ペテロの手紙第一 4:7-11
万物の終わりが近づいた
この手紙の読者である小アジアのクリスチャンたちは、苦しい毎日の中に置かれていました。それは特にキリ
スト教の信仰を告白するために、周りの人々から受
ける迫害や嫌がらせという苦しみでした。そういう彼らの前には二つの道があるとペテロは述べました。一つはその
苦しみを避けるために、信仰において妥協し、罪との関わりを持つ生活。もう一つは今とは反対に、信仰のための苦
しみが避けられないなら、それを甘んじて受け、罪との関わりを断つ歩みをすること。
ペテロはもちろん後者の歩みをこの手紙の読者たちに勧めています。そして、そういうあなたがたは、これからの時
を、人間の欲望のためでなく、神の御心のために過ごすようになるのです、と語りました。
では、具体的にそれはどのような歩みをすることなのでしょうか。前回の箇所ではその消極的面が語られました。3 節には異邦人たちがしたいと思っている生活 を彼らもかつては行なっていたことが述べられましたが、それらはもう過ぎ去った時で十分。では、積極的にはどの ように歩むべきなのか。そのことが今日の 7~11節で語られています。
まず、ペテロは「万物の終わりが近づきました」と言います。この「終わり」とはどういう意味でしょうか。あらゆ るものがそれ以上存在できなくなる時が来る という意味でしょうか。であるなら、その日は恐ろしい日、決してやって来ないようにと願う日となります。しか し、この「終わり」という言葉は「目標」とか 「ゴール」という意味を持っています。とすると、ニュアンスは随分違って来ます。この言葉が前提としていること は、世界の歴史は神がある目的を持って導いておられる歴史であるということです。時間はただダラダラ過ぎ去って いるのではなく、初めから終わりまで神の一貫したご計画に従って導かれている。その目標が実現する日、あるいは それが完成に至る日が近づいている。すなわちこの世界の歴史は神が導いている一つの雄大なドラマであって、その 壮大なドラマがいよいよクライマックスを迎えようとしているという意味になります。なぜそのように言えるので しょうか。それは一言で言えば、すでにイエス・キリストの復活が 起こったからです。もう少し言葉を補えば、天地創造から始まった世界の歴史は、人間の堕落、救いの約束、アブラ ハムの召し、出エジプト、イスラエルの王 国、バビロン捕囚、エルサレムへの帰還と進んで来ました。そして約束のメシヤであるイエス・キリストの誕生、そ の地上の生涯、十字架、復活、昇天、父なる 神の右の座への着座、そして聖霊降臨と進んで来ました。ここまで来ると、もうこの後のプログラムはキリストの再 臨しかありません。そして直ちに最後の審判 が続き、新天新地が現れます。そういう意味で神の贖いの歴史は、まさに今ファイナルステージを迎えているのであ り、いつ最後のイベントが私たちの上に臨んでもおかしくない時にあるのです。それゆえ、クリスチャンは贖いの 日、約束の救いが完成する日の近いことを知って、頭を高く上げ、いよいよその栄光の日を迎 えるにふさわしい歩みへと進んで行くべきなのです。
さて、そのためにまずペテロが述べていることは「心を整え、身を慎みなさい」ということです。「心を整える」と いう言葉は、他の箇所では「正気に返る」 と訳されており、自分を正しくコントロールしている状態を意味します。終わりの日が近いことを知るクリスチャン が取るべき態度は、焦ったり、不安になったり、心を騒がせるというようなものでなく、自分の心をコントロールし ている姿です。それは神がこの世界の歴史を支配し、導いておられることを信じる信仰から出るものです。私たちに は見えないことや分からないことがたくさんありますが、神が一切を支配しておられ、ご自身の最善をなされるので す。この心の状態 とセットで言われているのが「身を慎みなさい」ということです。これはお酒に酔っている状態の反対です。3節で 異邦人たちは酔酒、遊興、宴会騒ぎにふけっていると言われましたが、そのようなまどろむ生活ではなく、頭がはっ きりしていて、いつでも取るべき行動を取る生活をすることです。これらのことは「祈り のために」と言われています。ここから改めて学ぶことは、私たちの祈りの生活は、私たちの「心」の状態や「生 活」のあり方と深く関係しているということです。私たちはただ祈ろうとしても、それだけでは効果的に祈ることは できません。心が騒いでいたり、生活が乱れていると、集中して祈ることができない。それは私たち自身、経験して いるところでしょう。ですから、ペテロは祈りのために、心を整え、身を慎みなさい、と言ったのです。
さて、このような神との縦の関係における祈りの生活と共に、ペテロが次に述べるのは、互いに愛し合うという横の 関係における兄弟愛の実践についてです。す でに1章22節で「あなたがたは、・・偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合 いなさい。」と彼は述べていました。特に外 部から迫害を受けていた彼らにとって、この共同体内部における愛の交わりは、それらに打ち勝つための重要な支え だったでしょう。ペテロは8節、9節、10 節で「互いに」「互いに」「互いに」と繰り返して語っています。
