ペテロの手紙第一 3:8-12
主の目は義人の上に注がれ
ペテロはこの手紙を小アジアのクリスチャンたちに書きました。彼ら
はキリスト教信仰を持っているために、 人々から迫害されたり、嫌がらせを受けるという扱いを受けていました。そんな彼らにペテロは、彼らが天国の民で
あることを語って来ました。と同時に彼らには栄えある使命が与えられていることを語って来ました。その使命とは
闇の中から光の中へ招いて下さった神を宣べ伝える歩みをすることです。その具体的な勧めとして2章13節から国 家的為政者に対して、ま
た2章18節からは主人としもべの関係について、そして3章1~6節では夫と妻の関係についてペテロは語って来
ました。そうして、彼は8節で「最後に申しま
す。」と言います。ある意味で具体的な例をあげて行けばきりがありません。ペテロは最後にどういう状況にある人
にも当てはまる一般的原則をここにまとめる
のです。以下の部分を大きく二つの観点から見たいと思います。一つは勧めそのものについて。そして、もう一つは
その勧めを実行するための動機付けについてで す。
まず、ペテロが語る勧めについて見て行きます。8節:「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情 し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜 でありなさい。」 この部分は兄弟姉妹との関係に関する勧めです。ペテロはすでに1章22節で「あなたがた は、・・偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。こ の互いに愛し合う歩みを実践するために5つのことをここで述べています。一つ目は「心を一つにし」。これは思い を同じくしなさい、という意味です。クリスチャンは個人主義的な歩みをするのではなく、他の兄弟姉妹と心を一つ にする歩みを心がけるべきである。私たちはキリストにある根本的一致がすでに与えられています。それを肉の思い で破壊することがないように。それぞれの召しや賜物に違いはあっ ても、お互いの歩みを通して栄光を現わそうとしている神の御心に沿うように、与えられている一致を尊び、輝かせ て行くことです。二つ目は「同情し合い」。 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12章15節)とあるように、兄弟姉妹と 自分を切り離さず、むしろ自分にそのことが 起こったかのようにとらえ、共に生きることです。三つ目は「兄弟愛を示し」。私たちはイエス・キリストを信じる ことによって神の家族の一員になりました。 まるで神の家族であるかのように、ではなく、実際に神の家族であるという関係に入れられました。その私たちの間 にある真実な兄弟愛(1章22節)という特 性をいよいよ発揮するようにということです。四つ目は「あわれみ深く」。これはイエス様が人々を見て「かわいそ うに思われた」と聖書で語られている時のあ の有名な言葉と関連がある言葉です。イエス様は私たちをあわれんではらわたがよじれるような思いを持ち、関わっ て下さいました。そのイエス様の姿を映し出 すような態度のことです。そして五つ目は「謙遜でありなさい」。互いに愛し合い、心を一つにするために必要なこ とは、この謙遜でしょう。自分を主張するの ではなく、互いに相手を自分よりもすぐれた者と思うこと。一人一人に対して尊敬の心を持って接すること。そのよ うに互いに低い立場を取り、仕え合う歩みこ そ、お互いの一致と愛を深め、発展させる道でしょう。
続く9節で、ペテロは主に教会外の人々、迫害して来る人々への態度について語ります。「悪をもって悪に報いず、 侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を 与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」 不当な扱いを受けてもやり返さず、む しろ善を行なうべきことは、すでに2章19 節以下で語られました。その模範はイエス様です。イエス様は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられて も、おどすことをせず」、十字架の上でくぎ付 けにされた時も、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と彼らの 祝福のために祈られました。このように歩むことが異邦人のただ中でりっぱに振る舞うということであり、やがての 訪れの日に人々が神をほめたたえることへと至る、神の栄光を現わす生き方なのです。
