ペテロの手紙第一 5:1-5

大牧者が現れるときに
ペテロの手紙第一も最終章となりました。ペテロはここで、小アジアの教会の長老たちに向かって語りかけま す。前回の4章17節でペテロは「さばきが神の家から始まる時が来ている」と語りました。万物の終わりが近づい た今、神はまずご自身の家からさばきを始めている。このさばきは彼らを滅ぼすためのものではなく、彼らを聖める ためのものです。天国とは相容れない罪の性質を燃やし尽くし、栄光の御国に入るためにふさわしく彼らを整え、準 備させるためのもので す。しかし、その試練は厳しいものであることに変わりありません。そんな中、教会はどのように歩んで行くべき か、神の家のあり方について、ペテロは語って行くのです。まず重要な責任を担っている長老たちに対して勧めま す。

1節:「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やが て現れる栄光にあずかる者として、お勧め します。」 ペテロはここで自分について三つの言葉を使っています。一つ目は「同じく長老のひとり」。ペテロは 1章1節で「イエス・キリストの使徒ペテ ロ」と自らについて語ったのに、なぜここではこのような言い方をしたのでしょうか。注解書を見ると、長老たちへ の勧めにあたっては上から権威を持って命じ るより、同じ立場に立つ者として語った方がより効果的だからだとか、これはペテロの謙遜を表しているとか、ここ にペテロの変えられた姿、成長した姿があ る、などと解説されています。しかし、ここはむしろ、呼びかけている長老たちを自分と同じ立場に引き上げている 言葉と見る方が良いと思います。ペテロが使徒として召されたことは彼に独特なことです。小アジアの長老たちにそ れは当てはまりません。しかし、彼らが長老として召されたことは、ペテロが長老として召されたことと同じです。 ペテロが神の家を導く長老の一人として召されたのと同じように、小アジアの教会の長老たちもそのように召されま した。ですからこれは 小アジアの教会の長老たちの務めの栄光、重さ、責任を思い起こさせるものなのです。ペテロは同じ長老の一人とし て、この務めに伴う労苦や困難を知っている 者として、彼らにこれからの言葉を語るのです。

二つ目に彼は「キリストの苦難の証人」と語ります。これはキリストの苦難を見たという意味での証人と言うより、 キリストの苦難を証しする証人、宣べ伝え ている証人を意味していると考えられます。そしてキリストの苦難を証しする者として、彼自身もその苦難にあず かっていた。小アジアのクリスチャンたちも同 じです。しかし、そういう者たちには大きな希望があります。それが3つ目の「やがて現れる栄光にあずかる者」と いう言葉です。キリストが苦難を経て栄光に 入ったように、ペテロは今、苦難の中にある者として、必ずやがて栄光にあずかる。そしてそれは小アジアのクリス チャンたちにも当てはまります。ペテロはこうして自らを三つの言葉で言い表しつつ、ここにも彼らへの励ましの メッセージを送っているのです。

さて、その長老たちにペテロは勧めます。2節前半:「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」  彼がこの時思い起こしていたのは、間違 いなくあのヨハネ21章でイエス様から「わたしの羊を牧しなさい。」と言われた時の言葉でしょう。あの時、イエ ス様に言われた「牧しなさい」という言葉 と、ここでの「牧しなさい」という言葉は同じです。ペテロは三度主を知らないと否んで主を見捨てた、どうしよう もない裏切り者だったのに、主はそんな彼をなお赦し、あわれんで、「わたしの羊を牧しなさい」と言って、ご自身 の尊い働きの一部を担う者として下さった。ここでイエス様はペテロにご自身の羊を牧する責任を完全にバトンタッ チして、ご自身はそこから手を引かれたわけではありません。イエス様はなお真の羊飼いとして、ご自身の羊を養 い、牧して下さる。 ペテロはそのイエス様の下で、イエス様の大切な羊を飼い、また牧する道具とさせて頂くのです。

では、神の羊の群れを牧するとは具体的に何をすることなのでしょう。そのことはここでは語られていません。神が ご自身の民を牧するというイメージは、旧約 聖書から様々な箇所で語られて来ました。詩篇23篇1節:「主は私の羊飼い」 創世記48章15節:「きょうこ の日まで、ずっと私の羊飼いであられた 神。」 イザヤ書40章11節:「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱 き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」 そして、新約聖書ヨハネ10章でイエス様は「わたしは良い牧者です。」と 言われました。これらの箇所に、羊飼いなる神は、その羊の群れである民を顧み、食べさせ、 危険から守り、正しい道に導き、失われた者がいるなら探し出し、その者が見つかったら喜び、一匹一匹を大事に し、みなを集め、豊かな一致と平和に導いて下 さること、などが語られています。そのようなイメージがここではもちろん前提にされています。しかし、ペテロが ここで特に触れていることは、長老たちはどのような態度でこの働きを行なうのか、その姿勢についてです。三つの ことが述べられています。

その一つ目は「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをすること」です。時々長老の中に は、選挙で選ばれたから仕方なくやると言う人がいます。本当はしたくないが、他にする人がいないから、渋々やら ざるを得ない、と。しかし神からの召しと受け止めたなら、自発的に、喜びを持って、積極的にこの働きをしなさ い、とペテロは言います。自発的にと言っても、その基準は神様です(「神に従って」)。御言葉に示された神の御 心に従って、自分から進んで奉仕に当たりなさい。

