ペテロの手紙第一 4:1-6
神のみこころのために
ペテロはこの手紙を周りの社会から迫害を受けていた小アジアのクリスチャンたちに書きました。普通、キリ
ストへの信仰を持ってクリスチャンになった人は、
それ以後については明るい人生を想像するでしょう。神と正しい関係に回復された者として、祝福が満ちる人生を予
測するでしょう。ところが、彼らは、そして今日の私たちクリスチャンも、現実にはなかなか厳しい状況に直面させ
られるものです。すなわち周りの人たちが、自分が信仰を持ったことを喜んでくれない。また、信仰を持ったため
に、周りの人々と考え方や生活の仕方が変わって、一緒に生活しにくくなる。この手紙の読者たちは特にそういう中
で苦しんでいました。そんな彼らにペテロは3章18節で「キリストも」と言いました。周りの人々から不当な仕打
ちを受けているのは、自分たちだけではない。あのキリストもそう
だった。キリストは死にまで服された、と。しかし、ペテロはその苦しみに引き続くキリストの復活と勝利について
3章後半で語りました。私たちの先を進まれた
キリストは、復活して「捕らわれの霊たち」すなわち堕落した天使たちに決定的な勝利宣言をし、今や天の最も高き
座におられてすべてを支配しておられる、 と。
ペテロはこのキリストの姿を指し示した上で、今日の4章1節で、だから「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武 装しなさい。」と言います。戦いに武装は 不可欠です。何の準備もせず、ただフラフラと出て行ったら、勝利を得ることはできません。そうならないためにペ テロがここで求めているのは、キリストが 持っているのと同じ心構えです。それは簡単に言えば、神に従う生活において苦しみは避けられないという心構えで しょう。3章17節にある通り、「もし、神 のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」という考えで す。そして、そのように歩む者は必ず神によって嘉され、称賛されるということです。
1節後半に、このような「苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と言われています。ちょっと分か りにくい表現ですが、言っていることはこ ういうことでしょう。クリスチャンの前には、簡単に言えば二つの道があります。一つは周りの社会からのプレッ シャーに負けて、信仰の歩みにおいて妥協し、 神に不忠実に歩むこと、すなわち罪を犯す生活をすること。もう一つは、今と反対に、神に忠実に従う生活を選ぶた めに、言い換えれば罪を犯さない生活をするた めに、周りの人々から苦しめられることがあっても、それを甘受する生活をすること。ペテロは言うまでもなく、こ の後者の歩みを奨励しているのです。そして、2節でこう言います。「こうしてあなたがたは、地上の残された時 を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」 人々からの不当な苦しみを耐え忍ぶ時、それは罪との関わりを断つという素晴らしい道を自分が歩んでいることを意 味しているのだということを覚えて、残され た自分の地上の人生をいよいよ神の御心のためにささげて行くということです。自分は苦しみを通してこの祝福の道 に招かれているのだと受け止めて、いよいよここに焦点を当てた歩みに進むようにとペテロは読者たちを励ましてい るのです。
ペテロは彼らのかつての生活がどんなものであったかを3節で思い起こさせています。「あなたがたは、異邦人たち がしたいと思っていることを行い、好色、 情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分で す。」 ここからこの手紙の読者たちは異邦人 中心の教会であったことが伺えます。彼らはここにあげられているような生活をかつてはしていたのです。まず最初 の「好色」「情欲」とは、性的な罪を連想さ せます。しかし、それに限定されず、感覚に身を任せた生き方、自分の願望をむき出しにする生活の仕方も含むで しょう。「酔酒」「遊興」「宴会騒ぎ」はいずれ も過度にお酒を飲むことと関連します。そのような場では「飲めや、歌えや、騒げや」という雰囲気になり、羽目を 外すことが奨励されたりします。大声を出し、調子に乗って、ついには良くない振る舞いに至ることもしばしば。そ して「忌むべき偶像礼拝」とあります。「忌むべき」と付けられているのは、これがしばしば不道徳や不品行などの 忌むべき行為と密接に関連するからでしょう。神殿男娼や神殿娼婦のたぐい、また占い、呪い、霊媒等々。ペテロ は、それは過ぎ 去った時でもう十分だと言います。許容範囲などというものがあるとすれば、それはもうとっくに過ぎている!