さて、ペテロはこれらの勧めと同時に、その勧めに従うための動機付けとなる真理も語っています。それは何でしょ うか。それはこの勧めに従うなら、それはクリスチャン自身の祝福になるということです。9節後半に「あなたがた は祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。ここに示されていることは、クリスチャンたちは悪 をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えるという歩みを通して祝福を受け継ぐという ことです。ペテロ がここで述べている勧めに従う時に、私たちは豊かな祝福を自分自身が受け継ぐという将来を期待できるのです。こ のポイントを確証するために、ペテロは 10~12節で詩篇34篇12~16節を引用しています。そこで言われていることは、幸いな日々を送りたいと思 うなら、「舌を押さえて悪を言わず、くちび るを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。」という歩みをしなけ ればならないということ。これは9節と内容 が同じです。「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」という部分は、9節の「侮辱をもって 侮辱に報いず」という部分に対応します。また、「悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ」 という部分は、9節の「悪をもって悪に報いず、・・かえって祝福を与えなさい」という部 分に対応します。このような歩みをする時に、その人はいのちを豊かに受け、幸いな日々を過ごすという将来を期待 できると言われている。一見これはわざによる救いとか、行ないに基づく祝福を意味しているように思われるかもし れません。しかし、彼は恵みによって救われたクリスチャンたちにこの手紙を書いていま す。1章4節に「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいまし た。」とありましたが、この祝福は彼らが行 ないによって勝ち取ったものではなく、ただ神の一方的な恵みによることです。しかし、神は私たちを導く際、私た ちをただ受動的な者にはしないのです。確かに 神が恵みによって導いて下さるのですが、神は私たちを霊的に生かし、新しい志を与え、新しい力を与え、私たちが 自分の意思でこの命令に従って歩むことを通して、用意した祝福に到達するようにと導いて下さるのです。
このような歩みへと召されている私たちが心に留めるべきは12節です。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼 らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、 悪を行う者に立ち向かう。」 ここでの義人とは完全無欠の人のことではなく、神の恵みによって救われ、神との正 しい関係に立ち、神の御心に沿って歩む人のことです。苦しみの中にある時、しばしば私たちは神がそこにおられな いように感じます。神はこの状況をよく見ておられないので、私はこの困難の中に放置さ れているのではないか、と考えやすい。そして、私たちは焦って悪を行なう者には悪を行ない返し、侮辱する者には 侮辱を返して自分を救い出そうとしやすい。しかし、私たちがそのような中で持つべき確信は「主の目は義人の上に 注がれ」ということです。主はきちんと見ておられる。いつでも見ておられる。「主の目が注 がれている」という言葉の意味は、ただ見ているというだけではなく、その人を力強い御手でしっかり支えていると いうことでしょう。さらに「主の耳は彼らの 祈りに傾けられる」とあります。子どもは誰かが話す言葉を聞きたくない時、手で耳をふさぎます。それは聞きたく ないし、聞かないぞ!という意志をそのよう なジェスチャーで示します。実に神も悪人が祈る時は、ご自分の耳に指を突っ込んで、わたしは聞かない!という態 度を取られます。アモス5章21~23節: 「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくな い。たとい、あなたがたが全焼のいけにえ や、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえ にも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎ を、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」 神はご自身の御言葉に誠実に従わない 人がいくら祈っても、そんな祈りは聞きたく ないと言って耳に指を突っ込まれます。しかしご自身の御言葉に従う義人の祈りには喜んで耳を傾けられるのです。 ヤコブ書5章16節:「義人の祈りは働く と、大きな力があります。」 こう考えますと、私たちの歩みは、神との祈りの生活を考える上で何と重要な事柄で あるか、ということになるでしょうか。もしここまで神が耳を傾けて祈りを聞いて下さるなら、その人は何にも勝っ て幸いな人ではないでしょうか。その反対に神の命令を蔑んでこれに従おうとしない悪人 に、主は立ち向かうと12節後半にあります。その人に祝福はないばかりか、むしろ、神が敵対されるのです。何の 良き将来も期待できないのです。
