ペテロの手紙第一 3:13-17

キリストを主としてあがめ
ペテロは苦しみの中にある小アジアのクリスチャンたちにこの手紙を書いています。彼らはイエス・キリスト を信じて救われて、その後には祝福の生活が待って いると思ったかもしれません。しかし彼らが実際に経験していたのは苦しみでした。キリスト教信を持ったがゆえに かえって周りから苦しめられる。この現実を どう捉え、考え、そして振る舞ったら良いのか。そのことについてペテロはこの手紙を書いています。

私たちも苦しみは嫌です。できることなら避けたい。この苦しみの問題を私たちはどう考えて行けば良いでしょう か。まずペテロが言っていることは13節で す。「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」 私たちが苦しみの中 にある時、まず点検すべきことは、果たして 私は善に熱心であるだろうか、ということ。もし善に熱心でないなら、そのことで苦しめられても文句は言えませ ん。あなたの生活が悪いからでしょう、と言わ れて同じです。言わば自業自得です。ペテロがここで言っていることは、単に悪いことをしていないという消極的な 生活ではなく、善に熱心であるという積極的 生活です。この「熱心」という言葉は、12使徒の中に熱心党員のシモンという人がいましたが、あの「熱心党員」 と訳されている言葉と同じものです。彼ら熱 心党員は熱狂的な愛国主義者で、ローマ帝国に支配されていた当時、自分たちユダヤ人の国が高く上げられるために は武力さえも行使するという過激派的な人た ちでした。もちろんペテロは暴力的なあり方を勧めているわけではありません。しかし言うならば、善を行なうこと における熱心党員であるように、と言っているのです。もしそうであるなら、13節にあるように、一体誰がそんな 人に害を加えるでしょうか。普通、そのような人に人々は害を加えません。ですから私たちはまず自分の生活を点検 しなければならないのです。善に熱心に歩むことによって多くの苦しみを避けることができるのです。

しかし、そのように歩んでもなお苦しめられるという場合があり得ます。「善に熱心であるなら、だれがあなたがた に害を加えるか」とペテロが言った通り、 本来なら害を加える人がいなくなって当然なのに、そうならない!なおも私を不当に扱う人たちがいる。そういう 時、私たちはどんな気持ちになるでしょうか。 きっとやり切れない気持ちになるでしょう。なぜこんな不条理なことがまかり通って良いのか。これでは善も悪もな いのと同じではないか。真面目に生きること は損することではないか。そう思うと私たちは自分で自分を救い出そうと駆り立てられます。ひどく接する者にはひ どく接し返し、侮辱の言葉をかけて来る人に 対しては侮辱の言葉を返す。しかし、ペテロはそういう苦しみのでも、善を行ない続けるように!と今日の箇所で勧 めるのです。そのための大切なメッセージを彼 は語っています。三つのことを見て行きたいと思います。

まず一つ目にペテロが言っていることは、「義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。」とい うことです。一体これはどういうことでしょう。なぜ理不尽な苦しみにあうことが幸いなのでしょうか。しかし、こ のことを考える時に思い起こされる御言葉があるでしょう。山上の説教におけるイエス 様の御言葉です。マタイ5章10~12節:「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのも のだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなた がたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいか ら。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」 この世はまことの光であるイエ ス様に敵対し、イエス様を十字架につけて殺 した世であるということです。ですからそのイエス様の側に私たちが付き、イエス様に従う歩みをするなら、この世 からイエス様と同じ扱いを受けることは当然 予期されることと言わなければなりません。かえってそれは私がイエス様と同じ国に属する天国の市民であることの バッジ、勲章であるとさえ見るべきです。ですから、私たちは喜ぶことができるのです。それは私たちがどのような 存在であり、将来どのような祝福を受け継ぐ者であるかを明らかに示してくれるものだからです。

二つ目にペテロは「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。」と言います。思 わぬ苦しみに囲まれると、私たちの心は騒 ぎ、オロオロしてしまいがちです。そんな私たちにペテロは、恐れたり、動揺しないようにしなさい!と言います。 その秘訣が15節前半にあります。「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。」 ペテロが言っている ことはこういうことです。もしあなたが周りの人を見て恐れる気持ちを感じるなら、人を恐れるのではなく、主を見 て恐れなさい!真に恐れるべきお方こそを恐れを抱きなさい!これが人への恐れを消す方法です。ここで「あがめな さい」と言われていますが、「あがめる」という言葉は「聖別する」という意味の言葉です。主の祈りで「御名があ がめられますように」と祈られる時の言葉と同じで、「聖とする」とか「取り分ける」とか「区別する」という意味 です。つまり、キリストを主としてあがめるとは、キリストを他のものと同列に置かないということ。この 方を他のもの一切と区別し、他のものとは一線を画する絶対的主権を持つ本当の主として認めるということです。私 たちは困難の中では、自分を苦しめようとする人間の力を恐れてしまいます。その人間の力が、自分の運命を左右す る力を持っていると考えてしまいます。しかしそうではないのです。その時に私たちが しっかり心の中で持つべき確信は、キリストこそ主であるということ。イエス様は天に昇って行く時、「わたしには 天においても、地においても、いっさいの権 威が与えられています。」と言われました。そして、今や世界の最も高き座、父なる神の右の座に座っているのはイ エス様です。この方こそ絶対的な主権者であ り、私たちの目に悪と見えることからも最善の御心を導き出すことのできる力を持っています。この方こそそのよう な他とは比較にならない「主」であるという 事実を私たちが心の中、すなわちその存在の深いところでしっかりとらえているなら、私たちは騒ぎ立つ心を急速に 静められることになるでしょう。そして、心に深い平安と確信が与えられ、目の前の敵の脅かしを恐れずに、主に信 頼し、主に喜ばれる生活こそを私はささげて行けば良い、と導かれるでしょう。

