ガラテヤ人への手紙 1:6-10
差出人、宛先、最初の祈りを記したパウロは、6節から本論に入ります。しかしその始まり方が他の手
紙と全く異なります。パウロの手紙では通常、最初
の挨拶に続いて、相手方に関する神への感謝、また賞賛の言葉などが続きます。ところがこの手紙でパウロはす
ぐ本題に入り、「あなたがたのことでは驚いてい
ます」と叱責調の言葉で語り始めます。さらには「のろわれるべきです」という言葉を連発します。手紙の冒頭
がこんな調子で始まるのはこの手紙だけです。そ
れほどガラテヤの諸教会には一刻の猶予もならない危機的な状況が生じていたということでしょう。
このガラテヤの諸教会は、パウロの第一次伝道旅行によって打ち建てられた教会です。使徒の働き13~14章
にその様子が記されています。具体的にはピシ
デヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベなどの町々に建てられた教会です。この地方の伝道は大いに
成功したようです。使徒の働き13章48~49
節:「異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人
たちは、みな、信仰に入った。こうして、主のみ
ことばは、この地方全体に広まった。」 14章1節:「イコニオムでも、ふたりは連れ立ってユダヤ人の会堂
に入り、話をすると、ユダヤ人もギリシヤ人も大
ぜいの人々が信仰に入った。」 14章21節:「彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ル
ステラとイコニオムとアンテオケとに引き返し
て、云々」 しかしこのパウロの伝道の後に、「かき乱す者たち」が入って来て、「他の福音」を説いたので
す。他の福音と言っても、7節にあるように、もう
一つ別に福音があるわけではありません。これはかき乱す者たちが、「これぞ福音」と主張した、彼らの言い方
を受けての表現でしょう。その結果、ガラテヤ人
たちは、パウロの福音を通して彼らを召してくださった神を見捨てて、他の福音に移りつつあったのです。しか
も「そんなにも急に」とパウロが述べざるを得な
いほどのあっという間のことでした。パウロはその動きを止めるために急いでこの手紙を書き送ったのです。
果たしてパウロの後に入って来た「かき乱す者たち」はどんな人たちだったのでしょうか。彼らは一言で言えば
「ユダヤ主義者たち」です。使徒の働き15章
1節にその主張が見られますように、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」
と異邦人に教えた人々です。彼らはイエス・キリ
ストを信ずべきことについては否定しません。しかしそれだけではまだ足りない。彼らは次のような主張をした
と言えます。「我々ユダヤ人は、あなたがた異邦
人よりもはるかに長い歴史に渡り、まことの神を礼拝して来た。我々はその間、モーセの律法を何千年も守り、
割礼を守って来た。あなたがたもイエス・キリス
トが次のように言われたのを聞いているだろう。わたしは律法を廃棄するために来たのではなく、成就するため
に来た。あるいは、天地が滅びうせない限り、律
法の一点一角でも決してすたれることはない、と。だからあなたがたが真の意味で神の民となり、その祝福を味
わいたいと願うなら、割礼を受けなくてはならな
い。」と。ガラテヤ人たちはこれを聞いて、その教えは福音に幾らかのユダヤ人の慣習を加えるだけだと考えた
のでしょう。そうすることによって自分たちの信
仰者としての地位をよりふさわしく整えることができるなら、そうしようではないか、と。しかしパウロはこの
ユダヤ主義者たちが伝える福音は、キリストの福
音を変えるものだと言います。この「変える」という言葉は「ひっくり返す」という意味の言葉です。どうして
そう言えるのでしょうか。それはパウロが伝えた
福音は、ただキリストの恵みのみによる救いを教えるのに対して、ユダヤ主義者たちが説く福音は、そこに人間
の行ないを足すものだからです。救いのためにキ
リストの十字架恵みのみで十分なのか、それともそれではまだ不十分であって、足りない部分を人間が良い行な
いによって補うべきなのか、は小さな違いのよう
に見えながら、実は後者は前者の立場をひっくり返すものです。パウロが伝えた立場は、キリストが私たちの救
いのためになしてくださったわざは完全であっ
て、そこに何も付け加える必要がないということです。そこにもし幾分でも人間の行ないを付け加えることが救
いに必要だと言うなら、それは似て非なる全く 違った宗教になってしまう。
今日はこの危険はないでしょうか。様々な本で、本来の福音を捨てて、他の福音に人々を移らせる動きが見られ
ることについて警鐘が鳴らされています。たと
えばあるグループでは、福音は経済的な繁栄を得る道であるという形で宣教されています。またある人々はイエ
ス様を信じると病気が癒されると強調します。あ
る人々は幸せな家庭が築けると強調します。ある人は自己実現の道と説き、ある人は人間関係を改善する知恵と
して聖書を読みます。その他、これぞ福音という
形で、成功する会社の経営について、教会成長について、特別な祝福を得られる祈りの方法について、等々語る
人たちがいます。それら一つ一つは聖書と関わり
があるテーマであるとしても、それがいつの間にか真の福音に取って代り、それを推進するための人間の考え、
人間の手法、人間のプログラム、人間のテクニッ
クが強調される。キリストの十分性、福音の十分性が後ろに追いやられて、祝福は人間のある種の行ないにか
かっているかのように語られる。それはまさにキリ ストの福音をひっくり返しかねないものです。
さて、パウロはほかの福音を伝える人たちについて、厳しい言葉を8~9節で語ります。「しかし、私たちであ
ろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣
べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言った