しかし、これは本当に信頼すべき真理でしょうか。神の目は本当に義人の上に注がれているなら、どうして敬虔なク リスチャンが多く、苦しい中に置かれたままなのでしょうか。本当にその人に「幸いな日々を過ごせる」という祝福 は来るのでしょうか。そうでない人もたくさんいるのではないでしょうか。もちろん人は 正しい歩みをすれば、すぐに幸せになれるとこの箇所は約束しているわけではありません。引用されている詩篇34 篇でも19節に「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」とあります。「正しい 者の悩みは多い」という現実を詩篇の作者も目の前に見ているのです。そんな中、それでもその人は「幸いな日々を 過ごせる」とペテロが語る際、彼は短い地上の生活のことしか考えていないわけではないのです。彼はもっと広い視 点で、永遠にまで 及ぶ視点でこのことを語っています。彼は「あなたがたは祝福を受け継ぐために召された」と言いましたが、1章4 節でペテロが語ったクリスチャンが受け継ぐ 祝福は、究極的には天の御国で成就することです。しかし、だからと言って、私たちはこれは天国のことであって、 地上の生活とは関係がないと割り切るべきでも ありません。聖書が示す視点は、「この世」と「来たるべき世」とは別物ではないというものです。それは一つのも のであり、連続しているものです。確かにあ るクリスチャンは、神の深い御心により、この世にあっては患難に囲まれ続けるかもしれません。しかし、いかに困 難な状況に囲まれ続けても、主の御心に従う人 は、この御言葉が約束する真の幸いに生きることができる。永遠の観点から見て間違いなくそのことが言えます。そ して、永遠ばかりでなく、今ここにおいても、 その人はその厳しい外的状況にもかかわらず、そのただ中で「いのちを愛し、真に幸いな日々を過ごす」という生き 方を主にあってすることができるのです。
私たちはどうでしょうか。私たちも皆、幸いを求めて生きています。しかし問題はその幸いを私はどこに見出そうと しているか、ということ。私たちが今日の 箇所から改めて心に刻むべき真理は、主は一切を見ておられるということ。その主の御前で御心にかなう正しい歩み をするところにこそ、真に幸いな日々は約束 されているということです。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」 もし私が主の御 言葉の教え従って歩むなら、主は上から目を 注いで私を守って下さる。そして、私が祈る祈りに喜んで耳を傾け、聞いて下さる。このことに励まされて、ヘリく だって主に信頼し、主にお従いすることを通して、真の祝福を受け継ぐ神の民の歩みへ進みたいと思います。
まず、ペテロが語る勧めについて見て行きます。8節:「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情 し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜 でありなさい。」 この部分は兄弟姉妹との関係に関する勧めです。ペテロはすでに1章22節で「あなたがた は、・・偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。こ の互いに愛し合う歩みを実践するために5つのことをここで述べています。一つ目は「心を一つにし」。これは思い を同じくしなさい、という意味です。クリスチャンは個人主義的な歩みをするのではなく、他の兄弟姉妹と心を一つ にする歩みを心がけるべきである。私たちはキリストにある根本的一致がすでに与えられています。それを肉の思い で破壊することがないように。それぞれの召しや賜物に違いはあっ ても、お互いの歩みを通して栄光を現わそうとしている神の御心に沿うように、与えられている一致を尊び、輝かせ て行くことです。二つ目は「同情し合い」。 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12章15節)とあるように、兄弟姉妹と 自分を切り離さず、むしろ自分にそのことが 起こったかのようにとらえ、共に生きることです。三つ目は「兄弟愛を示し」。私たちはイエス・キリストを信じる ことによって神の家族の一員になりました。 まるで神の家族であるかのように、ではなく、実際に神の家族であるという関係に入れられました。その私たちの間 にある真実な兄弟愛(1章22節)という特 性をいよいよ発揮するようにということです。四つ目は「あわれみ深く」。これはイエス様が人々を見て「かわいそ うに思われた」と聖書で語られている時のあ の有名な言葉と関連がある言葉です。イエス様は私たちをあわれんではらわたがよじれるような思いを持ち、関わっ て下さいました。そのイエス様の姿を映し出 すような態度のことです。そして五つ目は「謙遜でありなさい」。互いに愛し合い、心を一つにするために必要なこ とは、この謙遜でしょう。自分を主張するの ではなく、互いに相手を自分よりもすぐれた者と思うこと。一人一人に対して尊敬の心を持って接すること。そのよ うに互いに低い立場を取り、仕え合う歩みこ そ、お互いの一致と愛を深め、発展させる道でしょう。