二つ目は「卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。」 長老の中には全時間を教会の働き のためにささげるフルタイムの働き人、あるいはフルタイムでなくても多くの時間と労をささげる働き人がいます。 そのような長老はふさわしい報酬を受けて然るべきとパウロは述べています。1コリン ト9章10節:「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからで す。」 9章14節:「同じように、主も、 福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」 しかし、だからと言っ て、報酬を得ることが第一で、そのために教会の働きをするようであってはならない。私たちの原則は、「神の国と その義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えら れます。」ということです。この順序を間違わず、まず働きを心を込めて行なうべきことをペテロは述べています。

三つ目は「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさ い。」 長老職にある人たちの一つの誘惑は、 自分を何か偉い者のように思い、その権威にものを言わせて、人を動かし、支配しようとすることです。長老の立場 にあるオレ様が言っているのだから、あなた は従え!とプレッシャーをかけることです。しかし、教会の長老たちが示すべきリーダーシップは、まず自らが群れ の模範を示すこと。先頭に立って物事を行ない、その後ろ姿を持って導くこと。このことを心に刻まなければなりま せん。

しかしながら、現実にはこのように仕えることには多くの困難が伴います。ペテロの勧め通りに仕えても、必ずしも 願うように教会が進むわけではありません。 一生懸命に奉仕しても理解してもらず、悲しくなるような反応が返って来る場合もあります。そんな彼らにペテロは 素晴らしい望みを4節で指し示します。「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄 光の冠を受けるのです。」 ここでペテロはやがて来られるイエス・キリストを「大牧者」と表現しています。彼は これまで長老たちに神の羊を牧しなさい、と語って来ましたが、このイエス・キリストこそ、神の羊の群れを養い、 導いて下さっている真の大牧者であることを思い起こさせているのです。長老たちは改めて知るべきです。自分たち は自分たちの力で神の羊を牧するのではない。私たちと共 に、いや私たちよりもはるかに大きな力を持って、この羊の群れを牧して下さっている方がおられる。自分たちはそ の大牧者のもとで、その手足となって、尊い働きに従事させて頂いている者たちである。このように教会を心にか け、愛し、育んで下さっている大牧者がおられるという事実を仰ぐことは、その牧会を委ねられている者たちには何 という慰めと励ましを与えるものでしょうか。そうして、忠実に仕える者はやがての日に「しぼむことのない栄光の 冠を受ける」とあります。この世の富、名誉、業績、祝福はやがて過ぎ去ります。しかし、その日にいつまでも消え ることのない永遠の栄光の冠を彼らは受ける。この冠はレースで勝利 した者に与えられるあの冠のイメージであり、栄光、称賛を象徴します。大牧者と共に忠実に仕えた長老たちは、こ の永遠に続く賞賛、祝福をかの日に頂くのです。その日に長老たちは地上のどんな労苦も忘れ去って、このように地 上で歩ませて頂いたことは何という祝福であったか、と心から主に感謝し、主に賛美と栄光を帰すことでしょう。

さて、長老たちに勧めたペテロは、5節でそれ以外の人々に対しても勧めます。教会のあり方を考える時、まず長老 たちのなすべき義務がありますが、そうで ない人たちの義務ももちろんあります。そこでペテロはまず若い人たちに向かって語ります。ここで若い人たちが取 り上げられているのは、当時もまた、世代間 のギャップという問題があったからでしょう。年が離れれば考え方や態度、生活習慣に違いが出て来ます。そのた め、若い人たちには、長老たちと意見が合わず に反発したり、その指導に従わない誘惑があったのでしょう。そんな彼らにペテロは、あなたがたに求められている 第一のことは長老たちに従うことであるとい うことを思い起こさせています。聖書が示していることは、神が立てた権威に従うことが神の御心であるということ です。もちろん上に立てられた人の言ってい ることが御言葉に一致していないなら、私たちはどんな人に対しても「人に従うより、神に従うべきです。」と言わ なければなりません。しかし、そうでなけれ ば、立てられた権威に従うことが神の御心にかなうことです。また若い人に限らず、ペテロは「みな互いに謙遜を身 につけなさい。」と言います。ここには先の 長老たちも含まれます。長老たちは、自分たちは大牧者のもとであわれみを頂いて仕えさせて頂いていることに感謝 し、謙遜に神の羊の群れのために仕える者でなくてはなりません。一方、他の人たちは、そうだ!長老たちは謙遜に 仕えなければならない!まずお手本を示して私たちを正しく導かなければならない!と 言って、ふんぞり返っているようではいけない。なおのこと謙遜を身につけ、長老に従い、主に従わなければなりま せん。そのように高ぶらず、互いに仕え合う 歩みをする者に、神は豊かな恵みを施して下さるとペテロは述べます。

迫害の中にあって、教会はどのように歩んで行くべきでしょうか。ペテロは神の家においてリーダーシップが正しく 発揮されるべきこと、またリーダーだけでなく、お互いがへりくだって仕え合うべきことを語りました。困難のただ 中にある教会にとっての大きな望みは、大牧者がおられるということです。この大牧者がご自身の羊の群れを今日も 心にかけ、守り、育んで下さっています。この大牧者がいて下さるゆえに、神の家は必ず試練をくぐり抜け、やがて の栄光に達することができます。この大牧者を仰いで、長老たちはその大牧者の良き道具となるように謙遜に仕え る。その他の人々は、長老たちを大牧者が立てた器と認め、主への信頼を、その長老たちに従う歩みに、また互いに へりくだる歩みに現わして行く。教会は単なる人間的な組織・人間的な集まりではありません。教会は大牧者イエ ス・キリストの羊の群れであり、日々この方に養い育てられている群れです。そのことに望みを置いて、私たちは自 分の歩みを整え、必ず今の困難を突き 抜け、かの日の栄光へと至る神の羊の群れ・教会の光栄と祝福に生かされて行きたいと思います。