ペテロの手紙第一 4:12-19
真実であられる創造者に
ペテロは苦しみのただ中にある小アジアのクリスチャンたちにこの手紙を書きました。彼は前の4章7節で
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」と勧めました。そのペテロ
は今一度、彼らが経験している苦しみはどのように考えたら良いのか、12節以降で語ります。小アジアのクリス
チャンたちが経験している苦しみは「燃えさかる火の試練」と言われています。単にメラメラ燃えている程度ではな
く、ゴーゴーと音を立てなが
ら燃えているような厳しい状況にある人たちもいたのでしょう。しかし、ペテロは何か思いがけないことが起こった
かのように驚き怪しむべきではないと言います。そこにはきちんとした意味があるのだ、と語ります。大きく二つの
ことを彼は述べています。
まず一つ目は、彼らが経験している試練は、彼らを「キリストの苦しみにあずからせる」ものだということです。小 アジアのクリスチャンたち、そして今日の私たちは、信仰を持つことによって最も大きな問題を解決して頂くことが できます。それは罪という問題です。この罪が神と私たちとの交わりを妨げ、あらゆる 悲惨と絶望に私たちを追いやっていました。その罪がキリストにあって解決され、神との正しい関係が回復されるこ とは何にもたとえられない喜びです。目の前がパーッと明るくなり、限りなく明るい将来が開けたことを感じます。 そんな私たちは、もうこれからは祝福しかないように思います。そういう私たちは、信仰を持った直後から色々な困 難に見舞われると、動揺してしまうのです。まさに思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんでしまいやす い。しかし、それは異常事態ではないのです。ペテロはここで、私たちはこの試練によって、キリストの苦しみにあ ずかれる!と言います。この「あずかる」という言葉は、「交わる」という意味の言葉です。つまり私たちはこの経 験において、キリストとの一層の深い交わりへ導かれるのです。このことを通して、私たちは益々キリストを知る祝 福、キリストがどんなに深く私たちを愛して下さったか、その一端を身を持って味わい知る祝福へ導かれるのです。
そして、さらにこのことは私たちに非常な喜びをもたらします。なぜならキリストと結ばれて、今苦しみの中にある 人は、キリストが苦しみを通って栄光に入ら れたように、必ず栄光へと入る者となるからです。13節後半に「それは、キリストの栄光が現れる時にも喜び踊る 者となるためです。」とあります。キリスト の栄光が現れる日に、私たちはキリストのありのままの姿を見るばかりか、自分自身がそのキリストを映し出す栄光 の状態にあることを発見します。それは何という喜びを私たちにもたらすことでしょう。しかし、よく注意して見る と、喜び踊るのはキリストの栄光が現れるときにもと言われています。この意味は、やがての日にはもちろん喜び踊 るが、その前の時点から、すなわち今ここにある時から、私たちは喜び踊るということです。それはかの日の祝福を 見据えて、それを確信し、その前味を今ここで味わうからです。
14節も基本的に同じメッセージを語っています。ここの「御霊がとどまる」という表現でペテロが考えていたの は、次のようなみことばと思われます。イザヤ11章1~2節:「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝 が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主 を恐れる霊である。」 イザヤ書61章1節:「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧 しい者に良い知らせを伝え、云々」 この御霊はイエス様をどのように導かれたでしょうか。この手紙の1章11節 に「キリストの御霊は、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証し」したとありましたが、御霊はまずキリス トを十字架へと至る苦難の道へと導かれました。しかしそれで終わりでなく、それに続く栄光へと導かれま した。その御霊があなたがたの上にとどまっているとペテロは言います。これは何を意味するでしょうか。それはキ リストの上にとどまった御霊が、苦難から栄 光へ導いたように、彼らの上にとどまっている御霊も同じように彼らを苦難から栄光へ導いて下さるということで す。そのように必ず栄光へ導く御霊であるから、「栄光の御霊」と言われているのでしょう。小アジアのクリスチャ ンたちはこの御言葉に従って、自分たちを新しい視点で捉え直さなくてはなりません。彼らは決して一人ぼっちでは ないのです。彼らの上にはキリストの上にとどまっていたのと同じ「栄光の御霊」がとどまっています。だから、彼 らはキリストと同じ く、まず苦難に導かれているのです。そして、この苦難はその後に引き続く栄光の序曲です。そのことを見て取っ て、彼らは今から喜び踊るべきなのです。