続く9節で、ペテロは主に教会外の人々、迫害して来る人々への態度について語ります。「悪をもって悪に報いず、 侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を 与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」 不当な扱いを受けてもやり返さず、む しろ善を行なうべきことは、すでに2章19 節以下で語られました。その模範はイエス様です。イエス様は「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられて も、おどすことをせず」、十字架の上でくぎ付 けにされた時も、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と彼らの 祝福のために祈られました。このように歩むことが異邦人のただ中でりっぱに振る舞うということであり、やがての 訪れの日に人々が神をほめたたえることへと至る、神の栄光を現わす生き方なのです。
さて、ペテロはこれらの勧めと同時に、その勧めに従うための動機付けとなる真理も語っています。それは何でしょ うか。それはこの勧めに従うなら、それはクリスチャン自身の祝福になるということです。9節後半に「あなたがた は祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。ここに示されていることは、クリスチャンたちは悪 をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えるという歩みを通して祝福を受け継ぐという ことです。ペテロ がここで述べている勧めに従う時に、私たちは豊かな祝福を自分自身が受け継ぐという将来を期待できるのです。こ のポイントを確証するために、ペテロは 10~12節で詩篇34篇12~16節を引用しています。そこで言われていることは、幸いな日々を送りたいと思 うなら、「舌を押さえて悪を言わず、くちび るを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。」という歩みをしなけ ればならないということ。これは9節と内容 が同じです。「舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず」という部分は、9節の「侮辱をもって 侮辱に報いず」という部分に対応します。また、「悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ」 という部分は、9節の「悪をもって悪に報いず、・・かえって祝福を与えなさい」という部 分に対応します。このような歩みをする時に、その人はいのちを豊かに受け、幸いな日々を過ごすという将来を期待 できると言われている。一見これはわざによる救いとか、行ないに基づく祝福を意味しているように思われるかもし れません。しかし、彼は恵みによって救われたクリスチャンたちにこの手紙を書いていま す。1章4節に「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいまし た。」とありましたが、この祝福は彼らが行 ないによって勝ち取ったものではなく、ただ神の一方的な恵みによることです。しかし、神は私たちを導く際、私た ちをただ受動的な者にはしないのです。確かに 神が恵みによって導いて下さるのですが、神は私たちを霊的に生かし、新しい志を与え、新しい力を与え、私たちが 自分の意思でこの命令に従って歩むことを通して、用意した祝福に到達するようにと導いて下さるのです。