まず一つ目の「互いに」は8節:「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからで す。」 「愛は多くの罪をおおう」ということ の良き実例は創世記9章にあります。大洪水から救われた後、あのノアがぶどう酒を飲んで酔っ払ってしまい、天幕 の中で裸になってしまったことがありまし た。その第一発見者であったノアの3人息子の内の一人、ハムはどうしたでしょうか。彼は外に出て行って二人の兄 弟、セムとヤペテに「お父さんはこんな風に 裸をさらして寝ているよ!」と教えました。一方、それを聞いた二人の兄弟は着物を取って急いで天幕へ向かいま す。しかも、彼らは父のだらしない格好を目に焼 き付けないように、後ろ向きに歩いて行って、その裸を覆ってあげました。この3人の内、誰が父を本当に愛して行 動したでしょうか。言うまでもなく後の二人でしょう。そして、二人は罪を覆う働きをしました。私たちも互いにそ のような交わりに生きるように!とペテロは語っています。誰かの失敗や悪い点を見つけると、私たちは他の人に話 してしまいたいという誘惑を受けるものです。いいことについては広めないで、悪いことについては広めたいと思う のです。しかし、そうして互いの失敗や罪を言いふらし、話題にすることは愛のない行為であり、それは互いに内部 で傷つけ合い、滅ぼし合うことへ至ります。そして、ここでは特に自 分に向かってなされた悪についても、互いに忍び合い、赦し合うようにということが勧められていると考えられま す。もちろんきちんと扱わなければならない罪 や問題は正しい仕方で扱われるべきです。しかし、自分が赦せば済むような問題、今回見逃せば済むような問題は、 愛のゆえに、言うならば大目に見て赦し、覆ってあげる。それを告げる必要もない人にわざわざ告げるようなことは しない。ある教会ではこれとは反対に、お互いに気づいたことはオープンに、率直に指摘し 合い、戒め合うという約束をもって教会生活をしたそうです。それはお互いの聖化の歩みのために益すると考えた。 しかし、その教会はどうだったでしょうか。6 か月もたなかったそうです。当然でしょう。
二つ目の「互いに」は9節:「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」 家庭を開放してのもてなし は、旧約聖書の時代から勧められています。あのアブラハムにその模範を見ることができます。しかし、このもてな しのためには、見えないところでの多くの犠牲が必要とされます。まず時間をささげる ことが必要です。その人を迎え入れるための準備の時間が必要ですし、帰った後の後片付けの時間も必要です。その ために自分がしたいことがあっても犠牲にし なければならないかもしれません。また、経済面における犠牲もあります。食事のために、また相手の人が楽しくそ の時を過ごせるために、普段以上の出費となる のはある程度やむを得ません。また、労力における犠牲もあります。ある程度掃除をしたり、色々な準備をしなけれ ばなりません。また、気を配ることにおける精神 的な負担もあります。もちろんどの程度そう感じるかには個人差があるでしょうけれども。ですから、ペテロは「つ ぶやかずに」と言っています。もしつぶやきな がらしてしまったら、せっかく行なったもてなしも元も子もなくなってしまいます。適切な宿が今日のホテルのよう にはなかった当時、また会堂がなくて家に集 まらざるを得なかった当時に比べて、今日は以前ほど、このもてなしの緊急的な必要性はないかもしれません。しか し、家をオープンにすることによって心もオー プンにしていることを示すこのもてなしは、主にあって一つの家族である兄弟姉妹の関係を深めることにおいて、そ の兄弟愛の実践においてなお有効なものでしょう。
三つ目の「互いに」は10節:「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者とし て、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさ い。」 ここに一人一人は必ず神から何らかの賜物を受けているということが言われています。そして、大事な点 は、その賜物は互いに仕え合うために与えられているということです。自分の個人的な楽しみのために、あるいは優 越感を味わうために与えられているのではないのです。私たちはその管理者であり、やがての日にそれを正しく使っ たかどうか、これを授けて下さった方に報告する責任があります。これはある特定の人にだけ当てはまる話ではな く、すべてのクリスチャンに当てはまることです。