さて、この苦しみは自業自得のものであってはならないということが15節に述べられています。ペテロが述べてい るのは16節にあるように、キリスト者と して受ける苦しみのことです。もしこの種類の苦しみを受けているなら、神をあがめなさい、と言います。なぜそう なのかが17~18節に記されています。こ こにペテロが今日の箇所で語る苦しみのもう一つの意味があります。なぜクリスチャンは罪赦された者なのに、苦し い経験を強いられるのか。それは「さばきが 神の家から始まる時が来ているから」だとペテロは言います。聖書はやがての最後の審判においては、クリスチャン もまたさばかれると語っています。2コリン ト5章10節:「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体に あってした行為に応じて報いを受けることにな るからです。」 そしてそのさばきはまず神の民から始まることが旧約聖書に示されています。エゼキエル9章6節 で、主はさばきを「まずわたしの聖所から始 めよ。」と言っています。マラキ書3章でも、神の民からさばきが始まることが示唆されています。その終末的さば きが、万物の終わりが近づいた今、すでに始まっている。しかし、聖書におけるさばきという言葉は、断罪するとい う意味だけでなく、判断する、見分ける、試すという意味があります。すなわち、ここでのさ ばきは彼らを罪に定めるためのさばきではなく、彼らの真の価値を「試す」さばきです。そして、試した結果、そこ には天国に残る尊いものがあることを明らかに するためのさばきです。ですから私たち信仰者に与えられる試練は、私たちを滅ぼすためのものではなく、私たちを 聖めるためのものなのです。最後の日がいよ いよ近づいている今、神は私たちを御国に住むにふさわしい者とするための準備を開始して下さっている。燃える火 が金や銀を精錬し、不純物を取り除き、その 価値を高めるように、神は試練を通して私たちから罪を除去し、新しく造り変え、天国に入る準備を始めて下さって いるのです。そう教えられる時、試練は何と 違ったものに見えて来るでしょうか。これは不平不満を述べるようなものでなく、むしろこのことゆえに私たちは神 に感謝し、神にいよいよ賛美をささげるべき であることになります。また、ペテロは私たちに対してさえ、これほどに厳しい取り扱いがなされるなら、福音に従 わない人たちの最後は一体どうなるか、と言います。クリスチャンたちは神の子どもたちとして、神の愛の懲らしめ を受けていますが、そうでない人たちはその外に置かれています。そのために彼らは益々自 分たちのしたいように生きて、最後の日のために自分の上に燃える神の御怒りを積み上げているのです。だから、先 にこうして聖められ、整えられるためのプロセ スの中に置かれていることは私たちにとって救いを意味するのです。
このような恵み深い神の目的が試練の背後にあることを知るクリスチャンの応答が最後の19節にまとめられていま す。「ですから、神のみこころに従ってな お苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさ い。」 ここには私たちの取るべき応答が二つ述 べられています。その一つは真実であられる創造者に自分のたましいをお任せすることです。この「お任せする」と いう言葉は、貴重品などを預ける時のデポ ジットを意味する言葉です。「自分のたましいを」と言われているように、自分の全存在をそっくりそのままお預け するのです。そして、この言葉はキリストが十字架上で、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」と叫ばれた時の 「委ねる」という言葉と同じです。私たちの先を進まれたキリストも、十字架上のあの御苦しみのただ中でも、ご自 分のたましいをお任せして歩まれました。私たちもそのように歩むように招かれています。その神のことをペテロは 「真実であられる創造者」と言っています。神は私たちを創造して下さったお方であり、私たちの魂もからだも良く ご存知で、その必要のすべてを知り、それを備えて下さるお方で す。