やり 過ぎるほど、あなたがたはこのような歩みを すでに積み重ねて来た!しかし周りの人々は、このような生活に加わるように、なおプレッシャーをかけて来ます。 そして、クリスチャンがその誘いに乗らないと 文句を言ったり、嫌がらせをする。これは信仰に入ったクリスチャンが大なり小なり経験するところでしょう。家族 やこれまでの友達が、キリスト教信仰に入ったことを喜んでくれず、なぜ今までのように自分たちと楽しくやらない のか、と責めて来る。3節に「好色」「情欲」とありましたが、こういった種類の話が好 きな人は多いでしょう。そんな中、クリスチャンがその話に乗らないと、「何と真面目腐った奴か」と嫌がられる。 また、「酔酒」「遊興」「宴会騒ぎ」とありま したが、クリスチャンがそういう場に出かけなかったり、一緒になって羽目を外さないと、「付き合いの悪い奴 だ!」とか、「紳士ぶった奴だ」と言われる。忌 むべき偶像礼拝についても、地域のおみこし担ぎに加わらなかったり、神社の修理費のための町内会費などを出さな いと、和を乱す者とか、地域を愛さない勝手 な人と呼ばれたりする。
そういう中でクリスチャンが持つべき確信が5~6節にあります。まず5節:「彼らは、生きている人々をも死んだ 人々をも、すぐにもさばこうとしている方 に対し、申し開きをしなければなりません。」 人々はクリスチャンをさばくかもしれません。しかし、クリスチャ ンたちをさばく彼らも、実は最終的にさばかれ る側の立場にあるのです。申し開きをするとは、自分の地上の行ないについて逐一説明をするということです。生き ている人々も、すでに死んでしまった人々も そうである、と言われています。こう書かれているのは当時、死んでしまった人はもはや神の前に立たされて地上の 歩みについて問われるということはない、という考えがあったからのようです。しかし、そうではない、とペテロは 言うのです。地上に生を受けて存在したどんな人も、この神の前で必ず最後の審判を受けることになるのです。
そして、ペテロは6節の言葉を付け加えます。この御言葉は3章19~20節と並んで、この手紙における最も難解 な言葉と言われています。特に「死んだ人々 にも福音が宣べ伝えられていた」とは具体的に何を意味しているのか、という点です。これは死んだ後にも福音を聞 くチャンスがあるという、いわゆるセカンド チャンスの教えを支持する御言葉なのでしょうか。もしそうだとしたら、これは手紙の読者たちに全く慰めを与えま せん。5節で、彼らを苦しめている迫害者た ちもやがて神の前でさばかれるということが言われたのに、続く6節で、その敵対者たちにも死後、福音を聞いて信 じるチャンスがあるとしたらどうでしょう か。それでは全く励ましになりません。やり切れない気持ちになります。ペテロがそんなことをここで書くはずがあ りません。では、ペテロはこの6節で何を言っ ているのでしょうか。それは「すでに死んだ人々にも、かつては福音が宣べ伝えられていた」ということです。もし 死後の世界にも福音を聞くチャンスがあるな ら、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられている」と書けば良いはずです。しかしここでは「宣べ伝えられていた」 と書かれています。これは死んだ人々が地上 にいた時、その彼らに福音が宣べ伝えられていたということを言っているのです。そしてペテロが言いたいことは、 そのようにして福音を聞いて信じたクリス チャンは、死んで滅びたわけではなく、神によって生きる!ということです。先に触れましたように、当時ある人々 は、死んだらすべてが終わりと考えたようで す。ですから不信者についても、死んだらもう神に何かを問われることはないし、クリスチャンについても、死んだ ら結局、彼らが信じたことは無に帰すると考 えた。しかしペテロはそうでないと言っているのです。福音を聞いて信じた人は、死後も祝福の状態にある。すなわ ちその人々は人間のジャッジによればさばき を受けた。すなわち人々にひどい目に会わされ、苦しめられた。しかし、神のジャッジによれば、霊において生きる ことになる!と。6節の言葉は原文ではきれい な並行関係で表現されています。「肉体において」及び「霊において」という言葉は、3章18節を見た時に触れま したように、それぞれ「地上における状態」 とおよび「復活後の状態」を差しています。また「人間として」および「神によって」と訳されている言葉は、それ ぞれ「人間の判断に従えば」および「神の判 断に従えば」という意味です。つまりこの6節でペテロが言っていることは、福音を聞いて信じたクリスチャンは、 その地上の生涯について言えば、人間によっ てさばかれたみじめなものであったかもしれないが、神の評価によって彼らは復活後、生きる者、すなわち永遠のい のちの祝福に生きる者となる、ということです。