ペテロの手紙第一 3:1-7

妻たちよ。夫たちよ
ペテロは小アジアのクリスチャンたちに、彼らが神に選ばれた特別の 民であると語って来ました。彼らはこの 世に属する人々ではなく、天に属する人々です。し かし彼らがそのようにこの世に属していないということは、この世でいい加減に歩んで良いということを意味しませ ん。ペテロは12節で、異邦人のただ中で りっぱな振る舞をして、神を証しし、宣べ伝える歩みをするようにと述べました。その具体的な適用として、国家と の関係において、また主人としもべとの関係 においてどうあるべきかを語って来たペテロは、今日の箇所で夫と妻の関係について語ります。ここにも今や天に属 する民となった彼らが目指すべき生活のあり 方があるのです。

まず、この3章1~7節を読んですぐ気付くことは、妻に対する勧めが夫に対する勧めより圧倒的に多いということ です。妻に対しては6節、夫に対してはたっ たの1節です。どうしてこのようなアンバランスが生じているのか。それはこの勧めが置かれている文脈に注目する と分かって来ます。ペテロは2章13節以 降、特に迫害や苦しみの中で信仰者としてどのように歩むべきかについて語っています。その視点で見る時、より困 難な立場に置かれがちなのは妻の方です。夫 が先に信仰を持った場合、家族みなが信仰を持つようになることが当時としては一般的でしたが、妻が先に信仰を 持った場合はそうでありません。未信者の夫と どのように歩むべきかにおいて難しい問題が出て来ます。中には夫に理解されず、苦しい状況に追いやられていた婦 人たちも多くいたことでしょう。従ってこの テーマで語って来たペテロにとって、妻への勧めがまず先に来て、分量も多くなるのはある意味で必然的と言えま す。彼は実際に苦しい立場にあったであろう彼 女たちの助け、また支えとなるようにこのことを書いたのです。

その妻たちへの勧めにおいてペテロがまず語っていることは、「自分の夫に服従しなさい」ということです。これは これまで語られて来た原則と同じです。2 章13節に「人の立てたすべての制度に主のゆえに従いなさい。」とありました。立てられた権威の背後には主がお られます。その主への信頼と服従のゆえに、 目の前に立てられている人に従う。たとえそれが御言葉に従わない夫でも、とペテロは言います。クリスチャンでは ないこの世の為政者や総督、あるいは職場の 主人に従うように!と言われて来たことと同じです。もちろん立てられた人に対する服従は絶対的なものではありま せん。上に立てられた人が御言葉に反することを命じた場合、私たちは例外なく、「人に従うより神に従うべきで す。」と告白し、そのように歩むべきです。しかし、御言葉に反することを命じられるのでな いなら、言い換えれば罪を犯すように強制されるのでないなら、たとえ相手が信仰者でなくても、立てられている権 威に従うというのが神の御心です。特にペテ ロはここで、そのように進んで夫に服従する妻の「無言」の振る舞いによって、夫が神のものとされるようになるこ と、すなわち信者へ導かれる可能性について 述べています。先に信仰を持った妻たちは何とかして自分の夫にも信仰を持って欲しいと願います。それで色々働き かけ、特に福音の言葉を一生懸命語ります。 ところが、現実にはなかなか夫たちは願い通りには行かない。そういう中で妻たちが焦って「これでもか、これでも か」と福音を語ることに一生懸命になったらど うでしょうか。ある婦人は夫が家に帰って来るなり、隣の部屋でキリスト教のラジオ番組をボリューム一杯にかける ことに一生懸命だったそうです。またある婦人は茶の間にあえてキリスト教の本をこれ見よがしに置いておく。しか し、十分に予想がつきますが、そんなことをやり過ぎれば、夫は家にいなくなってしまいま す。そして妻と一緒に時間を過ごすよりは、友達の家に遊びに出かけるようになってしまいます。ですから、ペテロ は「無言の」と言っているのです。多くの言葉をしゃべるのではなく、行ないによって、特に夫に服従する姿を通し てキリストを証しする方がよっぽど効果的。もちろん2節に「神を恐れかしこむ清い生き 方」とありますように、何よりも神への信仰がその基礎になくてはなりません。単なるご主人のご機嫌取りではな く、まず神を恐れかしこみ、神が妻は夫に従う ことを御心としているということを受け止めて、真心から主に従うように、目の前の夫に従う。そういう清い生き方 を夫たちは「見る」と言われています。これは2章12節に出て来た言葉と同じで、「じっくり観察する」という意 味の言葉です。夫たちは見ていない振りをして見ているのです。

