ガラテヤ人への手紙 1:1-5

この神に栄光がとこしえに

今日から夕拝では、ガラテヤ人への手紙から学んで行きたいと思います。ガラテヤ人とは、パウロが第一 次世界伝道旅行で宣教したピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベなどの町々に住む人々の です。使徒の働きの13~14章にその様子が記されています。しかしそのガラテヤ人たちに問題が生じこと ていました。6~7節に記されているように、パウロの後に「かき乱す者たち」がやって来て、パウロが伝えた のとは違う他の福音を伝えたのです。「他の福音」と言っても、もう一つ別に福音があるわけではあり ません。それは実質、パウロが伝えたキリストの福音を変えてしまう教えでした。この「かき乱す者たち」 とは具体的にどんな人々なのでしょうか。それは「ユダヤ主義者たち」でした。彼らのメッセージは次のよ うなものです。あなたがた異邦人はイエス・キリ ストを信じるだけでは不十分であり、本当の意味で神の民になるには、割礼を受け、律法を遵守し、ユダヤ人に ならなければならない。この主張は使徒の働き 15章のエルサレム会議で取り上げられることになります。使徒の働き15章1節:「さて、ある人々がユダヤ から下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に 従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。』と教えていた。」 このようなユダヤ人の優位性を説 き、ユダヤ人にならなければならないと説くユダ ヤ主義者たちが入り込んだことによって、ガラテヤ人たちはパウロの教えを捨てて、急速にそちらの教えに従い 始めていたのです。それはパウロが驚くほどの変 化でした。そこでパウロは彼らを本来の立場に引き戻すために、もう一度福音の真理を解説したのが、このガラ テヤ人への手紙です。この手紙を必要としているのは、彼らだけではありません。プロテスタントの宗教改革者 ルターも、このガラテヤ書に真の福音を見出しました。ルターは救われるために良い行ないをしよ うと難行苦行を試みましたが、決してそれを成し遂げられない苦しみの中で、本当の福音、すなわち私たちの良 い行ないによるのではなく、ただ神の一方的な恵 みによって救われるという聖書のメッセージを理解しました。そして、この罪人の自分にも天国の門が開かれて いる、ということを知り、この新しい光がプロテスタントの宗教改革を推進させる力となりました。私たちもこ のガラテヤ書を通して、福音の真理を再発見し、そのいのちと力に生かされて行きたいと思います。

さて、この手紙は他の手紙と同様、まず差出人の名前から記されます。「使徒となったパウロ」 ここまでは他 の手紙と大きな違いはありません。しかしその 直後から、さっそくこの手紙の特徴が現れています。パウロは自らを「使徒となったパウロ」と述べるや否や、 「私が使徒となったのは、人間から出たことでは なく、また人間の手を通したことでもなく」と強い否定の言葉を続けます。なぜこんな書き方をしたのでしょう か。それはパウロの反対者たちがパウロの信用を 傷つけるために、彼の権威を疑わせるような発言をしていたからでしょう。ユダヤ主義者たちは各地に出て行っ て活動する際、自分たちはイスラエルの宗教の中 心地エルサレムからやって来た者たちであり、言うならば本部からやって来た正統的な者たちだと主張したので しょう。また自分たちは、キリストに選ばれたあ の12弟子と関係があり、彼らの教えを代弁する代理者であるかのように自己推薦したのでしょう。そしてパウ ロについては次のように言ったのでしょう。「そういう我々と比べて、あのパウロは何者か。彼はキリストに よって選ばれたあの12使徒の一人ではない。また使徒の中の誰かから権威を授けられた者でもな い。だから見よ、彼はイスラエルの律法を守る必要はない、というようなことを言っているではないか。伝統的 な教えから外れた全くでたらめな偽教師であることは明らかである!」と。そんな彼らの非難を受けて立つかの ように、パウロは私が使徒となったのは人から出たことではない、と言っているのでしょう。そし て「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」と言います。 「使徒」の条件にはキリストご自身から直接任命を 受けたということがありますが、パウロは使徒の働き9章に記されているように、ダマスコ途上で復活したキリ ストご自身にお会いし、使徒となるようにとの使 命を直接受けました。また、キリストをそのように復活させたのは父なる神様ですから、パウロのこの任命は父 なる神による任命でもありました。パウロがこのよ うに自分の使徒性を強力に弁護しているのは、彼が語る福音のためです。彼の教えは決して人の考えに由来する ものではなく、キリストと神に起源を持つもので す。ですから、そのメッセージは神からのメッセージとして真剣に耳が傾けられ、敬虔に受け入れられなければ なりません。

さて、手紙の差出人、宛先人を記したパウロは3節で祝祷をします。「どうか、私たちの父なる神と主イエス・ キリストから、恵みと平安があなたがたの上に ありますように。」 これはパウロの他の多くの手紙に見られるものと同じです。これはギリシャ風・異邦人向 けの挨拶と、ヘブライ風・ユダヤ人向けの挨拶を 組み合わせたものと言われます。当時のギリシャ人たちは「喜びなさい」という意味のカイレインという言葉で 挨拶をしましたが、パウロはこのカイレインをカ リス、すなわちキリスト教の旗印である恵みという言葉にもじってまず先に持って来ます。そして次にヘブライ 風の挨拶「シャローム」をそのまま用いて、平安 がありますように、と言います。この「恵み」と「平安」の組み合わせには深い意味があります。恵みとは受け るに値しない者への神の一方的な愛顧です。それが与えられてこそ、二つ目の平安があります。これは平和とも 訳される言葉で、それは第一に神との平和を意味します。私たちは罪人として神との間に平和の関係がないこと が、あらゆる災いの根にあることでした。しかし、私たちは恵みを頂き、神との平和の関係を頂いて、あらゆる 祝福にあずかるようになります。