このような歩みへと召されている私たちが心に留めるべきは12節です。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼 らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、 悪を行う者に立ち向かう。」 ここでの義人とは完全無欠の人のことではなく、神の恵みによって救われ、神との正 しい関係に立ち、神の御心に沿って歩む人のことです。苦しみの中にある時、しばしば私たちは神がそこにおられな いように感じます。神はこの状況をよく見ておられないので、私はこの困難の中に放置さ れているのではないか、と考えやすい。そして、私たちは焦って悪を行なう者には悪を行ない返し、侮辱する者には 侮辱を返して自分を救い出そうとしやすい。しかし、私たちがそのような中で持つべき確信は「主の目は義人の上に 注がれ」ということです。主はきちんと見ておられる。いつでも見ておられる。「主の目が注 がれている」という言葉の意味は、ただ見ているというだけではなく、その人を力強い御手でしっかり支えていると いうことでしょう。さらに「主の耳は彼らの 祈りに傾けられる」とあります。子どもは誰かが話す言葉を聞きたくない時、手で耳をふさぎます。それは聞きたく ないし、聞かないぞ!という意志をそのよう なジェスチャーで示します。実に神も悪人が祈る時は、ご自分の耳に指を突っ込んで、わたしは聞かない!という態 度を取られます。アモス5章21~23節: 「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくな い。たとい、あなたがたが全焼のいけにえ や、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえ にも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎ を、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」 神はご自身の御言葉に誠実に従わない 人がいくら祈っても、そんな祈りは聞きたく ないと言って耳に指を突っ込まれます。しかしご自身の御言葉に従う義人の祈りには喜んで耳を傾けられるのです。 ヤコブ書5章16節:「義人の祈りは働く と、大きな力があります。」 こう考えますと、私たちの歩みは、神との祈りの生活を考える上で何と重要な事柄で あるか、ということになるでしょうか。もしここまで神が耳を傾けて祈りを聞いて下さるなら、その人は何にも勝っ て幸いな人ではないでしょうか。その反対に神の命令を蔑んでこれに従おうとしない悪人 に、主は立ち向かうと12節後半にあります。その人に祝福はないばかりか、むしろ、神が敵対されるのです。何の 良き将来も期待できないのです。
しかし、これは本当に信頼すべき真理でしょうか。神の目は本当に義人の上に注がれているなら、どうして敬虔なク リスチャンが多く、苦しい中に置かれたままなのでしょうか。本当にその人に「幸いな日々を過ごせる」という祝福 は来るのでしょうか。そうでない人もたくさんいるのではないでしょうか。もちろん人は 正しい歩みをすれば、すぐに幸せになれるとこの箇所は約束しているわけではありません。引用されている詩篇34 篇でも19節に「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。」とあります。「正しい 者の悩みは多い」という現実を詩篇の作者も目の前に見ているのです。そんな中、それでもその人は「幸いな日々を 過ごせる」とペテロが語る際、彼は短い地上の生活のことしか考えていないわけではないのです。彼はもっと広い視 点で、永遠にまで 及ぶ視点でこのことを語っています。彼は「あなたがたは祝福を受け継ぐために召された」と言いましたが、1章4 節でペテロが語ったクリスチャンが受け継ぐ 祝福は、究極的には天の御国で成就することです。しかし、だからと言って、私たちはこれは天国のことであって、 地上の生活とは関係がないと割り切るべきでも ありません。聖書が示す視点は、「この世」と「来たるべき世」とは別物ではないというものです。それは一つのも のであり、連続しているものです。確かにあ るクリスチャンは、神の深い御心により、この世にあっては患難に囲まれ続けるかもしれません。しかし、いかに困 難な状況に囲まれ続けても、主の御心に従う人 は、この御言葉が約束する真の幸いに生きることができる。永遠の観点から見て間違いなくそのことが言えます。そ して、永遠ばかりでなく、今ここにおいても、 その人はその厳しい外的状況にもかかわらず、そのただ中で「いのちを愛し、真に幸いな日々を過ごす」という生き 方を主にあってすることができるのです。
私たちはどうでしょうか。私たちも皆、幸いを求めて生きています。しかし問題はその幸いを私はどこに見出そうと しているか、ということ。私たちが今日の 箇所から改めて心に刻むべき真理は、主は一切を見ておられるということ。その主の御前で御心にかなう正しい歩み をするところにこそ、真に幸いな日々は約束 されているということです。「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」 もし私が主の御 言葉の教え従って歩むなら、主は上から目を 注いで私を守って下さる。そして、私が祈る祈りに喜んで耳を傾け、聞いて下さる。このことに励まされて、ヘリく だって主に信頼し、主にお従いすることを通して、真の祝福を受け継ぐ神の民の歩みへ進みたいと思います。