ペテロの手紙第一 2:18-25

その足跡に従うように
ペテロは今日の箇所で「しもべたちよ」と呼びかけます。当時のしもべたちは、今日の私たちが想像するのと は随分違っていたようです。ここの「しもべ」とい う言葉は「住む」という言葉からできたもので、彼らは主人の家に住み込んで、その家庭の必要に合わせて働く人た ちでした。ですからその家の主人がどんな人 で、どんな仕事をしているかによって、彼らの仕事の内容や待遇は随分違ったようです。ある人は家臣として、ある 人は役員として、ある人は付き人として、あ る人は給仕する者として、・・・。しかしそのしもべの運命は、やはりその主人次第というところがありました。 18節にあるように、中には善良で優しい主人 もいたでしょうが、横暴な主人もいました。賃金や労働条件、その他幾多の点でしもべたちを不当に扱う主人たち、 あるいはそのしもべがクリスチャンであると 知って、ひどい仕打ちをする主人たちもいたのかもしれません。そんな状況でどう対処するかというのが今日の箇所 のテーマです。彼らキリスト教信仰を持った しもべたちは知っています。自分たちは今や神に愛されている一個の人間であること、すべての人は神の御前に等し い存在であること、自分たちは今や天国の市 民という霊的特権にあずかっていること、・・・。そういう彼らはもはやこの世の上下関係や地上の秩序から自分た ちは自由になるべきなのではないかと思った かもしれません。このまま苦しい状態にとどまり続けるのとは別の生活があるのではないか、と。しかしそんな彼ら にペテロは言うのです。18節:「しもべた ちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いな さい。」 これは彼らにしてみれば、予想と は丸っきり違った耳を疑うようなメッセージだったのではないでしょうか。

ペテロは20節で「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」と 言います。今日の箇所で焦点が当てられているのは、主人から不当な扱いを受けた場合のことです。その時、もし主 人に逆らい、さらに打ちたたかれるようなことになったら何の意味もありません。それ は自分が悪いことをしたからだと言われて終わりです。しかし、善を行い続けてなお苦しめられるなら、それは良い ことであるとペテロは言います。ここで大事なのは19節の「神の前における良心のゆえに」ということです。単な る我慢や忍従をペテロは勧めているわけではありません。主人の背後には神が立ってい て、その主人に尊敬の心を込めて従うことが神の御心だと受け止めるがゆえに、その主人に従おうとする心のことで す。神がこのことを喜ばれるのだという信仰 のもとに、どこまでも目の前の主人に従おうとする姿のことです。もちろん、前回見ましたように、しもべの主人に 対する服従は絶対的なものではなく、上に立て られた人の命じることが御言葉とぶつかる場合、私たちは常に「人に従うより、神に従うべきです。」という告白を もって行動すべきです。相手が国家であろう と、為政者であろうと、会社の上司であろうと、町会会長であろうと、家庭の夫であろうと、あるいは教会の牧師や 長老であろうと同じです。私たちはその人た ちの言うことに従う必要はありませんし、また従ってはなりません。しかしここで問題になっているのは、正しく従 い、善を行なっているのに、不当な扱いを受 けた場合のことです。そういう時に私たちが取りやすい自然な反応は、その不当性を糾弾し、上に立つ人を憎み、そ の人に逆らう行動を取ることでしょう。しかし、ペテロは、クリスチャンにはそれとは違う道があるのだと言ってい ます。それは神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるという生き方です。不当な扱いを甘んじて受けつつ、 なお神に信仰の目を上げて善を行ない続ける生き方です。これが神に喜ばれるあり方だとペテロは言っているので す。

このあり方を勧めるためにペテロは私たちに大切な模範を示します。それは私たちの主イエス・キリストの姿です。 私たちは自分が苦しみの中にある時、こんな に苦しいのは自分だけと思いやすいものです。そして他のことは一切見えなくなり、ただ自分をあわれみ、自分のこ とで一杯になってしまう。しかしペテロはこ こで「キリストを見よ!」と言います。22節にあるように「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽り も見出されませんでした。」 私たちはどん なに自分の潔白さを主張しようとしても、その歩みは常に不完全。あちこちに、いや全体に渡って罪にまみれていま す。それに対して、キリストは完全無欠なお 方。その方は23節にあるように、ののしられ、苦しめられるという扱いを受けました。人々はイエス様のメシヤと しての活動を見て、「悪霊のかしらベルゼブ ルによっている」とか「気が狂っている」などと中傷しました。また「国民を惑わした」とか「民を扇動した」など と訴えて、十字架へ引っ張って行きました。 これらの罵りに加えて、行ないによる苦しみもイエス様は受けられました。顔面につばきをかけられたり、こぶしで 殴りつけられたり、平手で打たれたりしまし た。そして兵士たちに散々いたぶられ、ついには呪いの木である十字架にくぎ付けにされ、張り付けにされるという 語るのも忍びない苦しみを受けられました。 一体この世でイエス様以上に不当な扱いを受けた人はいるでしょうか。しかし私たちが注目すべきは、イエス様はこ のような扱いに対して、罵り返したり、脅すことをされなかったことです。その気になればいつでも神の子の力を 使って彼らを震え上がらせ、死人のようにすることができたにもかかわらず、ひたすらその不当な仕打ちを甘受され ました。なぜイエス様はそうできたのでしょうか。それは「正しくさばかれる方」にお任せになったから、とありま す。すべてを見ておられる父なる神が必ず最終的にはふさわしいさばきをなさる。理不尽なままで物事が終わること は決してない。イエス様はこの信頼によって、苦しみの中でも深 い平安をもって歩まれたのです。

