ペテロの手紙第一 2:11-12
異邦人の中にあってりっぱに
このペテロの手紙第一は大きく二つの部分に分けることができます。その第一部は前回まで見て来た2章10
節までの部分です。そこでは主にクリスチャンたち
はどんなに素晴らしい恵みの中に置かれているのか、神の民の特権について語られました。そして、今日の2章11
節から第二部が始まります。こちらでは様々な特権にあずかっている神の民はどのように歩むべきか、そのふさわし
い具体的生活について語られます。クリスチャンはただ教理を知っていれば良いのではありません。あるいは、自分
が導かれた特権や祝福を喜んでいれば良いのではありません。素晴らしい教理や特権は具体的生活に現わされなくて
はなりません。その実践についてペテロはここから語り始めるのです。
彼は「愛する者たちよ」と読者に向かって呼びかけ、もう一度、この手紙の読者たちのアイデンティティーを確認し ています。すなわち「旅人であり、寄留者 であるあなたがたは」と。ペテロがこれまで述べて来たことは、彼らクリスチャンたちは、今この世で一時的な外国 生活をしているような者であるということです。彼らの真の故郷は天にある!すなわち彼らは天国の市民である!と いうことです。このアイデンティティーをしっかり持っていることが大事です。そうして,ペテロは消極的面と積極 的面の両方から彼らへの勧めを語ります。
まず、消極的面からの勧めは11節後半:「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」 この手紙の読者た ちは周りの社会からキリスト教信仰を持って いるということで迫害されたり、嫌がらせをされる状況にありました。しかしペテロはここで、彼らがまず取り組む べき課題は内側にあるということを示してい ます。ここでの「肉の欲」とは神の御心に反する罪深い人間の欲のことです。たとえばガラテヤ書5章19節からの ところにリストされている「不品行、汚れ、 好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派真、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」といったものがそ うです。あるいは1ヨハネ2章16節の「す べての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」などもそうでしょう。こういった「肉の欲」 に自ら近づかないようにするのはもちろんのこと、それらを遠ざけなさい!とペテロは言います。なぜでしょうか。 まず、その根本的な理由は彼らが天国人だからです。外国で生活することには色々な困難が 伴うでしょう。周りの人々と言葉が違うばかりか、生活習慣やものの考え方の違いゆえに奇異な目で見られやすい。 どうして我々と同じ生活の仕方をしないの か、と不思議な目で見られ、時に異質者としていじめられるような扱いを受けることもあるでしょう。しかし、そう いう中でクリスチャンは、自分は天国人である という誇りを失ってはならないのです。天国人は天国人の基準で生きるべきであって、天国の生活とは一致しないこ の世の欲と関係するような生活を送るべきで はないのです。ここの「遠ざけなさい」という言葉は現在形で書かれています。つまりある時だけ遠ざけるのではな く、いつの瞬間も、継続的に、そうあり続けなさいということです。
ペテロはこの命令を強めるために、もう一つのことも語っています。すなわちこの肉の欲は「たましいに戦いをいど む」ものであるということです。私たちが 肉の欲を甘く見て、これくらいなら良いだろう、少し味わうだけなら大丈夫だろうと近づくなら、それは私たちのた ましいを重大な危機にさらすことになる。知 らず知らずのうちに、それは私たちの本質的部分に重大なダメージを与え、取り返しのつかない害を及ぼしかねな い。こちらの「いどむ」という言葉も現在形で す。肉の欲は心を許すなら、絶えず、私たちのたましいに戦いを仕掛け、襲いかかって来るのです。ですから、私た ちはまずこの課題と戦わなくてはなりません。
このことと共にペテロは神の民であるクリスチャンが積極的に取り組むべき課題を12節で語ります。12節前半: 「異邦人の中にあって、りっぱにふるまい なさい。」 「りっぱに」という言葉は「美しい」とか「魅力ある」という意味の言葉です。つまり、私たちの振る 舞いが周りの人々の目に美しいものであるよう に、魅力あるものとして人々を引きつけるものであるように、ということです。もちろん、私たちは人の目を気にす るあまり、外側だけをとりあえず良く見せよう とする誘惑に屈しないようにしなければなりません。どうしたら良いでしょうか。やはり美しい行動は、内側からそ の良さが出て来るような行動でしょう。そのためにやはり11節の歩みが必要です。まず自分の内で肉の欲をきっぱ り遠ざける。それらに誘き寄せられず、それらに敗北させられず、それらを遠ざけて、神を真っ直ぐに仰いで生き る。そのように私たちが内側の戦いに勝利するなら、確かに人々を引き付ける美しさ、内側から醸し出される魅力が 外側の生活にも現れ て来ることになるでしょう。
