることを3~12節で語って来ました。キリストの 復活による新しい霊的誕生、生ける望み、天 の資産を受け継ぐこと、日々神の御力で守られていること、今の苦難はやがての栄光の序曲であること、天使たちは この一大ドラマを覗き込むようにして見てい ること、などなど。これらを受けてペテロは今日の13節で「ですから、あなたがたは、心を引き締め、云々」と 語って行きます。この素晴らしい救いにあず かっている者として、どんな応答を私たちはして行くべきかについて勧めるのです。

まず、ペテロが言っていることは、やがてもたらされる素晴らしい救いをひたすら待ち望め!ということです。私た ちも将来の出来事を楽しみにして今日の日を 歩むということがあります。たとえばどこかに旅行する時。何ヶ月も前からプランをたて、その日に焦点を合わせて 過ごします。仕事やその他の用事を済ませ、 体調も整え、必要なものを準備します。あるいは結婚準備をしている二人もそうです。何月何日に結婚する、そして 新しい生活を始める、ということに照らして、それまでの日々を過ごす。その将来から逆算して今日という日を位置 づけ、必要な準備を一つ一つ重ねて行く。クリスチャンもそうあるべき!とペテロは 言っています。私たちはすでに救いの恵みの一部分を味わってはいますが、将来の救いの完成はもっともっと素晴ら しい。イエス・キリストの現われのときに神 の贖いの全計画が完成し、私たちは全くきよめられ、栄光のからだを頂きます。死も悲しみも叫びも苦しみもない、 それらが過ぎ去った新しい天と新しい地に住み、朽ちることも汚れることも消えて行くこともない天の資産を受け継 ぎ、栄光の神を直接仰ぎ見て、永遠の幸いに生きる。ここで「待ち望みなさい」と言われ ていますが、聖書における「望み」は確実に起きることを指します。

この生活のために必要な態度が、13節に二つ書かれています。一つは「心を引き締め」。これは原文では「心の腰 の帯を締め」という表現になっています。当 時の人は足首まであるような長い服を着ていたようですが、活動のためには腰の帯をしっかり締める必要がありま す。出エジプトの時も、急いでエジプトを出る ために「腰の帯を引き締めなさい」と言われていました。あるいはバアル預言者と対決したエリヤは、その後、アハ ブの乗る車の前を「腰をからげて」走って 行ったと記されていますが、おそらくそのすそをまくり上げ、腰のあたりに縛って走ったのでしょう。つまり、この 「心を引き締め」という言葉はすぐ活動できる 心の状態であるように!ということです。もう一つは「身を慎み」。これは酒に酔ってないとか、セルフコントロー ルをきちんとできている状態のことです。大事な日が来ようとしているのに、酒を飲んでグデングデンになっている 人はいません。良い状態でその日を迎えられるように、頭のはっきりした状態で当日に臨 めるように、自分を適切に管理する。このようにしてひたすら「イエス・キリストの現われのときあなたがたにもた らされる恵みを」待ち望みなさい、と言われ ています。「ひたすら」ということは、その将来を常に見つめ続けるということです。時々ではなく、このやがての 日の一点に私たちの全関心を集中する。その 素晴らしい救いの完成の日が来ることを告白し、喜び見つめるところから、私たちの毎日の生活が生気づけられ、導 かれて行くべきです。

では、やがての救いの完成の日を待ち望む生活とはもっと具体的にどういうことでしょうか。そのことが14~16 節に語られています。ここを読んで行く際 に重要な鍵は14節前半です。新改訳はそこを「従順な子どもとなり」と訳していますが、原文では「従順の子ども として」と記されています。「従順な子ども となり」という訳だと、これから従順な子どもになる!今はそうでないが!という意味になります。それに対して原 文の意味は、すでに小アジアのクリスチャン たちは従順な子どもであるということです。それともう一点、新改訳は「従順な子ども」と訳していますが、原文で は先に述べたように「従順の子ども」となります。「な」と「の」の違いですが、ニュアンスは随分違って来ます。 「従順な子ども」という方は、その子どもの振る舞いが従順であるということを示しま す。しかし、「従順の子ども」という方は、その人の本質が従順であるということを意味します。聖書にたとえば、 クリスチャンを指して「光の子」という表現が ありますが、これは単にクリスチャンが光を放つというだけでなく、クリスチャンの存在そのものが光であるという ことです。それと同じ意味で、クリスチャン は「従順」の子どもである。本当でしょうか?私はとても従順で特徴づけられる存在とは思えない、とある方は仰る ことでしょう。エペソ書2章2節を参照した いと思います。「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不 従順の子らの中に働いている霊に従って、歩 んでいました。」 この中にある「不従順の子ら」とは誰でしょうか。これは信仰を持っていない人すべてを指す表 現です。とするなら、何がそこから言えるで しょう。それはクリスチャンとは「従順の子ら」であるということです。信仰を持っていなかった時と違って、クリ スチャンは新しい霊的状態に置かれていると いうことです。1ペテロ1章3節に、新しい霊的誕生のことが言われましたが、その時に私たちは従順の子らという 新しい性質を与えられたのです。ですから福 音の言葉に対して、私たちは従順に応答することができた。もちろん私たちは従順の子らとされたと言っても、まだ 完全にそう歩めているわけではありません。 しかし、自分が今や本質的にこういう性質を頂いているのだ!というメッセージを受け入れなければ、私たちは霊的 な戦いにおいて戦う前から負けてしまいます。 ペテロはこの事実に立って、否定面と肯定面の両方から以後、勧めて行きます。