そして、これは私たちにとっての単なる一つの模範であるだけではありません。私たちはこのイエス様の御苦しみに よって、救いを頂きました。24節:「そし て自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため です。キリストの打ち傷のゆえに、あなたが たは、いやされたのです。」 罪のないイエス様が十字架にかけられた出来事は、この世界の歴史上、最も理不尽な 事件と言えます。しかし、その最も不当な出来 事においてイエス様は私たちの罪をその身に負って下さいました。そして、私たちが罪の奴隷状態から解放され、新 しい心、新しい性質を頂いて、神が喜ばれるこ とのために生きる者とされました。しもべたちの体にはもしかすると打ち傷があったかもしれません。しかし、ペテ ロはキリストの打ち傷を見よ!と言うのです。 その打ち傷のゆえにあなたがたは癒された。どのような癒しを受けたのかの内容が25節です。「あなたがたは、羊 のようにさまよっていましたが、今や、自分 のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」 以前の私たちは、イザヤ書53章に「私たちは みな、羊のようにさまよい、おのおの、自分 勝手な道に向かって行った。」とありますように、さまよえる羊の状態でした。いつ狼に襲われるか分からない、い つ崖から転落するか分からない、いつ災難に つかまるか分からない、まさに死と背中合わせの危険な中にありました。しかし、私たちはキリストの打ち傷のゆえ に、自分のたましいの牧者であり、監督者であ る方の下にある者となりました。この「牧者であり、監督者である方」とは誰のことでしょうか。この手紙の後の5 章4節の「大牧者」はイエス様を指していますから、ここでもイエス様を指していると多くの注解者は見ています。 イエス様は「わたしは良い牧者いです。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言 われました。そのような羊飼いとしてイエス様は私たちを今、養って下さっています。また「監督者」という言葉は ギリシャ語でエピスコポスという言葉です が、「スコポス」という言葉は英語のスコープのもとになった言葉です。マイクロスコープ(顕微鏡)、テレスコー プ(望遠鏡)といった言葉からも分かります ように、このスコポスという言葉は小さいものをより大きく見るという意味を持っています。またエピスコポスの最 初のエピはその後に続く言葉を強調する言葉 です。ですから、監督者とは私たちをしっかり見て、守っていて下さるお方であるということです。そのような祝福 の中に私たちは生かされています。

私たちは上に立つ人から不当な仕打ちを受けた時、そのことを大声で叫びたくなります。こんなことは絶対にあって はならない!おかしい!と糾弾し、直ちに その人にふさわしいさばきが下ることを求めたくなります。しかし、もし不当なことが一切あってはならないと言う なら、私たちの救いはありませんでした。私た ちの救いはイエス様が不当な仕打ちを甘んじて受けて下さったことによって備えられたのでした。ペテロはこのイエ ス様のお姿をよくよく見つめるように!と 言っています。そして、あなたがたもこのキリストの足跡に従って歩むようにと召されている、と言うのです。ただ イエス様による救いを感謝します、と言って受 け取るだけでなく、イエス様が私たちのために歩んで下さったその道を、後からついて歩いて行くように!と。その ことにおいてイエス様を益々深く知るよう に、その体験を通してイエス様がどんなに深く私たちを愛して下さったのか幾らかでも知る者となるように、そし て、イエス様に似る者となるように!と。このようなイエス様の足跡に従って歩むことはこわいことでしょうか。イ エス様は23節にあったように、正しくさばかれる方にお任せして歩まれました。そして、私たちは今日、そのイエ ス様の信頼に父なる神が豊かに答えられたことを特に覚えています。神はこの日にイエス様を復活させ、すべてに勝 る栄光をお与えになりま した。ですから、イエス様の足跡に従う道は十字架で終わるものではなく、その先の復活また栄光につながるもので す。そして、私たちよりも先にこの道を歩んで栄光に達されたイエス様が、私たちの牧者また監督者として、この道 を行く私たちをしっかり見守っていて下さるのです。

ですから、私たちは上に立つ人から不当な苦しみを強いられることがあった場合、今日の御言葉を自分に適用したい と思います。私たちの前には二つの道があり ます。一つは自分は不当に扱われていると叫んで、上に立つ人に反抗し、その人がのろわれることを願い、自らの不 運を嘆いて、身も心もボロボロになる歩み。 もう一つは正しいさばきはすべてを必ず正しくさばかれる神にお任せし、自分としてはしもべとしてのふさわしい歩 みを続けること。そしてもし苦しみが避けら れないのであれば、そこに私たちの主イエス様の足跡に従うようにとの招きがあることを見て取って、喜んでこの光 栄な召しに従って行くこと。このような歩み を喜ぶと言われる神は、決してその人を悪いようにはなさいません。このイースターの日に十字架にかかられたイエ ス様を復活させられたように、正しくさばか れる神は必ず栄光をもって報いて下さいます。そのことを確信し、感謝して、私たちは地上で私たちの上に立てられ ている人に真心から従い、心に平安を頂いて、異邦人のただ中で立派な歩みをなし、周りの人々の無知の口を封じ、 神に栄光を帰して行くという歩みへ進みたいと思います。