新共同訳聖書は6節を次のように訳しています。「死んだ者にも福 音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉においてさばかれて死んだ ようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」 ですから、福音を信じて歩んだクリス チャンは、死んでも何も失わないのです。その一 方、クリスチャンたちを苦しめた不信者たちはやがて神の前に呼び出され、地上の歩みについて申し開きをしなけれ ばならなくなる。だから、人間による、この世限りの、一時的なジャッジを恐れる必要は全くない。人間の判断は最 終的に重要なものではない。そうではなく、あなたがたは最も大事な神の最終評価にこそ心を留め、その神によって やがての日に永遠のいのちに生かされるという祝福に向かう道をまっすぐに進め!とペテロは言っているのです。
このメッセージは今日の私たちにもそのまま当てはまるでしょう。すなわち、私たちは周りの人々のプレッシャーに 負けて妥協した生き方をするのか、それとも 神の評価・判決を気にして神に対してまっすぐ生きるのか。イエス様はヨハネ15章で「しもべはその主人にまさる ものではない、とわたしがあなたがたに言っ たことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」と言われました。 確かに今日はかつてのある時代ほどには迫害 は強くないと言えるかもしれません。しかし、この世はイエス様に反対し、イエス様を十字架に付けて殺した世で す。ですから、私たちがイエス様の側に付くという態度をはっきりさせるなら、どういう形かでイエス様が受けたの と同じような扱いを私たちが受けることは当然予期されることです。必ずこの世との衝突、摩 擦、対決は生じるのです。その時、私たちはどうするのか。ペテロは5節で、生きている人々をも死んだ人々をもさ ばこうとしている方は、すぐにもそのことをしようとしている、と言いました。次回見る7節では「万物の終わりが 近づきました。」と語られ、ですから、その日に備えて自らの生活を整えよるように、と言われます。私たちはその 日がいよいよそこまで近づいて来ていることを覚えつつ、人間ではなく、まことの審判者である神こそを恐れ、神に 評価して頂ける歩み を御前にささげて行きたいと思います。そのために周りから苦しめられる扱いを受けることがあっても驚かない。む しろそれは罪と益々関わりを断ち、残された 時を人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすための招きの時であるととらえて、キリストの足跡に 従い、「人間の見方からすれば、肉において さばかれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになる」という真の祝福にあずかる歩みへ進みた いと思います。
ペテロはこのキリストの姿を指し示した上で、今日の4章1節で、だから「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武 装しなさい。」と言います。戦いに武装は 不可欠です。何の準備もせず、ただフラフラと出て行ったら、勝利を得ることはできません。そうならないためにペ テロがここで求めているのは、キリストが 持っているのと同じ心構えです。それは簡単に言えば、神に従う生活において苦しみは避けられないという心構えで しょう。3章17節にある通り、「もし、神 のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。」という考えで す。そして、そのように歩む者は必ず神によって嘉され、称賛されるということです。
1節後半に、このような「苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と言われています。ちょっと分か りにくい表現ですが、言っていることはこ ういうことでしょう。クリスチャンの前には、簡単に言えば二つの道があります。一つは周りの社会からのプレッ シャーに負けて、信仰の歩みにおいて妥協し、 神に不忠実に歩むこと、すなわち罪を犯す生活をすること。もう一つは、今と反対に、神に忠実に従う生活を選ぶた めに、言い換えれば罪を犯さない生活をするた めに、周りの人々から苦しめられることがあっても、それを甘受する生活をすること。ペテロは言うまでもなく、こ の後者の歩みを奨励しているのです。そして、2節でこう言います。「こうしてあなたがたは、地上の残された時 を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」 人々からの不当な苦しみを耐え忍ぶ時、それは罪との関わりを断つという素晴らしい道を自分が歩んでいることを意 味しているのだということを覚えて、残され た自分の地上の人生をいよいよ神の御心のためにささげて行くということです。自分は苦しみを通してこの祝福の道 に招かれているのだと受け止めて、いよいよここに焦点を当てた歩みに進むようにとペテロは読者たちを励ましてい るのです。