ですから、私たちは自分に与えられている賜物を見出して、それ をもって兄弟姉妹の益にために積極的に用いて、兄弟愛を実践する歩み へ進むべきです。11節には「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備 えてくださる力によって、それにふさわしく 奉仕しなさい。」とあります。ここでは大きく「語る」働きと「奉仕する」働きとに分けられています。もしその人 が語る賜物を受けているなら、その人は神の 言葉にふさわしく、すなわち神の御心と一致するように、神の啓示と一致するように語るべきです。自分の勝手な主 張とか、気ままな思いをのべつ幕なしに語る のではなく、それは神の言葉そのものであると言えるほどに、御言葉に沿った、また御言葉に忠実な取り次ぎをする ということです。あるいはその人が奉仕をす る賜物を受けているなら、神が豊かに備えて下さる力によってふさわしく奉仕するとあります。私たちは自分に与え られた賜物や特性を認識したら、後はそれを自分の力で行なうのではないのです。それは人間的なプライドにつなが るあり方ですし、また人間の力以上の働きはできないことになります。しかし、私たちは神 から賜物を頂いているばかりか、それを用いる際にも上からの豊かな力と祝福を祈り求め、強められて奉仕すること ができる。このようにしてこそ、神の御名が 私たちを通してあがめられることになります。11節後半でペテロは頌栄賛美をささげています。苦しみのただ中で も、私たちがイエス・キリストにあって互いに愛し合い、神に強められて仕え合う時に、神の栄光を現わす歩みをさ さげることができるのです。
私たちもまた、天国の民として、神に忠実に歩もうとするなら、様々な戦いや困難があるはずです。思うように行 かないこと、苦しいこと、不当な扱いだと思 われること、つらいこと、嘆きたくなるような状況が訪れるはずです。しかし、ペテロが今日の箇所で言っているこ とは、私たちはそういう周りの状況を見て不満 な思いを持ったり、悲しむばかりで、後は何もしない無活動の人間であってはならないということです。ただ文句を 言い、つぶやきの言葉を漏らすだけの者であってはならない。むしろ困難のただ中でも私たちには積極的に取り組む べきことがあるのです。神が導いておられる歴史のゴールはすぐそこまで迫って来ています。いよいよその目標点に 到達しようとするクライマックスの時期に私たちは置かれています。私たちはこの言葉に導かれて、顔を上に上げ て、まず祈る生活 に進みたいと思います。また、その祈りを通していよいよ互いに熱心に愛し合う生活へと進みたい。反対する人たち に振り回され、困難な状況を嘆くだけの生活ではなく、そのただ中におけるこの積極的な生き方をもって、神の素晴 らしいみわざを証しし、神の栄光を宣べ伝える天国の市民・神の民の歩みへ向かって行きた いと思います。
では、具体的にそれはどのような歩みをすることなのでしょうか。前回の箇所ではその消極的面が語られました。3 節には異邦人たちがしたいと思っている生活 を彼らもかつては行なっていたことが述べられましたが、それらはもう過ぎ去った時で十分。では、積極的にはどの ように歩むべきなのか。そのことが今日の 7~11節で語られています。
まず、ペテロは「万物の終わりが近づきました」と言います。この「終わり」とはどういう意味でしょうか。あらゆ るものがそれ以上存在できなくなる時が来る という意味でしょうか。であるなら、その日は恐ろしい日、決してやって来ないようにと願う日となります。しか し、この「終わり」という言葉は「目標」とか 「ゴール」という意味を持っています。とすると、ニュアンスは随分違って来ます。この言葉が前提としていること は、世界の歴史は神がある目的を持って導いておられる歴史であるということです。時間はただダラダラ過ぎ去って いるのではなく、初めから終わりまで神の一貫したご計画に従って導かれている。その目標が実現する日、あるいは それが完成に至る日が近づいている。すなわちこの世界の歴史は神が導いている一つの雄大なドラマであって、その 壮大なドラマがいよいよクライマックスを迎えようとしているという意味になります。なぜそのように言えるので しょうか。それは一言で言えば、すでにイエス・キリストの復活が 起こったからです。もう少し言葉を補えば、天地創造から始まった世界の歴史は、人間の堕落、救いの約束、アブラ ハムの召し、出エジプト、イスラエルの王 国、バビロン捕囚、エルサレムへの帰還と進んで来ました。そして約束のメシヤであるイエス・キリストの誕生、そ の地上の生涯、十字架、復活、昇天、父なる 神の右の座への着座、そして聖霊降臨と進んで来ました。ここまで来ると、もうこの後のプログラムはキリストの再 臨しかありません。そして直ちに最後の審判 が続き、新天新地が現れます。そういう意味で神の贖いの歴史は、まさに今ファイナルステージを迎えているのであ り、いつ最後のイベントが私たちの上に臨んでもおかしくない時にあるのです。それゆえ、クリスチャンは贖いの 日、約束の救いが完成する日の近いことを知って、頭を高く上げ、いよいよその栄光の日を迎 えるにふさわしい歩みへと進んで行くべきなのです。