そして、ペテロは特に心がけるべきこととして3~4節のことを述べます。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾 りをつけたり、着物を着飾るような外面的な ものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさ い。これこそ、神の御前に価値あるものです。」 美しくありたいという願望は、男性の中にも持つ人がいるでしょ うけれども、やはり一般的には女性の方がより関心の高い事柄でしょう。その場合にまず考えるのが、ペテロがここ で言っているような外面的な美しさではないでしょうか。どのように髪を編んだらもっと魅力的か、どんな飾りをつ けたらもっと輝 いて見えるか、どんな服を着たらもっと素敵な人に見られるか。ペテロはここでこのように外面的に飾ることを否定 はしていません。クリスチャンはこのような ことに関心を持ってはいけないとは言っていません。しかしそれよりももっと関心を注ぐべきことがあると言ってい ます。それは心の中の隠れた人がらを自分の 飾りとすることです。すぐそれと分かる目立つようなものではないけれども、その人からにじみ出て来るような人柄 のことです。特に「柔和で穏やかな霊という 朽ちることのないものを持つ」と言われています。「柔和」とは何でしょうか。これはイエス様が御自身を現わされ た時に用いた言葉と同じです。「わたしは心 優しくへりくだっているから、わたしから学びなさい。」と言われた時の、「優しい」という言葉です。多くの人々 はこのイエス様の「優しさ」に、どれほど大 きな慰めと安らぎを感じて来たことでしょうか。もう一つは「穏やか」であること。これは「うるさい」とか「騒が しい」と反対の言葉です。1節でペテロは 「無言の振る舞い」を勧めましたが、これでもか、これでもかと口から泡を飛ばす姿とは反対の、神に信頼するがゆ えの物静かな性質、平和的な性質のことです。このようなものこそ、妻たちが心がけて追求すべき朽ちることのない 飾りであり、神の御前に価値ある飾りであるとペテロは言うのです。

 このように自分を飾った人の模範として、5~6節には「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たち」、特にアブラ ハムの妻サラがあげられています。サラはア ブラハムを主と呼んで彼に従いました。特にそれはアブラハムが神からの召しを受けて信仰の旅に出発した時がそう でしょう。どこに行くのか知らないで出て行 くアブラハムに妻サラは従いました。人間的に考えれば不安な旅でもあったでしょうが、彼女はオロオロしながらで はなく、静かな心で従ったのです。その後の 生涯もそうです。主の約束にだけ頼って放浪生活をしたアブラハムに付いて行くことは楽しいことばかりではなかっ たでしょう。危険を覚える時も多くあったで しょう。しかしサラはそんなアブラハムといつも一緒にいました。このように彼女が歩み通すことができたのは5節 にありますように、彼女が神に望みを置いて いたからです。他の昔の敬虔な婦人たちもみなそうです。その根本にあって彼女たちを支えていたのは神への信仰で した。夫に従うことは神の御心であり、その ように歩む者を神は必ず祝して下さるとの神への絶対的信頼に立つがゆえに、人間の考えではともすれば心騒ぎそう な状況でも、柔和な心あるいは穏やかな心を 与えられて、夫に従う生活ができた。もしこのように歩むなら、どうして夫に強烈なインパクトを与えずにいられる でしょうか。ペテロは伴侶がクリスチャンで あろうとなかろうと、このように歩むことが天国の民が示すべき姿であり、救いを頂いた妻たちが神の恵みにお答え して示して行くべき姿だと語っています。