そして、ペテロがここで創造者と言ったのは、神の比類なき偉大な力を思い起こさせるためでしょう。この宇宙 を無から創造なさった神が、それと同じ力で私 たちを守り支えて下さっている。あの創造の時に働いた神の力が、今の私を守るために働いているとしたらどうで しょうか。何物もこの神の御手に立ち向かうことはできません。この神の守りの御手の内にある私は全く安全である ことになります。従ってこの私に対する神の良いご計画はみな必ず実現して行く。1章5 節:「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されてい る救いを頂くのです。」 そして、この比類な き力を持つお方は、同時に真実なお方であり、ご自身の約束に忠実な方、計画を変更されない方、約束を反故にされ ない方です。このお方の御手の中にある自分たちだということをわきまえる時、私たちは燃えさかる試練の中でも大 いに安らぎ、魂の休息を得、新たなる力と喜びに生かされることができるのです。
これとセットで考えられるべきもう一つの私たちの応答は、善を行なうことです。私たちはただ真実で力強い創造者 を見上げて、自分の幸を喜ぶだけで終わるのではなく、その信頼を善を行なう歩みに現わして行かなければなりませ ん。これこそペテロがこの手紙の中で語って来たことです。厳しい迫害を受けても、それに負けることなくかえって 善を行なう。悪に対して悪を返すのではなく、立派な行ないをして神の栄光を証しして行く。そのような歩みに私た ちの神に対する 全き信頼と感謝を告白して行くのです。
信仰生活は決してバラ色ではありません。苦しいことは色々あります。キリストにあって罪を赦された者なのに、な ぜこのようなつらい毎日を送らなければな らないのか、と問いたくなるような日々があります。そんなこの手紙の読者と私たちに対して、ペテロはそれらすべ てのことの上には神の万全な守りと祝福の御手があることを述べました。いよいよ終わりの日が近い今日、神は私た ちを御国に住むのにふさわしい者へと聖めるための、愛による仕上げのわざを始めて下さっている。私たちはこの御 言葉の光の下で自分の経験するあらゆる苦しみ、試練を考えたいと思います。そして、これらに対してつぶやいた り、ただ嘆くのではなく、そこにある神のあわれみ深いご計画と導きを覚えて、これを感謝し、これを喜び、神に一 層信頼して行く者でありたい。今週も私たちの歩みのすべてを御 手に治め、導いて下さるのは真実であられる創造者なる神です。この神に私たちのすべての信頼を置いて自分のたま しいをお任せし、それゆえに善を行なう生活へと進み、闇の中から光の中へ招いて下さった神の栄光を宣べ伝え、神 が備えて下さった救いの道をまっすぐ進む者へ導かれたいと思います。
まず一つ目は、彼らが経験している試練は、彼らを「キリストの苦しみにあずからせる」ものだということです。小 アジアのクリスチャンたち、そして今日の私たちは、信仰を持つことによって最も大きな問題を解決して頂くことが できます。それは罪という問題です。この罪が神と私たちとの交わりを妨げ、あらゆる 悲惨と絶望に私たちを追いやっていました。その罪がキリストにあって解決され、神との正しい関係が回復されるこ とは何にもたとえられない喜びです。目の前がパーッと明るくなり、限りなく明るい将来が開けたことを感じます。 そんな私たちは、もうこれからは祝福しかないように思います。そういう私たちは、信仰を持った直後から色々な困 難に見舞われると、動揺してしまうのです。まさに思いがけないことが起こったかのように驚き怪しんでしまいやす い。しかし、それは異常事態ではないのです。ペテロはここで、私たちはこの試練によって、キリストの苦しみにあ ずかれる!と言います。この「あずかる」という言葉は、「交わる」という意味の言葉です。つまり私たちはこの経 験において、キリストとの一層の深い交わりへ導かれるのです。このことを通して、私たちは益々キリストを知る祝 福、キリストがどんなに深く私たちを愛して下さったか、その一端を身を持って味わい知る祝福へ導かれるのです。
そして、さらにこのことは私たちに非常な喜びをもたらします。なぜならキリストと結ばれて、今苦しみの中にある 人は、キリストが苦しみを通って栄光に入ら れたように、必ず栄光へと入る者となるからです。13節後半に「それは、キリストの栄光が現れる時にも喜び踊る 者となるためです。」とあります。キリスト の栄光が現れる日に、私たちはキリストのありのままの姿を見るばかりか、自分自身がそのキリストを映し出す栄光 の状態にあることを発見します。それは何という喜びを私たちにもたらすことでしょう。しかし、よく注意して見る と、喜び踊るのはキリストの栄光が現れるときにもと言われています。この意味は、やがての日にはもちろん喜び踊 るが、その前の時点から、すなわち今ここにある時から、私たちは喜び踊るということです。それはかの日の祝福を 見据えて、それを確信し、その前味を今ここで味わうからです。