ように、今もう一度私は言います。もしだれか
が、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきで
す。」 「のろわれるべき」と訳されている言葉
は、ギリシャ語の旧約聖書では「聖絶」を指す言葉です。つまり破滅へと定められ、取り分けられた人や物に下
る神の呪いを指す言葉です。しかしパウロは単な
る個人的な怒りや憎しみから、この言葉を発したのではありません。彼はここで「私たちであろうと、天の御使
いであろうと」と言ったように、自分を除外して
いません。さらには天の御使いであってもそう。どんなに高い地位にある人、位の高い存在であろうと、このこ
とには変わりがないということです。
また、パウロは9節で「今もう一度私は言います」と言って、8節の言葉を繰り返すように語っています。ここ
にもパウロがただ激情にかられてこの言葉を発し
たのではないことが示されています。なぜこのように「のろわれるべき」なのかと言えば、それは先に見たよう
に、キリストの福音をひっくり返してしまうから
です。神は私たちを救うために尊い御子を与えてくださいました。御子は大きな犠牲を払って十字架への道を歩
まれ、ついに私たちの贖いを成し遂げてください
ました。なのにもし私たちがそのキリストの恵みを不十分なものとし、人間の行ないを足す必要があると語るな
ら、キリストがしたことを無にしてしまいます。
神が尊い一人子までささげて備えてくださった救いを台無しにしてしまいます。そのようなことを教える者は確
かにのろわれなければならないのです。
パウロは最後10節でこう言います。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。」 これはパウロに
対するユダヤ主義者たちの批判を土台にしたも
のです。彼らはこんな風にパウロを批判したのでしょう。「パウロが異邦人たちに割礼を受けなくても良いし、
救われるためにイスラエルの儀式を守らなくて良
いと言っているのは、人に取り入ろうとしているからだ。彼はそうして、受け入れられやすい福音を語って、
人々の歓心を買おうとしているだけだ。」 パウロ
はその言葉を念頭に置いて「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。」と問うのです。彼が言いたい
ことは、私は人に取り入ろうとしているはずな
し、ということです。パウロは今、8~9節で他の福音を語る人たちへの厳しい呪いを宣言しました。もし彼が
人にこびへつらい、人の顔色を伺う人間なら、こ
のような言葉を言うはずがありません。パウロが人間に取り入ろうとしているのでないことは明らかです。
そんな彼もかつては人の歓心を買おうとする生き方をしていました。10節の「もし私がいまなお」という言葉
は、彼が以前はそのような生き方をしていたこ
とを暗示しています。ピリピ3章5~6節:「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの
分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法に
ついてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない
者です。」 その時の彼は、ユダヤ人として色々
なことを誇ることができましたし、人々の間で名声を博し、誰にでも喜んで迎えられました。そこに彼は自分の
価値を見出していたのでしょうし、そうして人々
の歓心を買うことが彼の動機の中心的な部分にあったのでしょう。しかし彼はダマスコ途上でイエス・キリスト
に出会って、全く生き方が変えられました。彼は
それまで自分が誇っていたものはちりあくたに過ぎず、自分は自分を救えないどうしようもない罪人であること
を知りました。ところがそんな汚れた自分をイエ
ス・キリストは無限の価値を持つ十字架の犠牲をもって救ってくださった。救いのために何もできない自分のた
めに、キリストが一切のことをしてくださった。
そのことが分かった時、パウロは人の歓心を買う生き方をやめたのです。その必要は消えたのです。彼のするこ
とはただキリストのしもべとして生きること。彼
は10節で「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。」と言っていますが、
神に取り入るとは、神の前で点数稼ぎをするとい
う意味ではありません。自分はもはやキリストの一方的な恵みによって神に全く受け入れられる者となってい
る。そのことが分かった時、彼の前に残されている
のはただキリストのしもべとして生きること、また人ではなく、神をお喜ばせし、神の栄光のために生きること
だけだったのです。
私たちはこのキリストにある恵みの福音をしっかり受け取って生きているでしょうか。このキリストの福音に
しっかり立たない時、私たちは人に取り入ろうと
する生活に引き戻されやすいでしょう。あるいは神に対しても点数稼ぎをしようと突き動かされる生活をしやす
いでしょう。しかし私たちがもしパウロが伝える
キリストの福音にしっかり立つなら、その心はどっしり定まるはずです。もはや私は人に受け入れられるため
に、また神に受け入れられるために何かをする必要
はない。必要なことは全部キリストがすでにしてくださった。そのキリストのみわざのゆえに、私は全く神に受
け入れられ、神の全き愛の中に生かされている。
そういう私たちに残されているのは、ただ神のため、キリストのしもべとして自分のすべてをささげて応答する
生き方のみです。パウロのこの姿を通して、私た
ちは今一度、自分がキリストの十分な恵みの福音に立っているかどうかを点検したいと思います。そして人に取
り入ったり、点数稼ぎのために神に取り入ること
から解放され、ただ恵みによって救われている大きな感謝をもって、キリストのしもべとして、神の栄光のため
に、私たちの全生活をささげ、神のみわざが豊か
にこの世界に現わされるために仕える歩みへ導かれて行きたいと思います。