ペテロはまた夫たちにも勧めます。彼は妻への勧めをまず語りましたが、結婚生活は決して一方的なものではありま せん。2章17節に「すべての人を敬え」 とあったように、クリスチャンは相互に仕える歩みへ召されています。この7節では大きく二つのことが夫たちに命 じられています。一つは「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて、妻とともに生活せよ」 ということです。1~6節で見て来た勧めを振り返るなら、妻たちが精神的、霊的、道 徳的に男性たちに劣っているという示唆はどこにもありません。むしろ十分に優れているので、これまでのことが命 じられて来ました。ここでペテロが言ってい る弱さとは主に肉体的、また社会的・立場的なものと考えられます。そのことを夫たちは良く考慮し、その知識に基 づいて配慮することが大事です。リーダーシップの中心は、上に立つ者は仕えるということです。自分も弱い器に過 ぎない存在ですが、さらに弱い器と共に生活していることを覚えて、その配慮を様々な 場面で現わすということです。もう一つは「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬せよ」ということです。夫 たちが改めてはっきり受け止めるべきこと は、妻もキリストとの共同相続人であるということです。ガラテヤ書3章28節:「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、 奴隷も自由人もなく、男子も女子もありませ ん。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」 つまり、妻も自分と全く同じ 立場でやがて神からの全き祝福を受けるので す。当時に身を置いてみれば、これはかなり革新的なメッセージです。そのように神が女性たちを、妻たちを、尊ん でおられるのです。夫たちはそのような新しい目で妻たちを見て、ふさわしい尊敬の心を持って接しなければなりま せん。なぜそうすべきであるかについて、7節の最後に「それは、あなたがたの祈りが妨 げられないためです。」とあります。ここの「あなたがた」は一見、夫婦を指していると思うかもしれません。しか し夫が正しく行動しない結果、妻の祈りも妨 げられるという論理はおかしい。この7節は「夫たちよ」という呼びかけで始まっていますように、ここの「あなた がた」はその「夫たち」を指していると見る のが適切と思われます。すなわち、ペテロが言っていることは、夫たちが自分の妻にこのように接しなければ、彼ら 夫たちの祈りが妨げられる、すなわち、神に聞いて頂くことができない。横の関係における義務を果たさないで、神 との縦の関係における祝福だけを求めることはできないということです。この原則は聖書のあ ちこちに示されています。マタイ5章23~24節:「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、も し兄弟に恨まれていることをそこで思い出し たなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それ から、来て、その供え物をささげなさい。」  またマタイ6章14~15節:「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいま す。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの 父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」 夫たち家長たちは特にその家の祝福のために祈る大きな責任があり ます。しかし、自分の妻を配慮し、尊敬するという歩みなしには、その祈りは有効なものとはならない。それではそ の家に祝福は来ない。夫たちはこの勧めを真摯に実践する生活を通して、その祈りを豊かに 聞かれるのです。だからこのように歩みなさい、とペテロ励ましているのです。

私たちは主から救いを頂いた者たちとして、主に喜ばれる生活をもって応答して行きたいと思っています。そういう 私たちには妻として、また夫として、どのように歩むべきであるかという明確な基準がここに示されています。私た ちは自分の生活を改めて振り返り、自分が属する天の御国の基準に従って歩むことを求めたいと思います。ここに歩 むことが私たちが益々救いの道を歩んで行くということです。ここに神が備えて下さった結婚の祝福を、私たちが 益々深く味わって 行くための道があります。ここに生きる時に、私たちは異邦人のただ中で立派な証しをなし、闇の中から驚くべき光 の中に招いて下さった神を世に宣べ伝えて行く歩みを御前にささげて行くことができるのです。