14節も基本的に同じメッセージを語っています。ここの「御霊がとどまる」という表現でペテロが考えていたの は、次のようなみことばと思われます。イザヤ11章1~2節:「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝 が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主 を恐れる霊である。」 イザヤ書61章1節:「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧 しい者に良い知らせを伝え、云々」 この御霊はイエス様をどのように導かれたでしょうか。この手紙の1章11節 に「キリストの御霊は、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証し」したとありましたが、御霊はまずキリス トを十字架へと至る苦難の道へと導かれました。しかしそれで終わりでなく、それに続く栄光へと導かれま した。その御霊があなたがたの上にとどまっているとペテロは言います。これは何を意味するでしょうか。それはキ リストの上にとどまった御霊が、苦難から栄 光へ導いたように、彼らの上にとどまっている御霊も同じように彼らを苦難から栄光へ導いて下さるということで す。そのように必ず栄光へ導く御霊であるから、「栄光の御霊」と言われているのでしょう。小アジアのクリスチャ ンたちはこの御言葉に従って、自分たちを新しい視点で捉え直さなくてはなりません。彼らは決して一人ぼっちでは ないのです。彼らの上にはキリストの上にとどまっていたのと同じ「栄光の御霊」がとどまっています。だから、彼 らはキリストと同じ く、まず苦難に導かれているのです。そして、この苦難はその後に引き続く栄光の序曲です。そのことを見て取っ て、彼らは今から喜び踊るべきなのです。
さて、この苦しみは自業自得のものであってはならないということが15節に述べられています。ペテロが述べてい るのは16節にあるように、キリスト者と して受ける苦しみのことです。もしこの種類の苦しみを受けているなら、神をあがめなさい、と言います。なぜそう なのかが17~18節に記されています。こ こにペテロが今日の箇所で語る苦しみのもう一つの意味があります。なぜクリスチャンは罪赦された者なのに、苦し い経験を強いられるのか。それは「さばきが 神の家から始まる時が来ているから」だとペテロは言います。聖書はやがての最後の審判においては、クリスチャン もまたさばかれると語っています。2コリン ト5章10節:「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体に あってした行為に応じて報いを受けることにな るからです。」 そしてそのさばきはまず神の民から始まることが旧約聖書に示されています。エゼキエル9章6節 で、主はさばきを「まずわたしの聖所から始 めよ。」と言っています。マラキ書3章でも、神の民からさばきが始まることが示唆されています。その終末的さば きが、万物の終わりが近づいた今、すでに始まっている。しかし、聖書におけるさばきという言葉は、断罪するとい う意味だけでなく、判断する、見分ける、試すという意味があります。すなわち、ここでのさ ばきは彼らを罪に定めるためのさばきではなく、彼らの真の価値を「試す」さばきです。そして、試した結果、そこ には天国に残る尊いものがあることを明らかに するためのさばきです。ですから私たち信仰者に与えられる試練は、私たちを滅ぼすためのものではなく、私たちを 聖めるためのものなのです。最後の日がいよ いよ近づいている今、神は私たちを御国に住むにふさわしい者とするための準備を開始して下さっている。燃える火 が金や銀を精錬し、不純物を取り除き、その 価値を高めるように、神は試練を通して私たちから罪を除去し、新しく造り変え、天国に入る準備を始めて下さって いるのです。そう教えられる時、試練は何と 違ったものに見えて来るでしょうか。これは不平不満を述べるようなものでなく、むしろこのことゆえに私たちは神 に感謝し、神にいよいよ賛美をささげるべき であることになります。また、ペテロは私たちに対してさえ、これほどに厳しい取り扱いがなされるなら、福音に従 わない人たちの最後は一体どうなるか、と言います。クリスチャンたちは神の子どもたちとして、神の愛の懲らしめ を受けていますが、そうでない人たちはその外に置かれています。そのために彼らは益々自 分たちのしたいように生きて、最後の日のために自分の上に燃える神の御怒りを積み上げているのです。だから、先 にこうして聖められ、整えられるためのプロセ スの中に置かれていることは私たちにとって救いを意味するのです。