そして、ペテロが三つ目に言っていることは、15節後半です。「そして、あなたがたのうちにある希望について説 明を求める人には、だれにでもいつでも弁明で きる用意をしていなさい。」 もし私たちが不当な苦しみの中でも動揺せず、むしろ深い平安と確信を持って生活す るなら、人々は不思議に思わざるを得ないで しょう。普通なら絶望し、取り乱し、自暴自棄になってもおかしくないのに、あの人はそうなっていない。何か特別 な希望を心に抱いている。それはなぜなのか?と。そのような時に、いつでも誰にでも弁明できるように用意をして おきなさい、とペテロは言うのです。すなわち生活をもって証しするだけでなく、言葉 によっても私たちが頂いている信仰の素晴らしさ、希望の素晴らしさを人々に伝えることができるように、というこ とです。なぜなら、これは福音を効果的に伝えるためのまたとないチャンスだからです。人々は必ず知りたがりま す。なぜあなたはそのように生きられるのか。あなたは一体何を持っているのか。その時、 え~、あ~、う~などと言っているようではチャンスを逃してしまう!まさに耳を開いて聞こうと準備している人の 心に、ストーン!と入って行くことができる ように、常日頃から準備をしていなさい。なぜ準備していなさいと言われるかと言うと、このようなチャンスはこち らが予想もしていない時にやって来るものだ からです。ですから、私たちは普段から自分の信仰を、また福音の内容を、特になぜ私たちが困難の中でも希望を もって生きられるかを、イエス・キリストの十字 架と復活に基づく形で人々に説明できるように、整理し、学び直し、準備しておくことが求められているのです。

その際の注意点も16節で述べられています。「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しな さい。」 いつでも弁明できる用意をして おくことはとても大切ですが、そのあまり、そのチャンスが来た時に得意げに、いかにも人に教えてやるという態度 で、上から傲慢に語るようであっては元も子 もありません。あるいは弁明する際、私たちは相手をある意味で説得しようとするわけですが、そのあまり議論で相 手を打ち負かし、自分を誇るようになってし まっては意味がありません。主に関することを語るのですから、私たちはふさわしい謙遜がそこに現れていなければ なりません。自己主張や押し付けになってし まっては、いくら語っていることが正しくても、最も肝心なことをその人は分かっていない、ということをさらけ出 すだけです。また、ペテロは「正しい良心を もって弁明しなさい」と言います。これは正しい生活という裏付けをもって弁明しなさいということです。正しい良 心をもって神のことを話すには、まず自分自 身が誠実にそのことに生きていなければなりません。何も完璧でなければならないということではありませんが、罪 を犯したら悔い改め、神との正しい関係の中 にまず自分自身が歩んでいるということが必要です。

その時にどんな結果が期待されるでしょうか。それが16節後半に「そうすれば、キリストにあるあなたがたの正し い生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」とあります。まさにこれこそ、力 強い証です。クリスチャンを迫害し、不当な非難をぶつけて来た反対者たちも、自分た ちの非難には根拠がないことが認めざるを得なくなる。罵り続けるための口実が見つけられなくなり、ついには自分 たちの姿勢を恥ずかしく思うようになる。ペ テロは2章9~12節で、私たちには闇の中から光の中に招いて下さった神を宣べ伝える使命があると語って来まし た。まさにそのための最高のチャンスがここ にあるのです。もちろん正当な方法で苦しみを避けることができるなら、そうして良いのですが、どうしてもそれが 避けられない場合、それは私たちが「信仰」 について、「希望」について、そして「神」について、人々に証しする絶好の機会が与えられたと思って取り組んで 行くべきなのです。ですからペテロは17節 で「もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるより良いのです。」と 言っています。「もし、神のみこころなら」 という言葉は、私たちが不当な苦しみを受ける場合、そこにも神の御心があるということを語っています。私たちは そのことを見上げて、神が備えて下さった絶 好の証しの機会を、神の栄光のためにと用いて行くべきなのです。

苦しみは嫌に思う私たち。不当な仕打ちを受けると心かき乱され、すべてを投げ出したくなる私たち。しかし、そう いう中で私たちがしっかり仰ぐべきは、「キリストこそ主である」という真理です。この方こそ他のどんな存在とも 比較にならない絶対的な主権を持つ力強い主であることを私たちがしっかりと心の中で区別し、告白すること。ここ に私たちがどんな悩みや苦しみの中でも、平安な心を頂き、それらを乗り越えて行くための大いなる秘訣があるので す。そして、その困難な状況は、私たちが特別な証しをするための機会です。私たちは心騒がせず、心の中で主をあ がめて、むしろそれは私たちの信仰と希望をいよいよ輝き現わすことのできる特別なチャンス到来ととらえたい。そ して、その時にはいつでもこの希望について弁明できるように普段から準備をし、私たちをこの素晴らしい希望 に生かして下さっている神を証しし、この方を宣べ伝える歩みへ進みたいと思います。