ペテロは彼らのかつての生活がどんなものであったかを3節で思い起こさせています。「あなたがたは、異邦人たち がしたいと思っていることを行い、好色、 情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分で す。」 ここからこの手紙の読者たちは異邦人 中心の教会であったことが伺えます。彼らはここにあげられているような生活をかつてはしていたのです。まず最初 の「好色」「情欲」とは、性的な罪を連想さ せます。しかし、それに限定されず、感覚に身を任せた生き方、自分の願望をむき出しにする生活の仕方も含むで しょう。「酔酒」「遊興」「宴会騒ぎ」はいずれ も過度にお酒を飲むことと関連します。そのような場では「飲めや、歌えや、騒げや」という雰囲気になり、羽目を 外すことが奨励されたりします。大声を出し、調子に乗って、ついには良くない振る舞いに至ることもしばしば。そ して「忌むべき偶像礼拝」とあります。「忌むべき」と付けられているのは、これがしばしば不道徳や不品行などの 忌むべき行為と密接に関連するからでしょう。神殿男娼や神殿娼婦のたぐい、また占い、呪い、霊媒等々。ペテロ は、それは過ぎ 去った時でもう十分だと言います。許容範囲などというものがあるとすれば、それはもうとっくに過ぎている!やり 過ぎるほど、あなたがたはこのような歩みを すでに積み重ねて来た!しかし周りの人々は、このような生活に加わるように、なおプレッシャーをかけて来ます。 そして、クリスチャンがその誘いに乗らないと 文句を言ったり、嫌がらせをする。これは信仰に入ったクリスチャンが大なり小なり経験するところでしょう。家族 やこれまでの友達が、キリスト教信仰に入ったことを喜んでくれず、なぜ今までのように自分たちと楽しくやらない のか、と責めて来る。3節に「好色」「情欲」とありましたが、こういった種類の話が好 きな人は多いでしょう。そんな中、クリスチャンがその話に乗らないと、「何と真面目腐った奴か」と嫌がられる。 また、「酔酒」「遊興」「宴会騒ぎ」とありま したが、クリスチャンがそういう場に出かけなかったり、一緒になって羽目を外さないと、「付き合いの悪い奴 だ!」とか、「紳士ぶった奴だ」と言われる。忌 むべき偶像礼拝についても、地域のおみこし担ぎに加わらなかったり、神社の修理費のための町内会費などを出さな いと、和を乱す者とか、地域を愛さない勝手 な人と呼ばれたりする。
そういう中でクリスチャンが持つべき確信が5~6節にあります。まず5節:「彼らは、生きている人々をも死んだ 人々をも、すぐにもさばこうとしている方 に対し、申し開きをしなければなりません。」 人々はクリスチャンをさばくかもしれません。しかし、クリスチャ ンたちをさばく彼らも、実は最終的にさばかれ る側の立場にあるのです。申し開きをするとは、自分の地上の行ないについて逐一説明をするということです。生き ている人々も、すでに死んでしまった人々も そうである、と言われています。こう書かれているのは当時、死んでしまった人はもはや神の前に立たされて地上の 歩みについて問われるということはない、という考えがあったからのようです。しかし、そうではない、とペテロは 言うのです。地上に生を受けて存在したどんな人も、この神の前で必ず最後の審判を受けることになるのです。
そして、ペテロは6節の言葉を付け加えます。この御言葉は3章19~20節と並んで、この手紙における最も難解 な言葉と言われています。特に「死んだ人々 にも福音が宣べ伝えられていた」とは具体的に何を意味しているのか、という点です。これは死んだ後にも福音を聞 くチャンスがあるという、いわゆるセカンド チャンスの教えを支持する御言葉なのでしょうか。もしそうだとしたら、これは手紙の読者たちに全く慰めを与えま せん。5節で、彼らを苦しめている迫害者た ちもやがて神の前でさばかれるということが言われたのに、続く6節で、その敵対者たちにも死後、福音を聞いて信 じるチャンスがあるとしたらどうでしょう か。それでは全く励ましになりません。やり切れない気持ちになります。ペテロがそんなことをここで書くはずがあ りません。では、ペテロはこの6節で何を言っ ているのでしょうか。それは「すでに死んだ人々にも、かつては福音が宣べ伝えられていた」ということです。