このような恵み深い神の目的が試練の背後にあることを知るクリスチャンの応答が最後の19節にまとめられていま す。「ですから、神のみこころに従ってな お苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさ い。」 ここには私たちの取るべき応答が二つ述 べられています。その一つは真実であられる創造者に自分のたましいをお任せすることです。この「お任せする」と いう言葉は、貴重品などを預ける時のデポ ジットを意味する言葉です。「自分のたましいを」と言われているように、自分の全存在をそっくりそのままお預け するのです。そして、この言葉はキリストが十字架上で、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」と叫ばれた時の 「委ねる」という言葉と同じです。私たちの先を進まれたキリストも、十字架上のあの御苦しみのただ中でも、ご自 分のたましいをお任せして歩まれました。私たちもそのように歩むように招かれています。その神のことをペテロは 「真実であられる創造者」と言っています。神は私たちを創造して下さったお方であり、私たちの魂もからだも良く ご存知で、その必要のすべてを知り、それを備えて下さるお方で す。そして、ペテロがここで創造者と言ったのは、神の比類なき偉大な力を思い起こさせるためでしょう。この宇宙 を無から創造なさった神が、それと同じ力で私 たちを守り支えて下さっている。あの創造の時に働いた神の力が、今の私を守るために働いているとしたらどうで しょうか。何物もこの神の御手に立ち向かうことはできません。この神の守りの御手の内にある私は全く安全である ことになります。従ってこの私に対する神の良いご計画はみな必ず実現して行く。1章5 節:「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されてい る救いを頂くのです。」 そして、この比類な き力を持つお方は、同時に真実なお方であり、ご自身の約束に忠実な方、計画を変更されない方、約束を反故にされ ない方です。このお方の御手の中にある自分たちだということをわきまえる時、私たちは燃えさかる試練の中でも大 いに安らぎ、魂の休息を得、新たなる力と喜びに生かされることができるのです。
これとセットで考えられるべきもう一つの私たちの応答は、善を行なうことです。私たちはただ真実で力強い創造者 を見上げて、自分の幸を喜ぶだけで終わるのではなく、その信頼を善を行なう歩みに現わして行かなければなりませ ん。これこそペテロがこの手紙の中で語って来たことです。厳しい迫害を受けても、それに負けることなくかえって 善を行なう。悪に対して悪を返すのではなく、立派な行ないをして神の栄光を証しして行く。そのような歩みに私た ちの神に対する 全き信頼と感謝を告白して行くのです。
信仰生活は決してバラ色ではありません。苦しいことは色々あります。キリストにあって罪を赦された者なのに、な ぜこのようなつらい毎日を送らなければな らないのか、と問いたくなるような日々があります。そんなこの手紙の読者と私たちに対して、ペテロはそれらすべ てのことの上には神の万全な守りと祝福の御手があることを述べました。いよいよ終わりの日が近い今日、神は私た ちを御国に住むのにふさわしい者へと聖めるための、愛による仕上げのわざを始めて下さっている。私たちはこの御 言葉の光の下で自分の経験するあらゆる苦しみ、試練を考えたいと思います。そして、これらに対してつぶやいた り、ただ嘆くのではなく、そこにある神のあわれみ深いご計画と導きを覚えて、これを感謝し、これを喜び、神に一 層信頼して行く者でありたい。今週も私たちの歩みのすべてを御 手に治め、導いて下さるのは真実であられる創造者なる神です。この神に私たちのすべての信頼を置いて自分のたま しいをお任せし、それゆえに善を行なう生活へと進み、闇の中から光の中へ招いて下さった神の栄光を宣べ伝え、神 が備えて下さった救いの道をまっすぐ進む者へ導かれたいと思います。