そして、ペテロはこのようなりっぱな歩みを異邦人すなわち神を知らない人々のただ中で行なう目的として、12 節後半でこう言っています。「そうすれば、彼 らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に 神をほめたたえるようになります。」 この手紙の読者たちは周りの人々から悪人呼ばわりされていた、という状況 にあったことがここから伺い知れます。なぜそんなことになっていたか、考えられること としては、たとえば彼らは互いに兄弟姉妹と呼び合っていたことから、近親相姦の罪を犯している人がいると誤解す る人たちがいたのかもしれません。あるいは 聖餐式で「これはわたしの肉です。これはわたしの血です。」と語られるのを聞いて、人食い人種だ!と悪口を言う 人たちがいたのかもしれません。あるいは 「人に従うより神に従うべきです」と告白する彼らを、ローマ皇帝への反逆だ、反体制的な危険分子だ、と非難する 人たちがいたのかもしれません。ペテロはそ ういう今は悪人呼ばわりしている人々が、やがて「神をほめたたえるようになる」日のことを望み見ています。一体 どうしてそんなことが起こり得るでしょう。 それは「あなたがたのりっぱな行いを見ることによって」だとペテロは言います。ここの「見る」と訳されている言 葉は「じっくり観察する」という意味の言葉 です。新共同訳聖書はここを「あなたがたのりっぱな行いを良く見て」と訳して、ただ見るとは違う強い意味を持つ 言葉であることを示しています。ここに示さ れていることは何でしょうか。それは周りの人々はたとえ悪口を言っていても、実はよく見ているということです。 見てない振りをして、実はクリスチャンを良 く観察している。特別な場所における一回限りの姿ではなく、毎日の平凡な生活に実は注目している。そうしたプロ セスを通して、おとずれの日に神をほめたた えるようになる、と言われています。この「おとずれの日」とはいつのことでしょうか。ある人は、それまで反対者 だった人たちが神をほめたたえるのだから、 その人たちが回心した日、すなわち神が救いの恵みをもってその人たちを訪れて下さった日のことだと理解します。 一方、ある人はこの「おとずれ」とは、神が 最後に訪れる日、すなわちキリストが再臨して最後の審判が行なわれる日のことだととります。そしてたとえその人 は信仰者になっていなくても、最終的にクリ スチャンの立場が正しかったことを認めざるを得なくさせられる、という意味としてここを理解します。しかし、一 つ参考になるのは、この後の3章1~2節で す。3章2節の「それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」とあるところの 「見る」という言葉は、今日の箇所2章12節 の「見る」と訳されていた言葉と同じ、すなわち「じっくり観察する」という意味の言葉です。そしてじっくり観察 する結果、そこで期待されていることは、3 章1節にありますように、それまでは未信者であったご主人が「神のものとされるようになること」です。ですから 今日の箇所でもペテロは周りの人々がクリス チャンの行ないを見る中で、ついには救いへと導かれて、神をほめたたえるようになる日のことを望み見ていると 言って良いのではないでしょうか。いずれにせ よ、多くの反対者たちに囲まれている中で、クリスチャンが取る態度は、そのような人々のただ中でりっぱな行いを することです。その人々に私たちの生活を見て頂くことです。そのことを通してその人がやがて神を賛美するように なるために仕えるということなのです。
その異邦人の中でのりっぱな振る舞いの具体的な中身が、このあと13節から語られて行きます。私たちは前回の 9~10節で、「選ばれた種族、王である祭 司、聖なる国民、神の所有とされた民」とされたのは、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった 神の素晴らしいみわざを「宣べ伝えるため」 というみことばを見ました。この「宣べ伝える」ということの中には、後の3章15節で見ますように、言葉による 宣教も含みます。しかし、それと同時に、この文脈から言うなら、ペテロが特に心にかけている宣教の方法とは、私 たちの「行ないをもって」ということになるのではないでしょうか。
私たちは改めて地上にある私たちの存在意義について、今日の箇所から受け止めさせられたいと思います。私たちが みことばに沿って神に従う歩みをするの は、単に自分の救いや成長や祝福のためだけではないのです。実に私たちは、まだ神を知らない人々、異邦人である 人々のただ中で、神の恵みに頂いた者はこの ような者になるのだという「標本」となるように召されています。今ののしっている人々が、やがての日に私の生活 を見て神をほめたたえずにいられなくなるよ うな、そういう歩みをして行くように召されています。この目的に生き抜くためには私たちが心すべきことは、肉の 欲をきっぱり遠ざけること。天国人の規準にかなう生活を、今ここにある時から行なって行くこと。そして内側から 醸し出されて来る真の美しさ、真の魅力を放つ者となること。そして、ペテロがこれから語 る具体的な勧めに従うことです。私たちは神から頂いた救いの感謝をこのような生活に現わして、私たちを良く見て いる周りの方々が、たとえ今は悪口を言って いても、やがてのおとずれの日に神をほめたたえることに至るような、そのような歩みができるように祈りつつ、こ の週も自分の歩みを主にささげてまいりたいと思います。