もし 死後の世界にも福音を聞くチャンスがあるな ら、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられている」と書けば良いはずです。しかしここでは「宣べ伝えられていた」 と書かれています。これは死んだ人々が地上 にいた時、その彼らに福音が宣べ伝えられていたということを言っているのです。そしてペテロが言いたいことは、 そのようにして福音を聞いて信じたクリス チャンは、死んで滅びたわけではなく、神によって生きる!ということです。先に触れましたように、当時ある人々 は、死んだらすべてが終わりと考えたようで す。ですから不信者についても、死んだらもう神に何かを問われることはないし、クリスチャンについても、死んだ ら結局、彼らが信じたことは無に帰すると考 えた。しかしペテロはそうでないと言っているのです。福音を聞いて信じた人は、死後も祝福の状態にある。すなわ ちその人々は人間のジャッジによればさばき を受けた。すなわち人々にひどい目に会わされ、苦しめられた。しかし、神のジャッジによれば、霊において生きる ことになる!と。6節の言葉は原文ではきれい な並行関係で表現されています。「肉体において」及び「霊において」という言葉は、3章18節を見た時に触れま したように、それぞれ「地上における状態」 とおよび「復活後の状態」を差しています。また「人間として」および「神によって」と訳されている言葉は、それ ぞれ「人間の判断に従えば」および「神の判 断に従えば」という意味です。つまりこの6節でペテロが言っていることは、福音を聞いて信じたクリスチャンは、 その地上の生涯について言えば、人間によっ てさばかれたみじめなものであったかもしれないが、神の評価によって彼らは復活後、生きる者、すなわち永遠のい のちの祝福に生きる者となる、ということです。新共同訳聖書は6節を次のように訳しています。「死んだ者にも福 音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉においてさばかれて死んだ ようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」 ですから、福音を信じて歩んだクリス チャンは、死んでも何も失わないのです。その一 方、クリスチャンたちを苦しめた不信者たちはやがて神の前に呼び出され、地上の歩みについて申し開きをしなけれ ばならなくなる。だから、人間による、この世限りの、一時的なジャッジを恐れる必要は全くない。人間の判断は最 終的に重要なものではない。そうではなく、あなたがたは最も大事な神の最終評価にこそ心を留め、その神によって やがての日に永遠のいのちに生かされるという祝福に向かう道をまっすぐに進め!とペテロは言っているのです。
このメッセージは今日の私たちにもそのまま当てはまるでしょう。すなわち、私たちは周りの人々のプレッシャーに 負けて妥協した生き方をするのか、それとも 神の評価・判決を気にして神に対してまっすぐ生きるのか。イエス様はヨハネ15章で「しもべはその主人にまさる ものではない、とわたしがあなたがたに言っ たことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。」と言われました。 確かに今日はかつてのある時代ほどには迫害 は強くないと言えるかもしれません。しかし、この世はイエス様に反対し、イエス様を十字架に付けて殺した世で す。ですから、私たちがイエス様の側に付くという態度をはっきりさせるなら、どういう形かでイエス様が受けたの と同じような扱いを私たちが受けることは当然予期されることです。必ずこの世との衝突、摩 擦、対決は生じるのです。その時、私たちはどうするのか。ペテロは5節で、生きている人々をも死んだ人々をもさ ばこうとしている方は、すぐにもそのことをしようとしている、と言いました。次回見る7節では「万物の終わりが 近づきました。」と語られ、ですから、その日に備えて自らの生活を整えよるように、と言われます。私たちはその 日がいよいよそこまで近づいて来ていることを覚えつつ、人間ではなく、まことの審判者である神こそを恐れ、神に 評価して頂ける歩み を御前にささげて行きたいと思います。そのために周りから苦しめられる扱いを受けることがあっても驚かない。む しろそれは罪と益々関わりを断ち、残された 時を人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすための招きの時であるととらえて、キリストの足跡に 従い、「人間の見方からすれば、肉において さばかれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになる」という真の祝福にあずかる歩みへ進みた いと思います。