さて、そのためにまずペテロが述べていることは「心を整え、身を慎みなさい」ということです。「心を整える」と いう言葉は、他の箇所では「正気に返る」 と訳されており、自分を正しくコントロールしている状態を意味します。終わりの日が近いことを知るクリスチャン が取るべき態度は、焦ったり、不安になったり、心を騒がせるというようなものでなく、自分の心をコントロールし ている姿です。それは神がこの世界の歴史を支配し、導いておられることを信じる信仰から出るものです。私たちに は見えないことや分からないことがたくさんありますが、神が一切を支配しておられ、ご自身の最善をなされるので す。この心の状態 とセットで言われているのが「身を慎みなさい」ということです。これはお酒に酔っている状態の反対です。3節で 異邦人たちは酔酒、遊興、宴会騒ぎにふけっていると言われましたが、そのようなまどろむ生活ではなく、頭がはっ きりしていて、いつでも取るべき行動を取る生活をすることです。これらのことは「祈り のために」と言われています。ここから改めて学ぶことは、私たちの祈りの生活は、私たちの「心」の状態や「生 活」のあり方と深く関係しているということです。私たちはただ祈ろうとしても、それだけでは効果的に祈ることは できません。心が騒いでいたり、生活が乱れていると、集中して祈ることができない。それは私たち自身、経験して いるところでしょう。ですから、ペテロは祈りのために、心を整え、身を慎みなさい、と言ったのです。
さて、このような神との縦の関係における祈りの生活と共に、ペテロが次に述べるのは、互いに愛し合うという横の 関係における兄弟愛の実践についてです。す でに1章22節で「あなたがたは、・・偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合 いなさい。」と彼は述べていました。特に外 部から迫害を受けていた彼らにとって、この共同体内部における愛の交わりは、それらに打ち勝つための重要な支え だったでしょう。ペテロは8節、9節、10 節で「互いに」「互いに」「互いに」と繰り返して語っています。
まず一つ目の「互いに」は8節:「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからで す。」 「愛は多くの罪をおおう」ということ の良き実例は創世記9章にあります。大洪水から救われた後、あのノアがぶどう酒を飲んで酔っ払ってしまい、天幕 の中で裸になってしまったことがありまし た。その第一発見者であったノアの3人息子の内の一人、ハムはどうしたでしょうか。彼は外に出て行って二人の兄 弟、セムとヤペテに「お父さんはこんな風に 裸をさらして寝ているよ!」と教えました。一方、それを聞いた二人の兄弟は着物を取って急いで天幕へ向かいま す。しかも、彼らは父のだらしない格好を目に焼 き付けないように、後ろ向きに歩いて行って、その裸を覆ってあげました。この3人の内、誰が父を本当に愛して行 動したでしょうか。言うまでもなく後の二人でしょう。そして、二人は罪を覆う働きをしました。私たちも互いにそ のような交わりに生きるように!とペテロは語っています。誰かの失敗や悪い点を見つけると、私たちは他の人に話 してしまいたいという誘惑を受けるものです。いいことについては広めないで、悪いことについては広めたいと思う のです。しかし、そうして互いの失敗や罪を言いふらし、話題にすることは愛のない行為であり、それは互いに内部 で傷つけ合い、滅ぼし合うことへ至ります。そして、ここでは特に自 分に向かってなされた悪についても、互いに忍び合い、赦し合うようにということが勧められていると考えられま す。もちろんきちんと扱わなければならない罪 や問題は正しい仕方で扱われるべきです。しかし、自分が赦せば済むような問題、今回見逃せば済むような問題は、 愛のゆえに、言うならば大目に見て赦し、覆ってあげる。それを告げる必要もない人にわざわざ告げるようなことは しない。ある教会ではこれとは反対に、お互いに気づいたことはオープンに、率直に指摘し 合い、戒め合うという約束をもって教会生活をしたそうです。それはお互いの聖化の歩みのために益すると考えた。 しかし、その教会はどうだったでしょうか。6 か月もたなかったそうです。当然でしょう。