彼は「愛する者たちよ」と読者に向かって呼びかけ、もう一度、この手紙の読者たちのアイデンティティーを確認し ています。すなわち「旅人であり、寄留者 であるあなたがたは」と。ペテロがこれまで述べて来たことは、彼らクリスチャンたちは、今この世で一時的な外国 生活をしているような者であるということです。彼らの真の故郷は天にある!すなわち彼らは天国の市民である!と いうことです。このアイデンティティーをしっかり持っていることが大事です。そうして,ペテロは消極的面と積極 的面の両方から彼らへの勧めを語ります。
まず、消極的面からの勧めは11節後半:「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」 この手紙の読者た ちは周りの社会からキリスト教信仰を持って いるということで迫害されたり、嫌がらせをされる状況にありました。しかしペテロはここで、彼らがまず取り組む べき課題は内側にあるということを示してい ます。ここでの「肉の欲」とは神の御心に反する罪深い人間の欲のことです。たとえばガラテヤ書5章19節からの ところにリストされている「不品行、汚れ、 好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派真、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」といったものがそ うです。あるいは1ヨハネ2章16節の「す べての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」などもそうでしょう。こういった「肉の欲」 に自ら近づかないようにするのはもちろんのこと、それらを遠ざけなさい!とペテロは言います。なぜでしょうか。 まず、その根本的な理由は彼らが天国人だからです。外国で生活することには色々な困難が 伴うでしょう。周りの人々と言葉が違うばかりか、生活習慣やものの考え方の違いゆえに奇異な目で見られやすい。 どうして我々と同じ生活の仕方をしないの か、と不思議な目で見られ、時に異質者としていじめられるような扱いを受けることもあるでしょう。しかし、そう いう中でクリスチャンは、自分は天国人である という誇りを失ってはならないのです。天国人は天国人の基準で生きるべきであって、天国の生活とは一致しないこ の世の欲と関係するような生活を送るべきで はないのです。ここの「遠ざけなさい」という言葉は現在形で書かれています。つまりある時だけ遠ざけるのではな く、いつの瞬間も、継続的に、そうあり続けなさいということです。
ペテロはこの命令を強めるために、もう一つのことも語っています。すなわちこの肉の欲は「たましいに戦いをいど む」ものであるということです。私たちが 肉の欲を甘く見て、これくらいなら良いだろう、少し味わうだけなら大丈夫だろうと近づくなら、それは私たちのた ましいを重大な危機にさらすことになる。知 らず知らずのうちに、それは私たちの本質的部分に重大なダメージを与え、取り返しのつかない害を及ぼしかねな い。こちらの「いどむ」という言葉も現在形で す。肉の欲は心を許すなら、絶えず、私たちのたましいに戦いを仕掛け、襲いかかって来るのです。ですから、私た ちはまずこの課題と戦わなくてはなりません。
このことと共にペテロは神の民であるクリスチャンが積極的に取り組むべき課題を12節で語ります。12節前半: 「異邦人の中にあって、りっぱにふるまい なさい。」 「りっぱに」という言葉は「美しい」とか「魅力ある」という意味の言葉です。つまり、私たちの振る 舞いが周りの人々の目に美しいものであるよう に、魅力あるものとして人々を引きつけるものであるように、ということです。もちろん、私たちは人の目を気にす るあまり、外側だけをとりあえず良く見せよう とする誘惑に屈しないようにしなければなりません。どうしたら良いでしょうか。やはり美しい行動は、内側からそ の良さが出て来るような行動でしょう。そのためにやはり11節の歩みが必要です。まず自分の内で肉の欲をきっぱ り遠ざける。それらに誘き寄せられず、それらに敗北させられず、それらを遠ざけて、神を真っ直ぐに仰いで生き る。そのように私たちが内側の戦いに勝利するなら、確かに人々を引き付ける美しさ、内側から醸し出される魅力が 外側の生活にも現れ て来ることになるでしょう。