まず否定面からは14節:「従順の子どもなのですから、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従 わず」。 クリスチャンは以前とは違う存在 にされているのですから、以前と同じ生活はしないのです。以前は「無知」すなわちまことの神を知らない霊的暗闇 の中をさ迷い歩いていました。何が正しく、 何が本当に悪いのか、判断する基準を持たず、結果として様々な欲望に引きずられ、その奴隷となって生活していま した。その生活を振り返る時、一時的な楽し みや快楽はあっても、本当の意味での満たしや祝福はありませんでした。今はそれらと決別したのです。今や不従順 の子らではなく、従順の子らとして頂いたか らです。

積極的面からは15節:「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いに おいて聖なるものとされなさい。」 このような御言葉を読む時、私たちは直感的に不可能だ!と叫びたくなりま す。どうしてこの私に聖なる神に似る生活ができるだろうか、と。もちろん、私たちは地上において完全に神の聖を 映し出す者になれるわけではありません。しかし、だからと言ってこれは無茶な注文ではない。16節にありますよ うに、これは旧約聖 書で繰り返し言われて来た言葉です。そして心静めてもう一度この言葉に聞くとどうでしょうか。これは私たちを断 罪し、落胆させるための言葉ではなく、神の 大いなる招きの言葉として聞こえて来ます。神は何と聖なるご自身に似る者となるようにと私たちを本当に招いてお られる。神が聖であるとは、道徳的にきよい というだけでなく、神のあらゆる属性において卓越しているとか、完全であるという意味です。義において、真実に おいて、力において、愛において、慈しみに おいて・・。それは神のかたちに造られた人間に最初から与えられていた本来の目的でもあります。

この命令を聞く際に重要なのが、先ほどの「従順の子らとして」あるいは「従順の子どもなのですから」という言葉 でしょう。私たちは以前とは違う新しい性質 を頂いており、主に従いたいという心の衝動を持ち、またそうすることができる力のもとに置かれています。そうい う私たちがお手本とする目標は神様以下では ない。それは「あらゆる行いにおいて」とあります。教会にいる時だけとか、お祈りをする時だけでなく、生活の 隅々においてこの聖なる方を映し出す歩みを祈 り求める。カルヴァンは「聖なる香りを漂わせないような、私たちの生活の一部たりとも存在せしめぬように。」と 言っています。これは私たちに与えられてい るチャレンジであり、大いなる目標です。こういう今ここでの真剣な取り組みと、私たちが待ち望むやがての栄光の 救いは一つにつながっているのです。

私たちは、果たして目標を見据えて歩んでいるでしょうか。ついつい目の前のことだけ追いかけ、一喜一憂しては、 焦点の定まらない歩みをしがちな私たち。しかし、ペテロによれば、クリスチャンとは確実な望みの日をひたすら見 つめて歩む者です。間もなく実現する素晴らしい将来を仰ぎ見て、喜びをかきたてられなが ら、その日に備えて日々を過ごして行く者です。しかもただ待つのではなく、新しい性質を頂いている者として、そ の日に至るための取り組みをして行く人。大 いなる目標は、聖なる神にならう歩みをすることです!地上にある間、常に不完全であり続けますが、だからと言っ てこの取り組みをやめない。新しい性質を頂いている者として、私たちは少しずつではあっても日々前進できるから です。日々進歩できる者であるからです。その歩みをして行く先に、かの日の栄光と祝福 があるのです。この御言葉に従って自分を新しくとらえ直し、目標をしっかり見据えた歩みに向かいたいと思いま す。私たちは不従順の子らから、従順の子らへ と導かれました。この頂いた特性を聖なる方にならう生活にいよいよ発揮し、またそのように確かに導いて下さる神 の恵みを味わいつつ、栄光の日に向かって邁 進する望みと喜びに満ちた歩みへ進みたいと思います。