二つ目の「互いに」は9節:「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」 家庭を開放してのもてなし は、旧約聖書の時代から勧められています。あのアブラハムにその模範を見ることができます。しかし、このもてな しのためには、見えないところでの多くの犠牲が必要とされます。まず時間をささげる ことが必要です。その人を迎え入れるための準備の時間が必要ですし、帰った後の後片付けの時間も必要です。その ために自分がしたいことがあっても犠牲にし なければならないかもしれません。また、経済面における犠牲もあります。食事のために、また相手の人が楽しくそ の時を過ごせるために、普段以上の出費となる のはある程度やむを得ません。また、労力における犠牲もあります。ある程度掃除をしたり、色々な準備をしなけれ ばなりません。また、気を配ることにおける精神 的な負担もあります。もちろんどの程度そう感じるかには個人差があるでしょうけれども。ですから、ペテロは「つ ぶやかずに」と言っています。もしつぶやきな がらしてしまったら、せっかく行なったもてなしも元も子もなくなってしまいます。適切な宿が今日のホテルのよう にはなかった当時、また会堂がなくて家に集 まらざるを得なかった当時に比べて、今日は以前ほど、このもてなしの緊急的な必要性はないかもしれません。しか し、家をオープンにすることによって心もオー プンにしていることを示すこのもてなしは、主にあって一つの家族である兄弟姉妹の関係を深めることにおいて、そ の兄弟愛の実践においてなお有効なものでしょう。
三つ目の「互いに」は10節:「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者とし て、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさ い。」 ここに一人一人は必ず神から何らかの賜物を受けているということが言われています。そして、大事な点 は、その賜物は互いに仕え合うために与えられているということです。自分の個人的な楽しみのために、あるいは優 越感を味わうために与えられているのではないのです。私たちはその管理者であり、やがての日にそれを正しく使っ たかどうか、これを授けて下さった方に報告する責任があります。これはある特定の人にだけ当てはまる話ではな く、すべてのクリスチャンに当てはまることです。ですから、私たちは自分に与えられている賜物を見出して、それ をもって兄弟姉妹の益にために積極的に用いて、兄弟愛を実践する歩み へ進むべきです。11節には「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備 えてくださる力によって、それにふさわしく 奉仕しなさい。」とあります。ここでは大きく「語る」働きと「奉仕する」働きとに分けられています。もしその人 が語る賜物を受けているなら、その人は神の 言葉にふさわしく、すなわち神の御心と一致するように、神の啓示と一致するように語るべきです。自分の勝手な主 張とか、気ままな思いをのべつ幕なしに語る のではなく、それは神の言葉そのものであると言えるほどに、御言葉に沿った、また御言葉に忠実な取り次ぎをする ということです。あるいはその人が奉仕をす る賜物を受けているなら、神が豊かに備えて下さる力によってふさわしく奉仕するとあります。私たちは自分に与え られた賜物や特性を認識したら、後はそれを自分の力で行なうのではないのです。それは人間的なプライドにつなが るあり方ですし、また人間の力以上の働きはできないことになります。しかし、私たちは神 から賜物を頂いているばかりか、それを用いる際にも上からの豊かな力と祝福を祈り求め、強められて奉仕すること ができる。このようにしてこそ、神の御名が 私たちを通してあがめられることになります。11節後半でペテロは頌栄賛美をささげています。苦しみのただ中で も、私たちがイエス・キリストにあって互いに愛し合い、神に強められて仕え合う時に、神の栄光を現わす歩みをさ さげることができるのです。
私たちもまた、天国の民として、神に忠実に歩もうとするなら、様々な戦いや困難があるはずです。思うように行 かないこと、苦しいこと、不当な扱いだと思 われること、つらいこと、嘆きたくなるような状況が訪れるはずです。しかし、ペテロが今日の箇所で言っているこ とは、私たちはそういう周りの状況を見て不満 な思いを持ったり、悲しむばかりで、後は何もしない無活動の人間であってはならないということです。ただ文句を 言い、つぶやきの言葉を漏らすだけの者であってはならない。むしろ困難のただ中でも私たちには積極的に取り組む べきことがあるのです。神が導いておられる歴史のゴールはすぐそこまで迫って来ています。いよいよその目標点に 到達しようとするクライマックスの時期に私たちは置かれています。私たちはこの言葉に導かれて、顔を上に上げ て、まず祈る生活 に進みたいと思います。また、その祈りを通していよいよ互いに熱心に愛し合う生活へと進みたい。反対する人たち に振り回され、困難な状況を嘆くだけの生活ではなく、そのただ中におけるこの積極的な生き方をもって、神の素晴 らしいみわざを証しし、神の栄光を宣べ伝える天国の市民・神の民の歩みへ向かって行きた いと思います。