そして、ペテロはこのようなりっぱな歩みを異邦人すなわち神を知らない人々のただ中で行なう目的として、12 節後半でこう言っています。「そうすれば、彼 らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に 神をほめたたえるようになります。」 この手紙の読者たちは周りの人々から悪人呼ばわりされていた、という状況 にあったことがここから伺い知れます。なぜそんなことになっていたか、考えられること としては、たとえば彼らは互いに兄弟姉妹と呼び合っていたことから、近親相姦の罪を犯している人がいると誤解す る人たちがいたのかもしれません。あるいは 聖餐式で「これはわたしの肉です。これはわたしの血です。」と語られるのを聞いて、人食い人種だ!と悪口を言う 人たちがいたのかもしれません。あるいは 「人に従うより神に従うべきです」と告白する彼らを、ローマ皇帝への反逆だ、反体制的な危険分子だ、と非難する 人たちがいたのかもしれません。ペテロはそ ういう今は悪人呼ばわりしている人々が、やがて「神をほめたたえるようになる」日のことを望み見ています。一体 どうしてそんなことが起こり得るでしょう。 それは「あなたがたのりっぱな行いを見ることによって」だとペテロは言います。ここの「見る」と訳されている言 葉は「じっくり観察する」という意味の言葉 です。新共同訳聖書はここを「あなたがたのりっぱな行いを良く見て」と訳して、ただ見るとは違う強い意味を持つ 言葉であることを示しています。ここに示さ れていることは何でしょうか。それは周りの人々はたとえ悪口を言っていても、実はよく見ているということです。 見てない振りをして、実はクリスチャンを良 く観察している。特別な場所における一回限りの姿ではなく、毎日の平凡な生活に実は注目している。そうしたプロ セスを通して、おとずれの日に神をほめたた えるようになる、と言われています。この「おとずれの日」とはいつのことでしょうか。ある人は、それまで反対者 だった人たちが神をほめたたえるのだから、 その人たちが回心した日、すなわち神が救いの恵みをもってその人たちを訪れて下さった日のことだと理解します。 一方、ある人はこの「おとずれ」とは、神が 最後に訪れる日、すなわちキリストが再臨して最後の審判が行なわれる日のことだととります。そしてたとえその人 は信仰者になっていなくても、最終的にクリ スチャンの立場が正しかったことを認めざるを得なくさせられる、という意味としてここを理解します。しかし、一 つ参考になるのは、この後の3章1~2節で す。3章2節の「それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」とあるところの 「見る」という言葉は、今日の箇所2章12節 の「見る」と訳されていた言葉と同じ、すなわち「じっくり観察する」という意味の言葉です。そしてじっくり観察 する結果、そこで期待されていることは、3 章1節にありますように、それまでは未信者であったご主人が「神のものとされるようになること」です。ですから 今日の箇所でもペテロは周りの人々がクリス チャンの行ないを見る中で、ついには救いへと導かれて、神をほめたたえるようになる日のことを望み見ていると 言って良いのではないでしょうか。いずれにせ よ、多くの反対者たちに囲まれている中で、クリスチャンが取る態度は、そのような人々のただ中でりっぱな行いを することです。その人々に私たちの生活を見て頂くことです。そのことを通してその人がやがて神を賛美するように なるために仕えるということなのです。
その異邦人の中でのりっぱな振る舞いの具体的な中身が、このあと13節から語られて行きます。私たちは前回の 9~10節で、「選ばれた種族、王である祭 司、聖なる国民、神の所有とされた民」とされたのは、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった 神の素晴らしいみわざを「宣べ伝えるため」 というみことばを見ました。この「宣べ伝える」ということの中には、後の3章15節で見ますように、言葉による 宣教も含みます。しかし、それと同時に、この文脈から言うなら、ペテロが特に心にかけている宣教の方法とは、私 たちの「行ないをもって」ということになるのではないでしょうか。
私たちは改めて地上にある私たちの存在意義について、今日の箇所から受け止めさせられたいと思います。私たちが みことばに沿って神に従う歩みをするの は、単に自分の救いや成長や祝福のためだけではないのです。実に私たちは、まだ神を知らない人々、異邦人である 人々のただ中で、神の恵みに頂いた者はこの ような者になるのだという「標本」となるように召されています。今ののしっている人々が、やがての日に私の生活 を見て神をほめたたえずにいられなくなるよ うな、そういう歩みをして行くように召されています。この目的に生き抜くためには私たちが心すべきことは、肉の 欲をきっぱり遠ざけること。天国人の規準にかなう生活を、今ここにある時から行なって行くこと。そして内側から 醸し出されて来る真の美しさ、真の魅力を放つ者となること。そして、ペテロがこれから語 る具体的な勧めに従うことです。私たちは神から頂いた救いの感謝をこのような生活に現わして、私たちを良く見て いる周りの方々が、たとえ今は悪口を言って いても、やがてのおとずれの日に神をほめたたえることに至るような、そのような歩みができるように祈りつつ、こ の週も自分の歩みを主にささげてまいりたいと思います。