しかし、このガラテヤ書で特徴的なことは、この祈りに直ちに4~5節が続いていることです。原文で3節の最 後にあるのは「イエス・キリスト」という言葉で すが、パウロはここでさらにそのキリストについて、大切なことを書き加える必要を感じたのです。もちろんこ の手紙を書き送るガラテヤ人の諸教会のことを 思って、ということでしょう。

その4節でパウロは三つのメッセージを語っています。まず原文で最初に来ているのは、キリストは「私たちの 罪のためにご自身をお捨てになりました」とい う部分です。罪という言葉は複数形で書かれていますから、これは私たちの諸々の罪を指していると考えられま す。それらの私たちの諸々の罪が赦されるため に、キリストはご自身を捨てて下さった。イエス様の十字架は決して嫌々ながら、誰かに強いられたものではな く、イエス様が自発的にささげて下さったもので す。神なるお方が人となってささげた命は、どれほどの値を持つでしょうか。そのとてつもない犠牲によるな ら、私たちの諸々の罪は確かに赦され、処理される ことができます。パウロはこうして最初からガラテヤ人をキリストのもとへと連れ戻しています。

二つ目に、パウロは「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」と言います。これはキリストの十字架の死 の目的を語ったものです。聖書が述べていること は、この世界は人間の罪以来、サタンの支配下にあり、さばかれるべき世界となったが、その世界にイエス・キ リストによって神の国が突入しているということ です。イエス・キリストを信じた者は単に諸々の罪を赦されるばかりでなく、この地上にある時から天国の生に 生かされ始めるのです。イエス様はヨハネの福音 書17章でクリスチャンのことを「あなたが世から取り出してわたしに下さった人々」と言っていますように、 クリスチャンとは、この世にありつつ、すでに 「今の悪の世界」から取り分けられ、新しい恵みの領域に移されています。ここにもパウロのメッセージがあり ます。ガラテヤ人たちはユダヤ主義者たちによっ て、キリストを信じるだけでは十分でないと教えられました。割礼やユダヤ教的儀式を加えることが必要だと言 われました。しかしパウロいわく、その必要は全 くない。なぜならキリストは、今の悪の世界から、十字架を通して私たちをすでに救いだして下さったからで す。私たちが救われるために、何かを加える必要な ど全くないのです。

そして.三つ目にパウロは「私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」と言います。ここに示 されていることは、イエス・キリストの十字架の みわざは、父なる神に起源を持つということです。キリストが私たちの代わりに死んでくださったことによっ て、父なる神は渋々私たちを受け入れるように変わったのではありません。私たちはもちろん、私たちのために 進んで尊い命を捨てて下さった御子キリストの前にひれ伏して感謝します。しかし、私たちが同時に 知ることは、これは御子が単独でそうしたことではなかったということです。何とそれは父なる神が私たちを愛 して、かけがえのない一人子さえも惜しまずに私たちに与えて下さったという出来事であった。神とキリストが 一つになってこんな罪人の私たちのためにすべてを投げ出して下さったというのです!それゆえ、パ ウロが大いなる感動を持って、感謝の祈り・頌栄へと移ったのは当然です。5節:「どうか、この神に栄光がと こしえにありますように。アーメン。」私たちが改めて注目すべきは、ここに私たちが何かしたことについては 何も言われていないということです。言い換えれば福音とはただ神が私たちのためにして下さった こと、またこれからして下さることにこそあるのです。ですから.パウロはこの神にのみ栄光がとこしえにあり ますように!と賛美しました。そしてもしそのように すべての栄光が神に帰されるとしたら、私たちに与えられる祝福はただ神の一方的な恵みによるということにな ります。そしてこの「恵み」こそ、パウロがこの 手紙でこれから書こうとしているメッセージの核心的主題なのです。

私たちは果たしてこの神の「恵み」による福音に生かされているでしょうか。ガラテヤ人たちが一度はパウロか らこの福音を教えられながら、そこに人間の行 ないを付け加える教えに逆戻りしてしまったように、私たちもそうなりやすいものです。パウロは後に3章3節 で言います。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によっ て完成されるというのですか。」 また5章1節でこう言います。「キリストは、自由を得させるために、私た ちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられな いようにしなさい。」 私たちもいつの間にか、自分でも気付かない内に、恵みの福音から外れて、このような 誤りに陥りやすいものです。キリストにある自由を頂いたはずなのに、降ろしたはず の鎖を再び自分で自分の首にかけてしまうような愚かなことをしやすい者です。そんな私たちは、使徒パウロに よるこの「ガラテヤ人への手紙」を通して、福音の真理の再発見へと導かれたいと思います。その真理を正しく 受け取り、そこに生かされるところから、この神にこそ栄光がとこしえにあるように!というパウロと同じ熱心 に動かされ、その恵みに応答する救いの民の歩みへ導かれたいと思います。